187、未来 隠と影の死闘
亜希と史音は、夜の帳が降りるかのような静寂の中、地球の大樹の麓に佇んでいた。幹は古の記憶を秘め、無数の枝葉が闇夜に溶け込むように広がっている。二人は、上層へと続く謎めいた世界を、ただ無言で見つめていた。
かつて、ベルティーナが映し出したヴェルデの地球。その時、大樹は不気味に蠢き、妖しく震えながら輝いていた。しかし今は、まるで時間の重圧に耐え、微動だにしない静寂に包まれている。
「もう、戦いは終わったのかな?」
亜希はそっと、隣にいる史音の手を取る。史音は、亜希より一回り小柄ながら、その瞳には鋭い知性と確固たる決意が宿っている。彼女の、女らしい起伏を秘めた容姿は、冷静な思考で常に押さえ込まれている。まるで、どんな荒波にも揺るがぬ灯台のような娘であった。
「さあ、もうベルはここから辿りつけない上階層へいってしまったのかもな」
亜希は、史音から聞いたあの言葉を思い出す。
世界の階層は、エネルギーの配置と分布が生み出す境界線。各階層には独自の自己意識が宿るが、互いに干渉することはなく、価値観すら交わることはないはずだ。
だが、この地球には、はるか下層を認識するという行為が、状態をメゾの層へと連結させる生物が現れた。その行為が、上階層―特にパリンゲネシアの領域―に大きな影響を及ぼし、変貌したパリンゲネシアが、どこからともなく現れたシニスや創造主の目に留まる結果となったのだ。
亜希たちの階層が、3つの巨大な知成力によって引き裂かれた理由。それは、もともと3つの思考体が、自らの存在を守るために引き起こした運命の交錯に他ならない。
零とベルティーナは、人間が生存するためのB・Wゾーンを創り、シニスは創造主に認められる自分を生み出す苗としてフォトスの世界を築いた。パリンゲネシアは、上階層に存在する己の存在を再び支えるため、地球の大樹を乗っ取り、この階層を操作すべく、己の世界を人の階層に下した。そして、はるか上層の書き換えが迫る中、自らを守るためにこの世界を創り上げた。
こうして、3つの世界は地球の上に重なり合い、偶然にも重ね合わせられた。
フォトスとパリンゲネシアは、上階層から人間たちのいる階層へと干渉し、ベルティーナと零はミクロの世界、すなわち下層に強い影響を及ぼして、それぞれの世界を維持しているのだ。
その中で、かつての姿を保ち続けるのは、唯一B・Wゾーンだけであった。
最も強力な世界はフォトスであり、シニスのダークは地球樹を介さずとも階層間を自在に行き来できる。だが、パリンゲネシアは大樹を通してのみその力を発揮できるため、ベルティーナや澪のように量子の世界に干渉可能な存在の力を模倣し、最下層の弦の振動情報を操りながらBWゾーンと連結している。
フォトスの幻怪人がBWゾーンへ自由に出入りするのは、その存在力によるものだが、パリンゲネシアの幻妖は、上下の階層から自らを支えるためにB・Wゾーンと密に繋がっている。
フォトスが人間を取り込むのは、思考の偏向操作によって更にダークを完成させるためだが、パリンゲネシアは複写したB・Wゾーンの人間の知成力を使い、下から自らを支えるのだ。だから、フィーネはこう語る。
「パリンゲネシアなどどうでもいい。かつてのまま存在するB・Wゾーンさえ滅ぼせば、パリンゲネシアの存在も、儚く消え去るのだ」
――その時、亜希が低い声で問いかける。
「ねえ、史音?なんとなく私には分かるんだけど、多分、あのベルティーナという人は、パリンゲネシアを圧倒していると思う。私たちは、修一くんの言う離脱ポイントへ移動する準備をした方がいいんじゃないかな?」
史音は無言のまま亜希の方を向き、右手の人差し指をそっと口元に当て、少し俯きながら考え込む。その仕草は、夜の闇に溶け込むかのように静かで、確固たる内省を感じさせた。
数分後、史音は静かに口を開いた。
「うん、亜希がそう言うんなら、そうかもしれないな」
亜希は、自分の直感に史音が頷くとは思いもしなかった。
「おまえが、この前、地球樹に侵入した時、ずっと上階層へと昇っていきそうだっただろう? 多分、この木の天辺は宇宙にまで届いているんだろう。だから、おまえは上階層で起こっていることを、鋭く洞察できるんだ」
史音は再び、闇に輝く大樹の上空を見上げる。
「ただな、ベルが最後に勝つと言ったとしても、パリンゲネシアがそんなに容易に敗れるか? 何か、まともではない手段を講じてくるんじゃないか? その時、私たちにまだできることがあるかもしれない」
静かな夜風が大樹の葉を揺らし、二人の間に重い未来への決意と不安が漂っていた。
◇
パリンゲネシアは、予想もしなかったベルティーナの強大な力に、初めて恐怖を覚えていた。
この女は、エネルギーの最下層からこの階層全体の力を自在に操ることができる。パリンゲネシアが量子の世界から引き出す力とは、もはや比べるものではなかった。
ならば、どうすればいいのか。自分にできて、この女にできないことは何だろう? そして、この化物と化した女王の感情につけ込む方法は――。
逡巡する思考の中で、パリンゲネシアはひとつの結論にたどり着いた。
「この女が、本来守るべきものを壊せば、彼女の形をした化物はその防御すらできない」
その瞬間、ずっと静かに佇んでいた地球の大樹が、亜希と史音の頭上で激しく揺れ動き始めた。
巨大な枝が力強く伸び、枝先からは恐ろしいほど美しい幻妖たちが次々と溢れ出し、群れをなしながらパリンゲネシアの世界の壁の外へと向かっていく。
その光景をじっと見つめる史音は、苦々しい表情で口元を尖らせた。
「亜希の言う通りだ。パリンゲネシアは、もはやあらゆる余裕を失っている。こんな手段を選ばざるを得ないほど、追い詰められているんだ」
険しい表情の史音に、亜希は問いかける。
「……あのパリンゲネシアの妖精が、何処へ向かっているの? 何をしようとしているのか?」
史音は、あまり感情を露にせず、淡々と答えた。
「B・Wゾーン……今、その世界を一人で支えているおまえの本体、葛原零の元へ向かったんだよ」
*
その後、パリンゲネシアはまたも静かに語り始める。
「大した力だな、女王。おまえの力は、もう仮想膜にいくつもの地球の映しを生み出し、地球樹をこの星のコアに据え、階層世界を行き来できる上階層の創造主に匹敵するほどに進化している。」
その言葉には、相変わらず嘲笑を含んだ少女のような表現があった。だが、ベルティーナは、パリンゲネシアの表情が変わらないのは、単に笑っているのではなく、もともとの素の顔がそうであると理解した。
「おまえが消えれば、この階層はどうなるのだ?」
ベルティーナは、一切の表情を緩めることなく問いかける。
「多分、元の階層に戻すだろう。シニスのダークが……」
パリンゲネシアの声には、わずかに緊張が混じっていた。
「それならば、そうさせてもらうよ。パリンゲネシア、私は故郷の地球を改竄したおまえを、私を貶めたおまえを、最初から許すつもりはない」
その言葉とともに、真のパリンゲネシアから追放された無邪気な残酷さが、一瞬だけ表情を硬らかにし、すぐに元の素顔へと戻った。
「人形として創られた偽りの地球から来た女王よ。おまえがもし私を駆逐するのなら、私がこの階層すらも手に入れられないのなら、私はシニスにつく。こんな醜い私を作った人間を救う義理は、もはやない」
そう言いながら、パリンゲネシアはベルティーナとの間に映像を映し出す。そこには、パリンゲネシアの幻妖が巨大な束となり、下層へ向かっている様子が映されていた。
ふと、ベルティーナはパリンゲネシアの意図に気づく。
「そうだ。おまえは、階層の階段を上ってきた。しかし、ここから下の階層に干渉することはできない」
その通りだった。ベルティーナは、まだパリンゲネシアの憎悪の全てを理解しきれてはいなかった。
「馬鹿な。おまえを形作る下層の人々がいなくなれば、おまえも消えてしまうのだぞ」
努めて冷静な声を保つベルティーナ。
「言っただろう。私はシニスにつく。これから、おまえたちが造ったB・Wゾーンを破壊し、パリンゲネシアの世界ごとすべてをシニスのダークに引き渡す」
ベルティーナは一瞬沈黙する。
「……レイ・バストーレ、いや、葛原澪」
ベルティーナにできることは、ただそう願いながら呟くだけだった。