191、未来 星々の槍
亜希の意識は、果てしなく続く階層の階段を駆け上がっていった。
意識は重力から解き放たれ、次第に身体の感覚すら希薄になっていく。
やがて、彼女は遥か下方に、これまで見たことのない地球の姿を捉えた。
それはまるで、宇宙の最上階層から覗き込んだ世界のようだった。
青く、美しく、そして――深く傷ついている。
次の瞬間、亜希は「銀河の声」を聞いた。
痛々しく、悲しげなその声を。
(……そんなに、傷ついているの?)
彼女は精一杯、その声を受け止めようとした。
意識は、無限に広がる星々の間を彷徨いながら、地球の苦しみを感じ取っていた。
⸻
次々と湧き出るパリンゲネシアの幻妖が、零たちのいる空間を侵食していた。
黒い渦のように溢れ、あらゆるものを飲み込もうとしている。
その混沌の只中で、血を吐き、崩れ落ちたハルカ。
彰は呆然と立ち尽くし、その光景を見下ろしていた。
なぜ倒れていたはずのハルカが、自分たちの前に立ちはだかっていたのか――理解できない。
「洋、彼女の身体を私の後ろまで運んで」
零の冷静な声が響いた。
洋は、静かに頷くと、動かない彰と琳を避けるようにハルカの側へ回り、
慎重に彼女の傷ついた身体を抱き上げた。
ハルカの体温は、すでに驚くほど冷たい。
零の背後にハルカを運んだ直後、琳が震える声を上げた。
「……何で? なんでなの? どうして、あんたが私を守るの?」
琳は涙に濡れた顔で、ハルカを見つめていた。
確かに彼女たちは見知った仲だったが、互いを庇い合うような関係ではなかった。
ハルカは、痛みに歪む顔のまま、かすれた声で答えた。
「……はぁ……私はな、お前が彰を守って死ぬのが……嫌だったんだ……それは……私の役目だから……」
(……そんな理由で?)
そんな矮小な理由で、自分を助けたというのか?
彰は、ようやく目の前で起こった出来事を、認識した。
「先輩……」
崩れるように膝を落とし、倒れたハルカの側へと寄る。
琳も同じように座り込み、涙をこぼしながらハルカを見つめていた。
彼女の顔は、すでに涙でぐしゃぐしゃだった。
「……ははは……冗談だ……よ……彰に何かあったとき、すぐ……対応できるよう……
ずっと構えていただけだ……だから、小鳥谷琳、お前を助けたのは……ただの偶然だ……」
ハルカの視線が、わずかに開かれた瞳が、ゆっくりと彰を捉えた。
「先輩、ごめん……俺は……俺は……結局、貴女のために何一つできなかった……でも……」
周囲は、すでに幻妖たちの黒い波で埋め尽くされていた。
「きっと……もうじき、先輩のところに行ける」
涙を堪えることができず、彰は嗚咽を漏らしながら、ハルカの身体にしがみついた。
「……どのくらい……いるんだろうな……自分の死を……悲しんでくれる人間の前で死ねる人間は……
だから……私は……満足だ……」
最後に、彼女は彰の肩に手を置き、囁くように続けた。
「だがな、お前は……最後まで足掻け。みっともなく……現在を生きろ……
あぁ……私は……ずっと……」
そこで、ハルカの存在は消えた。
彰は、震える声で呟いた。
「先輩……同じだ。俺は……死んでも貴女のものだ」
⸻◇
ベルティーナは、パリンゲネシアの触手に縛られたまま、床に映された映像でハルカの死を認識した。
彼女の全身が、怒りで震えた。
「どうした? 人でなくなった女王よ」
パリンゲネシアが、面白がるように嗤う。
「今のつまらない無価値な女の死ごときで、お前ほどの存在が、何を震える?」
さらに嘲るように続ける。
「知っているか、女王? ただの生殖本能に愛だの何だの感情に意味を求めるのは、この星の全階層世界で人間だけだと。
それも、自らを蝕む負の感情としてな。不合理を自ら作り出す間抜けな生物。
シニスにも不要だと判断されたお前たちの自己陶酔――」
パリンゲネシアは、哄笑する。
「ハハハハ! これが”楽しい”という感情か! お前たち人間は、なんと愉快な存在だ!」
その瞬間――
ベルティーナの身体が白熱し、自らを縛っていたパリンゲネシアの触手を粉砕した。
「笑ったな、パリンゲネシア……!」
彼女の全身から溢れた熱が、周囲を焼き尽くしていく。
「人の愛の哀しさを、笑ったな!!」
声とともに溢れる光が、大地を震わせる。
「このラナイの女王の感情に触ったな……!
打ち滅ぼしてやるよ、パリンゲネシア! その腐った根も、幹も、枝も、すべて消し去ってやる……!!」
パリンゲネシアは不適に笑った。
「ようやく選択したな。私を倒し、下の世界を見捨てる選択を」
⸻
クリスタル・ソオドを構えた侑斗の腕を、優香が掴む。
彼女はゆっくりと零たちの居場所を探し続けていた。
急がなければならない――だが、史音の策略を成功させるには慎重に、精密に行わなければならない。
優香は、侑斗の腕を少しずつ動かし、微細な振動を読み取るように調整していく。
そして――
優香の腕が、急激に大きく振れた。
一点で、ぴたりと止まる。
侑斗は怪訝そうな顔で、自分の腕を掴む優香の手を見る。
その手が、微かに震えていた。
「……ハルカが死んだ」
優香の囁くような声が、静寂を切り裂く。
「だから、もうレイのいる座標は特定できた」
「……ハルカが死んだ?」
侑斗は、腕を掴んだままの優香を見つめた。
鳳ハルカが――あの、誰よりも強く生き抜いてきたハルカが、本当に?
「ハルカの千切れた意識が、私の元に流れ込んできた」
優香の声はかすかに震えていた。
「だから今、零のいる場所がどんなに揺らいでいても、私には分かる」
彼女は目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
「さあ、このままクリスタル・ソオドで、零の場所を示さない全ての可能性を切り裂いて」
侑斗は黙ったまま、優香の言葉に従った。
何も言葉を発することができなかった。
何故なら――
優香の瞳から溢れ出た涙が、侑斗の腕を伝って流れ落ちたから。
その悲しみが、痛いほどに伝わってきたから。
⸻◇
動かなくなった亜希の身体を、史音は強く揺り動かした。
「亜希、もういい、戻ってこい」
彼女の声には、焦りが滲んでいた。
「早くしないと手遅れになる……いや、もう手遅れかもしれない」
少しの間が空いた後――
亜希の意識が目覚める。
瞬間、彼女の身体がばねのように跳ね上がった。
亜希は頭を押さえながら、呆然と呟く。
「……っ」
「落ち着け」
史音が静かに告げる。
「とりあえず意識を身体に馴染ませろ」
その言葉に導かれるように、亜希はゆっくりと精神と肉体を同化させていく。
次第に意識がクリアになり、目の前の史音の表情がはっきりと見えた。
「……どうしたの、史音?」
「優香が刻奏音で、葛原零の居場所を伝えてきた」
史音の声が重い。
「しかもアイツ、泣きながら送ってきた」
亜希の胸がざわめいた。
――外の世界で何が起きたのかは分からない。
だが、亜希の知る椿優香は、そう簡単に泣くような女ではなかった。
「宇宙まで行ってきたよ」
亜希は、視線を遠くへと向ける。
「声とは……どうにか繋がることはできた。でも、すごく細い線でしか繋がってない」
彼女は己の力の微弱さに、忸怩たる思いを抱いていた。
こんなか細い力で、一体何ができるのか――
だが、史音は何の躊躇もなく、長い木の枝を拾い、真っ直ぐに仄暗いパリンゲネシアの壁を指差した。
「亜希、それで十分すぎるくらいだ」
力強い声だった。
「おまえは今回、初めて”声”と直接繋がったんだからな」
亜希は戸惑いながらも、史音の言葉に耳を傾けた。
「あの壁の向こうに、優香が知らせた葛原零の座標がある。そして最も近い修一のマーキングだ」
彼女はその方向をじっと見つめる。
「確かに細い線だな……でも、計算する」
史音は短く息を吸う。
「アタシの指示通りの場所に、宇宙の叫びを解き放て」
⸻
「……あなたは、霧散師の力をどう考えてる?」
優香が侑斗の腕を強く掴み、低く尋ねた。
「そりゃあ……パリンゲネシアやフォトスの奴らと対等に戦えて、しかも世界の壁を行き来できる、巨大な力……なんだろ?」
侑斗がそう答えると、優香の指がさらに強く食い込んだ。
「違うよ」
優香はかぶりを振る。
「霧散師は、自分の”実在”を――“存在確率”を、極限まで薄めた存在」
その言葉に、侑斗は息を呑んだ。
「だから、世界の壁と同化できる。だから、行き来できる」
「じゃあ……霧散師が戦えるのは?」
侑斗の問いに、優香は静かに続けた。
「霧散師は、自らを”空虚”にして、その内側に敵を呼び込む”空洞”を創る。
……ただ、それだけの儚い存在なんだよ」
(そういうことだったのか……)
侑斗は、優香の声の深さを、今になって理解した。
彼女は己を――苦しいほどに、稀薄な存在へと削り取っていたのだ。
⸻◇
零の前方に展開させた紺碧の輝石は、次第に掌握できる範囲を狭められていく。
その隙間から溢れ出すパリンゲネシアの幻妖が、空間を埋め尽くした。
何万もの幻妖たちが、一斉に嘲笑する。
『おまえたちは見捨てられた。女王はおまえたちを切り捨てた。この階層にいる全てのものを棄てる選択をした。だから、後はおまえたちはいなくなるだけ』
零の腕は、限界を超えていた。
彼女の両腕は千切れかけ、衣服は焼けただれ、かつての美しさは失われ、無残な姿となっていた。
「もう……いいよ、零さん」
唯一、立っていた洋が声をかける。
「僕は……ここで大好きなみんなと一緒に死ねるだけで、本望だ」
零の背中が、一瞬だけ震えた。
「いいの、洋……これは私の自己満足」
彼女は小さく笑う。
「私は――彼女のように、死にたいだけ」
B・Wゾーンが急速に縮小していく。
その場にいた全員が死を覚悟する中、ただ一人、セージだけが歪んでいく時空を見つめて呟いた。
「……女王、これが貴方の意志なのですか?」
⸻◇
「今だ、亜希!」
史音の声が響いた。
「全ての声を注ぎ込め!!」
亜希は深く息を吸い、意識を解放した。
「零さん……受け取って」
銀河の声が、宇宙から全ての階層を貫き、針のような細い線となってB・Wゾーンへ流れ込む。
その力は零の元へと届き、彼女の黄金のサイクル・リングに注ぎ込まれた。
――瞬間。
零の身体が、一秒とかからずに修復された。
そして――
漆黒の世界に、黄金の光があふれ始める。
「パリンゲネシア……もう、おまえは終わりだ」
数億個に分裂したアクア・クラインが、一瞬のうちに、薄笑いを浮かべていた幻妖たちを消し飛ばしていった。