193、未来 階層の頂
優香の言葉通り、葛原零が世界を元に戻そうとしても、フォトスの世界は決して完全には消え去らなかった。
シニスのダークによって強制的にパリンゲネシアの階層から放り出されて創られたパリンゲネシアの世界とは異なり、フォトスの世界は最初から優香や侑斗の世界に自然に溶け込み、互いに補完し合う存在であった。
その世界は、ゆっくりと人間の営む現実に浸透し、混沌の中にもしっかりと居場所を保っていた。
もしそれを完全に切り離してしまえば、人間の世界自体が崩壊してしまう―それほどまでに密接に絡み合っていたのだ。
だから、葛原零は苛立ちながらも、フォトスの世界をパリンゲネシアのように打ち砕くことはできなかった。
結果として、世界を覆い尽くすかのように広がるB・Wゾーンは、かつてのような「人間の世界」には戻らず、不安定なまま復元される景色と、そこに集う者たちは、同じ厳しい現実の中で耐えるしかなかった。
世界は、ヴェナレートが現れたときと同様、赤茶けた色彩と稀薄な空気の中で、崩壊寸前の真実を露わにしていた。
⸻◇
亜希と史音は、パリンゲネシアの世界が崩れ去る混沌の中、どうにか修一が付けたマーキングに従い、崩壊の渦に飲み込まれることなく脱出することができた。
そのマーキングの位置は、世界の歪みによって再演算を行わなければ、どこに通じるのか判らないという不確定な状態であったが、史音は巧みに計算し、正確な位置を特定した。
「亜希さん!」
突如、現れた亜希と史音に最初に気づいたのは、洋だった。
「松原さん」
久しぶりに互いの顔を見られたことで、亜希と洋は、思わず温かな笑顔を交わした。
その一方で、葛原零はようやく全身の力を抜き、崩れた大地にひざまずいた。
「亜希さん、良かった。戻って来れたんだね」
零は、か細い声でそう語った。
その隣で、全く関心を持たれていない史音が、口元をわずかに歪めながら自己紹介を始める。
「ああ、ええと、諸君、アタシを覚えてるかな? かつては天才美少女だった西園寺史音だ。今は、ちょっと天才美女になっちまったが……」
史音は言葉を途切れさせると、零の背後に横たわる一人の女性と、倒れている男と女――二人が横たわる光景に視線を落としながら続けた。
「倒れているのは、鳳ハルカ、優香の一番弟子だった奴だ。見込みのある奴だったのに、優香の指示で葛原零の警護を任されていたのか」
史音の声色は、どこか寂しげで、状況の厳しさを物語っていた。
「鳳ハルカって、あの……!」
亜希は、遠くにいる彰や琳の方へ目を向けた。
「彼女がずっとパリンゲネシアから私たちを守ってくれた。亜希さんに力が届けられるまで、なんとか世界を支えてくれたのは彼女の献身のおかげ。もし彼女がいなければ、今の私たちはなかったはず」
零の言葉を聞いた亜希は、すぐさま彰と琳の元へ駆け寄った。
「彰くん、ハルカさんは……?」
彰は、ただ静かに首を横に振るだけだった。
「亜希さん、鳳ハルカは、私を助け、みんなを救って、そして……死んじゃったんだ」
琳は涙に濡れた顔で、亜希にすがるように訴えた。
亜希は、倒れているハルカの身体に向かって、そっと手を伸ばす。
『あなたたちの力を、どうか貸して……』
目を閉じ、心の奥に秘めた力を解き放とうとする。
その背後から、史音が低い声で告げる。
「亜希、やめろ。無駄だ。おまえは神様になったつもりか?」
「だって、史音。こんな彰くんを見ていられないんだ」
琳も、すがるような視線を亜希に向ける。
その情景の中で、亜希はあふれるアウラに囚われ、どうすることもできなかった。
「まず、空を見ろ!」
史音の鋭い声が、混沌とした空に響く。
「今、この世界は宇宙と繋がっていない。おまえは力を使えない。そして、霧散師という存在は、もともと実在そのものが稀薄なんだ。たとえおまえが力を使えたとしても、その力ではハルカの身体は再生する前に吹き飛んでしまう」
亜希は、初めて聞く「霧散師」という言葉に戸惑いながらも、理解できずにいた。
「亜希さん、その娘の言う通り。彼女は誰にも救えない。彼女の死を起点に、世界が大きく変貌した。それを翻すことは、世界そのものを破壊することになる」
亜希は、腕を下ろし、うつむいた。
「彰くん、ごめん」
やがて、ハルカの身体は半透明に浮かび上がり、まるで霧のように散っていった。
「ああ、ううっ、おおおお……」
彰の腕は、空を切るように振られ、散り散りになったハルカの欠片は、風に運ばれていった。
⸻
嵐のように激しく変貌した世界の中、残された亜希たち6人は、ただ沈黙しながら俯いていた。
彰は、全ての生気を失い、膝を上げることすらできなかった。
涙は枯れ、魂はハルカを追い、どこか彷徨っているかのように見えた。
亜希は、抜け殻のような彰に近づこうとしたが、その直前に、零が素早く座り込んだ彰の背中に手を置いた。
「彰……あなたの世界のひとつが終わった。
私は、あなたが次の世界へ進むために、何をしたらいいのか知りたい。
私にできることなら、何でもする。私は彼女に助けられたから……」
零は、か細い声でそう告げながら、膝をついて彰を後ろからしっかりと抱きしめた。
彰は放心状態で、何も反応できなかった。
すると、史音が、純粋に感心した様子で口にする。
「ほう、葛原零にそこまで言わせるとは、凄いな。何で名前だ?」
亜希がすかさず、史音の発言を制して答える。
「牟礼彰くんだよ。私はともかく、零さんがずっと近くに置いた男だからね。凄いに決まってる。史音、ちょっと輪から外れなさい」
その言葉が、互いの間にかすかな温もりと、切なさをもたらしていた。
史音は、決まりが悪そうにそっと距離を取っていた。
気がつけば、彼女はいつの間にか10メートルほど後ろへと移動していた。
空気が重い。
彰の肩は、まだ沈んだまま。
琳と洋が、彼に向かって優しく声をかける。
「彰くん……いつか、ハルカさんと別れて以来、私たちはずっと一緒にいたよね」
亜希の声は震えていた。
「これからも、そうしよう。ここにいるみんなで、一緒に生きていこうよ」
だが、彰は動かない。
彼の目は、まだ何も映していないようだった。
「彰くん、すぐには無理だろうけど……」
洋が静かに続ける。
「僕たちは、零さんと同じ気持ちだよ。僕たちが支えるから、とりあえず立ち上がろう」
少しだけ、彰の背中に近づきながら、優しく語りかける。
琳も、涙を拭いながら声を震わせる。
「彰さん……こんなにも、あなたを想っている人がいるんだよ?」
彼女は必死に言葉を絞り出した。
「彰さんに好意を持ってる女性だって、たくさんいる。だから……お願い、私たちを見てよ!」
琳の言葉に、彰はわずかに唇を動かす。
それは、掠れた声だった。
「……他の女なんか、どうだっていい」
沈黙が降りる。
「俺は、ハルカ先輩が”女”だから好きになったんじゃない。
ハルカ先輩が”鳳ハルカ”だったから、好きだったんだ」
その声は、張り詰めた糸のように、細く、切れそうだった。
「先輩と離れて、みんなと一緒にいたときも……片時も、先輩のことを忘れたことはない。
これからも、ずっと……もう、俺はこれ以上、何も失いたくない」
零は、彰を抱く力を強めた。
「……私も同じよ」
彼女の囁きは、どこまでも静かだった。
「もう……私が本当に手に入れたかったものは、どこにもいない。
私のユウは、もう世界のどこにもいないのよ」
世界が誰にとっても壊れていくのなら、
傷ついた者たちは、その破損した心を、
修復することもできないのだろうか?
亜希は思った。
ようやく帰ってきたはずの場所が、
知らぬ間に、まるで別の世界になってしまったかのように感じる。
侑斗は、今どこにいるのだろう?
そして、彼と共にいるという椿優香は――?
⸻◇
ベルティーナは、最後の階層の階段を踏みしめた。
階段の最上段に立ち、彼女は一歩、足を前に出す。
その瞬間――
周囲の空間が変わる。
パリンゲネシアと戦った階層と同じように、
この場所でも、彼女は”人の姿”を保つことを許されていた。
しかし――
この階層全体が、淡いエメラルド色に点滅している。
いや、それは――
「……光?」
ベルティーナは目を細めた。
点滅する光が、無数の粒となって揺らめいている。
それは、まるで星のように輝いていた。
彼女はそっと視線を下げた。
遥か下方には、赤茶けた地球の姿がある。
くすんだ色をした、その星を見下ろしながら、
ベルティーナはゆっくりと足を踏み出した。
この階層を支配する存在――シニスのダーク。
彼らの元へと向かうために。
歩みを進めると、次第に木々が生い茂る森が姿を現す。
緑色の点滅――それは、ただの光ではなく、
この森を覆う植物らしきものが放つ、淡い輝きだった。
その幻想的な景色の中で、
ベルティーナは、微かな囁きを聞いた。
『遥か下層世界の人よ……ここまで来てしまったのだな』
声が、森の奥から響いた。
ベルティーナは立ち止まり、視線を向ける。
その先に――
彼女の”次なる戦場”が、静かに待ち受けていた。




