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185,未来 記憶の脈絡

パリンゲネシアとベルティーナは、まるで雑然と汚い絵の具が勢いよく塗られたかのような、荒廃と混沌が漂う階層空間の中で、無言のまま互いに睨み合っていた。背景の壁は、ひび割れや染みが刻む時間の流れを感じさせ、冷たく鈍い光に包まれている。


その時、パリンゲネシアの背後に次々と現れる漆黒の瞳が、まるで無数の闇の使徒のように壁面を埋め尽くしていく。彼の顔に浮かぶ乾いた微笑みは、冷徹なまでの確信を滲ませながら、低く響く声でベルティーナに語りかけた。


「お前は、世界そのものを相手にしているという事実に、いまだ気づいていないようだな」


ベルティーナは、背後に広がる真空のような闇と対峙するかのように、深紅の光を放ち始める。まるで、血潮が流れるような輝きが、無情にも黒く侵食された空間を染め上げる。対照的に、パリンゲネシアは一切の表情を見せず、冷静そのものの眼差しを固定していた。


「可視化できるものに頼るお前の思考は、根本から狭い。すべての始まりを、お前が選んだのではないか?」


赤と黒の瞳が衝突し、互いの存在が対消滅するかのような激しいエネルギーが空間を震わせる中、ベルティーナは正面に立つパリンゲネシアに向け、右腕をゆっくりと伸ばした。彼女の体を纏っていた物質波は、解放の瞬間を迎えようとしていた。


その瞬間、ベルティーナの足元から黒い染みがじわりと広がり、そこから無数の小さな手が這い出してくる。細く、しなやかなその手は、触れた部分の肌を次第にどす黒く変色させ、まるで生気を吸い取るかのようだ。やがて、その小さな手の背後から、不思議なほどあどけない赤児の顔が現れる。焦点の定まらぬ瞳は、無邪気さと恐怖を同時に湛え、ベルティーナを見つめる。


かつて彼女が切望していたもの――その欲望の化身が、悍ましい姿で現れたのだ。赤児たちはゆっくりと、しかし着実にベルティーナの胸元へ這い上がり、彼女の身体を静かに、しかし容赦なく侵食していく。


「悪趣味だな。そんなにこの身体が欲しいのか? ならば、お前たちにくれてやろう」

ベルティーナの低い声が、冷たく空間に響く。黒い赤児たちは彼女の全身を覆い尽くし、その姿は歪み、硬直していく。すると、黒い染みの沼から、まるで捨て去られたかのようなもう一体のベルティーナの身体が現れ、かつて自分だったものごと、忌まわしい手で裂き放つ。


パリンゲネシアは、ほんの一瞬だけ表情に緩みを見せ、低く問いかける。


「お前があれほど欲しがったものを、こんなにも情け容赦なく切り裂くのか? あれほど惜しんでいた自らの肉体を、こうして捨て去るのか?」


ベルティーナは再び、時間すらも圧縮するかのような物質波を、容赦なくパリンゲネシアへと放った。


「ずれているな、パリンゲネシア。お前の人に対する思い込みは、あまりにも偏っている。実は、私は子供が大嫌いだ。そして、もう私は人ではない」


その言葉は、かつていつも優香や史音が口にしていたものと重なる。ラナイの国、いや、レイやユウの世界でも、子孫を守る反応は神聖視され、決して失われるべきものではなかった。だからこそ、優香の考えは理解しがたかった。しかし、今の自分には、彼女が遥か先を見据えていたということが、やっと理解できるようになっていた。


「子供は嫌い。もう、人ではない」――その言葉は、皮肉にも人間らしさを否定しきれず、むしろ人間であることの本質を露呈しているようにも感じられた。パリンゲネシアは、人々から授かったあの悪意を頼りに、ベルティーナの力がかつてのような絶対性を失い、精神的に脆弱になっていることを鋭く推理していた。ならば、そこに付け込むのが最善の策だろうと。


その瞬間、ベルティーナの視界からパリンゲネシアの姿が忽然と消え、代わりに彼女が最も信頼する者――西園寺史音の姿が浮かび上がった。無表情のベルティーナに向かい、史音の姿をした者が柔らかな声で語りかける。


「ベル、私はもう、お前がこれ以上変わり果てるのは望んでいない。お前が人を否定するその姿が、耐え難い。戻って来い。共に、別の道を模索しよう」


しかし、ベルティーナはその空虚な言葉に、心の奥底で冷笑を隠せなかった。本物の史音ならば、たとえ人でなくなったとしても、かつての友情に裏切りはなかったはずだ。今の自分を、否定するような言葉を口にすることはなかっただろう。


そう考えるや否や、ベルティーナは固い決意の中で、思考を一瞬に凝縮し、放たれた物質波の刃で史音の姿をしたものを容赦なく両断した。切り落とされた残骸が地に散り、血に染まったその姿は、まるで苦笑みを浮かべるかのように不気味であった。


その時、ベルティーナの真横から椿優香の声が静かに響く。


「ベルティーナ、本来の貴女の高潔な精神は、きっと今の貴女を許さないはずだ。かつては目的よりも手段を重んじ、その精神が人々を惹きつけたのだ。レイにはなかった、貴女独自の精神の力だ」


さらに、反対側から現れた侑斗が、少年のような澄んだ瞳で俯きながら、静かにベルティーナに諭すように語った。


「ベルティーナ、あなたはいつも物事を公平に見る力を持っている。真実を見抜こうとするその眼差しを、今の力と引き換えに失ってしまった」


一瞬、ベルティーナの瞳がかすかに輝きを失ったかのように瞬いた。その刹那、二人の姿は固まった表情のまま、まるで彫刻のように地に崩れ落ちた。勘の鋭い二人の表情が、ベルティーナの冷徹な感情を刺激する。彼女は、その表情さえも容赦なく切り刻むように、己の意志を貫いた。


「ベルティーナ、おまえは力に飲み込まれた。ラナイの女王としての矜持を失い、戦士としての誇りも、もはや微塵も無い」


冷たい声が虚空を切り裂いた。


ベルティーナの目の前には、姉──ヴェナレートの姿をした影が立っていた。鋭い眼差しが氷の刃のように彼女を射抜く。ベルティーナは眉間に皺を寄せ、吐き捨てるように言った。


「おまえは最低だ」


彼女の右手がゆっくりと持ち上がる。その指先から、差時間と物質波が絡み合った霧が立ち上り、空間を淡く揺らめかせる。


次の瞬間──


ヴェナレートは静かにその拳を両手で包み込んだ。


ベルティーナの呼吸が止まる。


ヴェナレートの口元が、柔らかく、安らかな微笑みをたたえていた。


「だがな、妹よ。それでいいんだ」


ベルティーナの瞳が揺れる。


「おまえには、自分で考え、演算し、処理する能力がある。ラナイの矜持など糞食らえだ。戦士の誇りなど塵芥以下だ」


言葉は静かに紡がれる。だが、その一つ一つが重く、胸に突き刺さる。


「おまえが選んだ道を、私は否定しない。おまえを信じている。そのまま、思う通りに進め」


「姉さん……」


ベルティーナの声はかすかに震えた。


──なんだ、これは!?


パリンゲネシアの神経がざわついた。彼が作り出したヴェナレートの幻影が、思い通りに機能していない。


──これはただの精神攻撃のはずだ! なぜ、こんな……!?


不快感に満ちたパリンゲネシアは、ヴェナレートの身体ごとベルティーナを貫いた。光の刃が炸裂し、姉妹の幻影は霧散する。


虚無が支配する空間に、静寂が訪れた。


──だが。


ベルティーナはそこにいた。


たった一人分の隙間を空け、傷ひとつない姿で再び立っていた。


パリンゲネシアの瞳が細められる。


──この程度では、完全な抹消は不可能か。


彼は改めて精神攻撃の糸口を探った。確かに、ベルティーナの力は以前とは比べ物にならないほど膨れ上がった。しかし──先程のヴェナレートの言葉が、彼には理解できなかった。


なぜ、肯定する? なぜ、あの女はこの怪物を信じた?


ベルティーナの感情構造は、下層の階層解析で完全に把握している。一方的な否定は効果がない。しかし──焦らせばどうか?


パリンゲネシアは、静かに次の一手を打った。




ベルティーナの目の前、遥か遠くに、ひとつの影が現れる。



足音が響く。



ゆっくりと、その人影は歩み寄る。



ベルティーナの胸がざわつく。



やがて霞んでいた輪郭が、明確になっていく。




──その男は、真っ直ぐにベルティーナを見つめていた。



「ベルティーナ」



優しい声色が、静寂を切り裂く。



その瞬間、ベルティーナの心の奥底に埋もれていた感情が、わずかに反応した。




「ユウ……」




彼女は、衝動的にその身体を抱き寄せた。

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