186、未来 汚れなき彩色
パリンゲネシアの思考形態が、人の形にゆっくりと収束してくる様は、まるで古びた鏡面に映るかすかな影のようであった。彼は、皮肉めいた微笑みを浮かべる。
「この女は……まだ感情に囚われ、人の不条理に心を震わせている。ならば、優しく認め、己の行動を止めさせてやればいいのだ。」
薄明かりの中、闇夜のような空間を漂うパリンゲネシアは、静かに語り始める。
「ベルティーナ、よくここまで来たね。僕は道を示すことさえなかったのに、君は必死に歩み続けた。」
その声は、冷たくもあり、どこか哀愁を帯びていた。ベルティーナは、涙に濡れた頬を隠すかのように、ユウを抱く腕に力を込める。彼女の瞳は、苦悶と希望が交錯する複雑な色をしていた。
パリンゲネシアは、ベルティーナの心の揺れに思いを馳せながら、さらに一歩踏み込むような言葉を紡ぐ。
「もう十分だ。ここまでの道のりで、君は僕の期待に応えてくれた。だから、これ以上は無理するな。残された時間を、君が信頼する人々と共に過ごせばいい。」
その瞬間、優しい声色でユウがベルティーナの髪を撫でる。柔らかな手の動きに、空気すらも温もりを帯びる。パリンゲネシアの計略は、ここまでは予定通りに進んでいたかのように思えた。
しかし、続く言葉は、氷の刃のように彼女の心を切り裂く。
「だが…君は、僕の言葉をそのまま信じる必要はない。君はいつも自分で選択し、内側から行動の答えを導き出してきた。それこそが、君の誇るべき知性だ。信頼に応える意志がなくとも、他人の信頼を自然に集める。君は、そのままで良い。僕は、君の行動を信じている。」
その瞬間、パリンゲネシアは、先程姉の幻影から始まったはずの、冷徹な戦略が、突然自律的に動き出すのを感じた。まるで操り人形の糸を、自らが切り離したかのように。苛立いを隠せぬ彼は、再びユウの身体ごとベルティーナの身体を、腐敗した枝のような暗い存在で貫いた。
二つの人影は、闇に呑まれるようにして、かすかに消え去った。
すると、どこからともなく、冷ややかな嘲笑が響く。
「なかなか、楽しい遊びだな、パリンゲネシアよ。そういうものか。お前は、本来の階層に存在する真のパリンゲネシアが、さらに切り離され、人の悪意によって濃厚な哀れな醜怪と化したのだな。」
その声とともに、パリンゲネシアの正面に新たなベルティーナが現れる。今まで身を包んでいたラナイの鎧は消え、代わりに質素なドレスに身を委ねた彼女の瞳は、曇りなく澄み渡っていた。
パリンゲネシアは、世界の壁から無数の触手を生み出し、ベルティーナの身体を再び貫こうと試みる。しかし、彼女の掌先から放たれた僅かな差時間の波動が、すべてを粉々に散らし、闇の中に消え去った。
「まだ分からぬか、パリンゲネシア。もはや、この階層を支配しているのはおまえだけではない。」
その瞬間、パリンゲネシアの内面に、誰かの悪意と情感が混じり合った醜怪が渦巻く。彼は、人の感情に呑み込まれている自分を感じ、苛立ちを募らせる。遥か下層から這い上がるこの女が、己の支配を奪おうとするなんて、到底許せない。
にもかかわらず、彼はなおも、自らの圧倒的な優位性に疑いを抱かなかった。
そして、彼の思考の中で、世界の掌握を取り戻す激しい衝動が弾けたとき、階層全体が激しく揺れ動いた。再び、無数の攻撃がベルティーナに向けて解き放たれる。ベルティーナの身体は、一瞬にして消し飛ぶかに見えたが、彼女の存在は、この階層のどこかに確かに痕跡として残っていた。
「レイ・バストーレの風落移動は、思いの外便利だな。次なる可能性へと、ただ移動するだけで防御が完結する。」
かつての宿敵、葛原澪の技――風落移動――を、ベルティーナは知らず知らずのうちに身につけていた。
創造主がシニスを生み出そうとした時、人間の誕生を予感させるほどの強大な力が解放され、シニスのダークによって世界の淵へと追いやられたパリンゲネシア。そのパリンゲネシアから、この階層へと突き落とされたのは、ただ人の悪意のみで構成された存在であった。だが、この階層こそは、彼の領域なのだ。
「この創られた人間が、ミクロな階層に干渉しようとも、ここにある構成要素は、すべて私のものだ。だからこそ、あらゆる可能性を、世界中に展開しよう。」
パリンゲネシアは、ベルティーナという女が存在する時空を、自らが創り出した無限の彩色で、隅々まで塗り尽くす決意を固めた。
まずは、この女をパリンゲネシアと同等の構成者として階層世界全体に展開させる。そうすることで、彼女の力は細分化され、分散されるのだ。
階層の壁から、無数の触手が再び這い出し、ベルティーナの全身を包み込む。冷たく光る触手は、まるで闇夜に蠢く影の如く、彼女を取り巻いていく。パリンゲネシアは、その触手の振動情報を巧みに導き出し、階層世界のあらゆる場所にベルティーナの存在を複製させる。
やがて、ベルティーナ自身が、まるで鏡に映るかのように分身を無限に広げ、その姿がこの階層全体に浸透していく様を、最初の個体が、そして次第に広がった無数の自分が認識する。
世界の色は、ベルティーナの真紅に染まり始め、次第にその輝きは、近しい者たちによって取り囲まれる。彼女を否定するために創られた存在たちは、初めは忠実にその役割を果たすが、次第に彼女を肯定するように変わっていく。
しかし、パリンゲネシアはそんな些細な動向に耳を貸さなかった。
「どうでもいい。ここに無限に広がる女の実在――ベルティーナ――を、私は完全に打ち滅ぼす」
中心に位置するパリンゲネシアは、乗っ取った地球の大樹から力強く枝を伸ばし、己のエネルギーを隅々まで注入する。まるで、大樹が新たな命を吹き返すかのように、階層世界の淵からも枝が幾重にも伸び出す。
その枝先から伸びる触手は、広がったベルティーナの存在確率を次々と貫き、真紅に染まった世界を、パリンゲネシア特有の白濁した色に染め直していく。
この階層に流れる時間は、かつてパリンゲネシアがいた階層よりも速く、ベルティーナが支配していた階層よりは遅い。
それでも、世界の色を変える作業は、パリンゲネシアにとって大した時間を要さなかった。
階層全体に散らばっていたベルティーナの存在は、次第に消え失せ、あの女はこの階層のどこにも存在しなくなった。
「終わった……」
パリンゲネシアは、深いため息とともに独り言をつぶやく。いつか上位のシニスのダークがこの階層を上書きするかもしれないが、あの小さき者たちが、先ほどのように這い上がることは、二度とないだろう。
この世界は、追放された上階層のパリンゲネシアだけのものだ。もちろん人の階層に展開したパリンゲネシアの世界も我らのものだ。人の不条理な悪意によって創造された彼は、ひとまずの安息を感じていた。
次の瞬間、パリンゲネシアの内側から、これまで覚えたことのない混色が渦巻く。誕生以来、一度も感じたことのない鮮烈な赤の煌めきが、彼自身の深層から姿を現した。
その声は、かすかに自嘲しながらも、冷徹な論理を帯びていた。
「そうなると思ったよ。まさか自分以外の世界の世界全てを否定するなんてな。だが私には、お前の中という避難場所があったのだ。やはりお前の思考回路は、自己矛盾に満ちている。世界は相互に依存し合っている。お前自身も例外ではない。私を完全に否定するには、お前自身も否定しなくてはならない」
その瞬間、パリンゲネシアの内側から現れたベルティーナは、かつての彼女よりもはるかに強大な力を放っていた。まるで、パリンゲネシア自身の力を吸い取ったかのように、彼女は新たな存在感を帯び、階層世界の未来を決定づけるかのように輝いていた。