188,未来 守るべきもの
パリンゲネシアは、醜怪な笑みを浮かべながら、闇に浮かぶ虚空の中でベルティーナを挑発するように語りかける。
「化け物の女王よ。今まではお前一人が人間だの鑑賞対象だのであったが、これからは逆だ。お前一人が、すべての観客となるのだ」
その言葉と共に、パリンゲネシアは空間の底部に、B・Wゾーンで葛原澪たちが戦う姿を映し出す。映像は濁った色彩の中、重苦しい世界を背景に現れ、そこには地球の命脈ともいえる葛原澪と、無数のパリンゲネシアの幻妖、そして戦い続けるハルカの姿が浮かんでいた。
映像に釘付けになったベルティーナへ、パリンゲネシアはさらに冷たく問いかける。
「女王よ。おまえが完全な化け物となったか、確かめてみろ。おまえが守るべきものを、先んじて壊してみたら、どうするつもりだ?」
その瞬間、ベルティーナの身体は、まるで凍りついたかのように動くことをやめ、虚空にただ固まっていた。
◇
時が経つにつれ、ハルカは幻妖を消滅させる頻度を、最初はゆっくりと、やがては加速させながら戦況を変えようとしていた。
「ええと、葛原零。状況が、少し変わってきたようだ」
ハルカは、ほとんど声色を変えることなく、冷静に澪に語りかける。
「そうだな……これは、想定外だ」
世界の壁から溢れ出す美しくも恐ろしい幻妖は、さらに激しく澪たちに襲い掛かろうとしていた。
「葛原零、少しだけ、この美醜がひっくり返った奴らを潰すのを、手伝ってもらえないか?」
ハルカの声が、低く重い響きを帯びる。
零はしばらく黙った後、苦悶の表情を浮かべながら答える。
「それは無理。さっきまでなら可能だったが、今は世界のバランスが崩れかけている。パリンゲネシアの世界が、まるで自らを放棄するかのように、酔歩で揺れ動いている。今、この世界を支えるだけで、私には手一杯だ……。ならば、鳳ハルカ。貴女の仲間、霧散師を呼ぶことはできないのか?」
ハルカは首を横に振り、ため息交じりに答える。
「いやそれこそ無理だ。こんなぐちやぐちやとした空間に、位相を跳ぶことは、霧散師でも、枝の神子でも到底不可能だ」
そして、ハルカはこの状況に対応できるのは、師匠のカラナ・ソーリア、椿優香か、セージくらいの者だと心の中で思った。
「それじゃ、仕方ない。私たちの実在を、B・Wゾーンの別の場所に移せないか?」
ハルカの問いに、零は苦しげな表情で首を横に振りながら答える。
「それも無理。ただ、修一がマーキングした場所、半径2km以内なら、多分、空間ごと移動できる可能性はある」
そのとき、パリンゲネシアの幻妖の本流が、次第に迫ってくるのを感じ、ハルカは苦虫を噛み潰したような顔で、渋々頷いた。
「わかった。それでいい。修一くんは、貴女の弟だったな。彼が、他の霧散師を導いてくれることを、心から祈ろう。移動先での、私たちの位置角度は、操れるのか?」
零は、ただ静かに頷いた。
「それでは、貴女の刻奏音で、私の指定する位置角度を読み取ってくれ」
ハルカの腕が、あまりにも速い動きで繰り出されると、その速度は周囲の者たちの視界から消え、気が付くと、彰が焦燥の声を上げた。
「先輩! 何か、俺たちに手伝えることはないのか?」
焦りと共に、彰は思わず口にしてしまった。
少しだけハルカが振り向き、冷静ながらも厳かな口調で返事をする。
「無い。全く無い。だが、そうだな、彰。ほかの皆を、葛原零の後ろに横一列に並べさせてくれ。先頭には、私が立つ」
ハルカがそう告げると、零の前に一歩踏み出す。彰、洋、琳は、零の後ろまで駆け寄り、正面から、右から彰、琳、洋の順に整列する。
その瞬間、彼らはまるで自分たちが空間ごと回転したかのような錯覚に陥った。
「葛原零。私の前方に、力を集約して、あの羽虫どもが出て来る穴を、出来る限り絞ってくれ」
ふっと、零は躊躇いながらも、ハルカの背に向かって呟いた。
「そんなことをすれば、貴女の負担は、何十倍にもなる」
ハルカは、冷静さを保ちながらも、毅然と答える。
「一度に対処する相手を絞るほうが、私には都合が良い。相手の力より、数を減らす方が理にかなっている」
ハルカの答えに、零は少し躊躇いながらも、全方位に散らばる紺碧の輝石を前方へと集中させた。まるで漆黒の闇に瞬く星々のごとく、輝石は空間に美しい輪を描き出す。そのサークルの中に、パリンゲネシアの幻妖が封じ込められ、BWゾーンへの侵入口が限定される。
しかし、その分、輝石に集められたエネルギーは圧縮され、圧倒的なポテンシャルへと変貌していく。ハルカは必死に全力を振り絞り、幻妖を霧散させようと奮闘する。
その時、幻妖の本流が、まるで荒波のように押し寄せ、ハルカの身体に大きな衝撃を与えた。彼女の体は唸りを上げ、両脚はよろめき、バランスを失い始める。
「やはり無理だ……貴女一人では、パリンゲネシアの全幻妖を相手にはできない。優香が来るのを待った方が良い」
ハルカは、痛みに耐えながらも、鋭い感覚で優香の気配を探る。その気配の間に、まるで針のような細さの障壁が見えた。
「しかし、師匠は遥か上空、ここから最も遠い場所にいる。しかも、大量のパリンゲネシアの羽虫が、霧散できる障壁を不安定に揺らしている。まあ……私は、自分の力でできる限りのことをする」
ハルカの疲弊は、後方にいる彰にもはっきりと伝わっていた。焦燥と不安が入り混じる中、彰は叫ぶ。
「先輩! やめろ! いくらなんでも無茶だ!」
ハルカは、喘ぐような声を押し出して答える。
「彰、取り敢えず、私はおまえを守って死ねる。だが、その後は……流石に責任は持てない、申し訳ないが」
その姿を見た零は、悲しげな表情で声をかける。
「貴女の想いは確かに真実。でも、それは貴女の自己満足、昔と変わらない」
ハルカは、かすかな声で返す。
「自己満足で何が悪い? あなたは昔、私に言ったじゃないか。『世界のために愛することをやめなければ、世界など滅びれば良い』と。だから私は、世界のためではなく、彰のために戦っている」
その声はか細く、闇夜に消え入りそうなほど小さかった。やがて、白熱した幻妖の塊が、激しい衝撃と共にハルカの身体を吹き飛ばす。呻き声も上げる間もなく、彼女は大地に倒れ込んだ。
「……まだ、まだ私は闘える」
そう呟き、ハルカは再び必死に立ち上がる。しかし、周囲からは「無理だよ、こんなの」と、琳が涙交じりに彰の左手にすがりながら叫ぶ。
その後、何度もハルカは打ち倒され、立ち上がる力も徐々に尽きていく。現場にいる全員が、死を覚悟したような静けさに包まれていた。
すると突然、パリンゲネシアの壁から這い出していた幻妖の流れが途切れ、零の瞳が一瞬輝いた。前方にいた幻妖は、一瞬にして吹き飛ばされる。
「!」
何が起こったのか、誰も理解できず、全員が呆然とその光景を見つめる中、零は遥かな高みを見上げ、静かに呟いた。
「女王、ベルティーナ……」
◇
その後、ベルティーナとパリンゲネシアは、互いに鋭く睨み合っていた。双方のいる階層から、ずっと下へと伸びるパリンゲネシアの幻妖の束が、地球の大樹の枝先で止まっている。べルティーナが人の階層にいるパリンゲネシアの幻幼の動きを止めたのだ。
パリンゲネシアは不愉快そうに、冷徹な視線をベルティーナに送る。
「ふん、そうか。さっき、私の中に入った時、私とこの階層世界との繋がり方をラーニングしたのか? それで、地球樹に干渉できるようになったわけか」
ベルティーナは、冷たい声で返す。
「それだけではない。私は、地球の大樹を上ってきた。ここから上は分からないが、道中の地球樹の繋がり方は、もうすべて分析済みだ」
下の階層へ向かうパリンゲネシアの力と、それを防ごうとするベルティーナの力が、互いに拮抗していた。
「全く、大したものだ。女王……ベルティーナとか呼ぶか? だがな」
薄気味悪い美しさを湛えたパリンゲネシアは、地面に腕をつけ、低く呟く。すると、ベルティーナの真下から、いくつもの蔦が這い上がり、次第にその身体を絡め始めた。
「この階層は、まだほとんど私が掌握している。だから、下に私の分身を送りながらでも、おまえを攻撃できる。もしおまえが、下の階層へ伸びる地球の枝を離せば、私の拘束は解かれ、私を倒すことすら可能になる。しかし、そうすれば、おまえが守ろうとした人間どもは……消え去るだろうな」
パリンゲネシアの言葉は、冷たく重く響いた。下へと流れる地球の枝から手を離せば、パリンゲネシアは対等以上の力で闘える。しかし、パリンゲネシアを倒したその先に、何が残るのか――。
ベルティーナは、地球樹への干渉を一旦解放する。ここで、自分が倒されるわけにはいかない。どうにかパリンゲネシアと戦いながら、地球樹を操作する手段を見出さなければならない。
だが、その一瞬の迷いを、パリンゲネシアは見逃さなかった。彼は、ベルティーナの身体を強い力で縛り上げ、風落移動を封じ込める。そして再び、パリンゲネシアの幻妖は巨大な流れとなり、下層へと向かい始めた。