192、未来 此岸と彼岸
亜希がシニスのダークのいる階層を超え、星の声を導いたとき、ダークの群れはすでに数十に分裂し、それぞれの細い線が、天の先へと伸びていた。
その線の先から、此岸にいる者たちへ向かって、不可解な力の流れが伝わる。
一体のダークが、その糸に貫かれた。
瞬間、それはシニスのダークとしての存在を失い、跡形もなく消滅した。
だが――それは大したことではない。
ダークそのものが、上位回路としての役目しか果たさないのだから。
しかし、それでもダークたちは疑念を抱いた。
彼らをこの星に植え付け、成長させようとした創造主の計画は、
いつからか微かに狂い始めていた。
ダークたちを支える階層――彼らの此岸。
意識負荷分配を調整するために配置された模造の地球すらも、
いつの間にか不確かなものへと変わっていた。
何故ただの一階層の生物が、ここまでの力を身につけ、
なおも一様な思考形態を完成させずにいられるのか?
何故彼らは、個でありながら、集団でもあり続けられるのか?
ダークたちは独自の思考回路で演算を行う。
人間たちは認識する力によって、ミクロの階層に干渉することができる。
それ故に、彼らが個々の認識を捨て、一様な形でミクロの世界を受け入れれば、
その世界の発現する可能性は単純化され、よりエネルギー順位の低い、安定したものとなる。
やがて、彼らの階層は”安定した不存在”となり、
上位存在の意志によって形を与えられたものだけが残る世界へと変わる。
その完全なる秩序こそが、ダークたちを創造主の”真の子孫”として完成させる――はずだった。
だが――
もし、彼らがミクロの世界だけではなく、
星の世界の遥か広大な階層と繋がりを持っているとしたら?
その可能性に思い至り、ダークたちは否定する。
「そんなことはあり得ない」
それができないからこそ、創造主はこの地球を選んだのだ。
創造主がやってくるまで、もうそれほど時間は残されていない。
この時、ダークたちはまだ、“後天的な理由”によってそれが起こったことを知らなかった。
⸻
零は、亜希から受け取った強大な力を振るい、
まずはBWゾーンに侵入したパリンゲネシアの幻妖の群れを吹き飛ばしていった。
個体として見れば美しかった妖精のような者たちも、
この無秩序な洪水のように溢れ出してくる様は、ただ不快な存在でしかなかった。
B・Wゾーンの深緑を濁す異形たち――
零の手に宿った巨大なエネルギーの剣が、
その無数の影を次々と消し去っていく。
やがて、パリンゲネシアの幻妖が完全に消え去ると、
零は3つに重なった世界の統合を始めた。
ハルカの亡骸に静かに寄り添う彰も、
自らの犯した行為に打ちひしがれる琳も、
ただ観測者のように世界の変化を見つめる洋も――
世界の色が混ざり合い、
零の創る新たな世界が、
かつて彼らが帰りたかった”故郷”へと復元されていく様を、
ただ見守ることしかできなかった。
零にとって、これは二度目の世界の再生だった。
一度目は、零自身が世界の崩壊を引き起こし、亜希がそれを再生した。
そして今度は、亜希の力を使い、零自身が己の帰るべき場所を再生する。
零にとっての僥倖。
かつて、彼女はユウ一人を欲した。
だが今、彼女の価値観は完全に書き換えられていた。
「……ごめん、彰」
圧倒的な力を振るいながら、零は彰に詫びる。
「今の私でも、彼女を復元することはできない。
他の地球に転創することも……」
彰は、何も言わなかった。
ただ――
ハルカの死が、すべての起点となったように思えた。
彼女の死が、世界を揺るがし、
そして、今の変化をもたらした。
だが、それは何の慰めにもならなかった。
⸻◇
「下の世界で……何が起こっている?」
パリンゲネシアの声が震えた。
「女王よ……おまえは一体、何を引き起こしたのだ……?」
その言葉に、ベルティーナはふと憐憫を覚えた。
この存在に――
自分を嘲笑し、
地球の人々を貶め、
そして、彼女自身に殺戮を強いた、この存在に。
人の愛の哀しみを笑ったパリンゲネシアの貌が、
この瞬間、ひどく哀れなものに思えた。
だから――
彼女は答えた。
「……パリンゲネシアよ」
冷たく、けれどどこか遠い目をして。
「私には、もったいないほどに優秀な友人がいる」
「……何?」
「その優秀さときたら、これまで出会ったあらゆる人間や道具を総動員しても、
全く足りない価値と知性の塊だ」
ベルティーナは静かに微笑んだ。
「私は彼女を、世界の誰よりも信頼している」
パリンゲネシアは不快げに歪む。
「なぜなら――」
ベルティーナの眼が鋭く細められた。
「私の邪魔をするものや行為を、どんな時でも、どこにいようとも排除してくれるからだ」
枝の神子の完成形。
しかし、それはもはやどうでもいいことだった。
重要なのは――
史音が、常に最良の手段を見出すということだ。
「……そいつはおまえ並みに化け物だな」
パリンゲネシアが低く嘲笑する。
「そうだな」
ベルティーナは淡々と答えた。
「こんな私でも、必ず味方をしてくれるのだから。
まともな存在ではないよ、さて――」
彼女は、すでに先を見据えていた。
……………
ベルティーナは静かに立っていた。
彼女の足元に広がるのは、崩壊の余韻が残る世界。
パリンゲネシアの根も幹も枝も、すべてが打ち砕かれ、かき消えていく。
もはやそこに存在するのは、何の形も持たない虚無だけだった。
ベルティーナは、その場に残るただ一つの影へと言葉を向ける。
「パリンゲネシアよ。おまえは、私に打ち倒されるまでもなく、この場で消える」
彼女の声は冷ややかだったが、どこか哀れみを含んでいた。
「だが、おまえが望むのなら……消え去る前に、私が引導を渡してもいい」
パリンゲネシアは、その憐れみに酷く不快感を覚えた。
「私は、おまえたち人間の醜さと愚かさの塊だ」
淡々とした言葉が、世界に溶けていく。
「私が消えるということは、それがまたおまえたち人間に帰るということだ……
それを承知しているのなら、私を滅ぼすがいい」
ベルティーナは、ゆっくりと微笑んだ。
「人間はな……己の悪行を誰かに譲って、許されるような存在になってはならない」
彼女は静かに言い放つ。
「己の不条理は、自身で引き受け、排除していかなければならない」
蒼白い炎が、彼女の手に灯る。
「おまえは要らないんだよ」
その瞬間――
パリンゲネシアは完全に消滅した。
根も、幹も、枝も――
その存在が持つ全てが、燃え尽きるように消え去った。
だが、その後――
その階層には、ベルティーナやパリンゲネシアとも価値観の異なる、
未知のものが、滝のように流れ込んでくる。
ベルティーナは、その光景をしばらく眺めていたが、やがて小さく呟く。
「さあ……次は”真のパリンゲネシアの階層”にいるシニスだな」
彼女はゆっくりと歩き出した。
「……まだ長い階段の途中だ。先は遠い」
⸻◇
「……空がオレンジ色になっていく」
フライ・バーニアの氷原に立つ侑斗は、目の前の光景に目を細めた。
白銀の大地に、夕暮れのような橙色の光が差し込む。
その光は、どこか懐かしい感覚を呼び起こす。
「青い空じゃなくても……俺たちの世界が戻ってきたってことなのか?」
オレンジの輝きが、氷原に揺らめく影を落とす。
「史音がどこまで計算していたかは分からないけれど」
隣で、優香がぽつりと呟く。
「レイが創る世界は、自分たちが帰るにふさわしいものになる……
史音は、それを確信していたんだと思う」
優香は、遠くを見つめるように言葉を続けた。
「史音は、一度しか零に会っていないのにね」
侑斗は、彼女の言葉の真意を正しく理解できているか、自信がなかった。
ただ、史音も零も、愚直なまでに真っ直ぐな人間だった。
だからこそ――
第一誘導者として、史音は”正しい起点”に火を灯すことができたのだろう。
「……これで終わるのか?」
侑斗は、フライ・バーニアの下に広がる大地を見下ろした。
そこでは、まだ世界の混濁が続いている。
濁った色彩が、地平線を染めたまま動かない。
「俺たちは世界を取り戻して……そこへ帰ることができるのか?」
「……残念だけどね」
優香は、肩をすくめる。
「これで終わるほど、創造主は簡単に世界を壊したわけじゃないんだ」
オレンジの光に、彼女の影が長く伸びる。
「これで、パリンゲネシアの世界は完全に崩壊するだろうけど……
彼らが作ろうとした”私たちの下位回路”としての役割は、
すでに”私たちの存在”と同化している」
優香は、ゆっくりと息を吐く。
「だから、シニスは消せない」
侑斗は、眉をひそめる。
「シニスは……?」
「不存在としてのシニスは、“実在”としての私たちと相補的な関係にある」
優香は続けた。
「だから、フォトスの世界が消えようが、彼らは”世界”から消えることはない」
⸻◇
「……亜希」
史音は、かすかに息を呑む。
「おまえの力は、アタシの予測の100倍だ」
彼女は、ぎこちない顔で、亜希を見つめる。
「まさか、一回の波動で……世界をひっくり返すとは思わなかったぜ」
その顔は、驚きと戸惑いが入り混じっていた。
そして――
「……まあ、その、なんだ」
史音は、引きつった顔で、辿々しく言葉を紡ぐ。
「いろいろ言いたいことはあるけど……これからも、仲良くしような」
その声には、確かに安堵が滲んでいた。
⸻
パリンゲネシアの世界の崩壊が始まった。
虚空の裂け目が広がり、大地がゆっくりと歪み始める。
周囲に満ちていた不気味な緑の光が、次第に薄れ、消えていく。
この世界は、もはや長くはもたない。
「行くぞ、亜希!」
史音は、手を差し出した。
亜希は頷き、二人は修一が示した脱出経路――
マーキングが示す光の道へと向かって駆け出した。
崩壊する空間の中、
彼女たちは、ただ前へと走り続けた。
そして――
パリンゲネシアの世界は、完全に崩壊した。