183,未来 女王の裁断
ベルティーナは、ラナイ一族の無残な屍が幾つも横たわる処刑場へと足を踏み入れた。空気は湿った血の臭いで満ち、荒れ果てた土の上には冷えきった身体の数々が散乱している。肉体はすでに完全に息絶えていたが、それでも微かな残留思念だけはあたりに漂っていた。
ベルティーナは静かに片手を掲げ、まるで呼びかけるように口を開く。
「トゥワルチよ、今の私はお前たちを再生させることができる。……お前はそれを望むか?」
漂うトゥワルチの意思が弱々しく応えた。
――いいえ、女王。ラナイの民はもう、すべてをやり尽くしました。どうかこのまま、眠らせてください――
その声はまるで風の中に溶け込むかのようにか細かった。周囲に集まるラナイの戦士たちの意思もまた、同じ思いを伝えているらしく、魂のようにベルティーナを取り囲んでは、トゥワルチの言葉を後押しするかのように揺れていた。
ベルティーナは静かに首を振ると、崩れかけた処刑場の瓦礫や影の中を見渡した。その眼差しは遠くを見つめながら、どこか哀しげにも映る。
「お前たちはラナイの消滅を受け入れるのだな。……分かっているのか? 励起導破戦争以来、ラナイの国はこの地球の全ての国の最上位に君臨してきた。それがなくなるということは、地球の意識配分は大きく崩れる。憎しみが連鎖し、いずれ全ての民が自壊するだろう。
この地球はパリンゲネシアによって書き換えられた。パリンゲネシアは創った現実をこの地球に写したのだ。ここで起きた事はもう、取り消せぬ現実になってしまっている。それは今の私にも、どうしようもない」
そう言うと、ベルティーナは両腕を水平に広げる。処刑場を包み込むように、彼女の威厳と沈痛な想いが満ちていた。
「お前たちが安らかに眠れるように、この星で起きたことを、すべてお前たちの記憶から消し去ろう。戦士としての誇りを保ったまま、旅立つがいい」
ベルティーナの身体から琥珀色の一陣の風が吹き起こる。風は重苦しい空気をかき分けると、澱んだ残留思念を柔らかく昇華していった。最後に、彼らの意思が名残りのようにベルティーナの周囲を漂い、消えかかる声を届ける。
――この星の浄化を……お願いします――
声なき声を受け止めたベルティーナは、しばらくそこにたゆたう彼らの姿を見つめ、そっと撫でるように手を差し伸べる。まるで子どもの額を優しくなぞる母のように、包み込むような仕草だった。
だが次の瞬間、彼女の表情は冷え切ったものに変わり、処刑場の片隅で震える人々を鋭く見据える。見つめられた者は、そこにある圧倒的な力を感じ取り、息を呑んだ。
「……だが、今の私は人間ではない。だから人の女王としての“慈悲”を抱く必要もない。私はこれからやる――ラナイ一族の報復を」
彼女の周囲にいた者たちは、突如として時を切り裂くかのような刃に触れ、砂のように崩れ落ちていく。彼らは差時間の刃に飲まれ、言葉を発する間もなく消滅していった。その場にただ虚ろな風が吹き荒れ、悲鳴さえも残らない。
「ベルティーナ様、どうかご慈悲を……」
フォンドルの声だけが一瞬、かすかに響いたような気がした。しかし、それすらも掻き消される。
「だから、これが慈悲だというのだ。……人間ではない私には、本来“情”などないのだがな」
暗赤色の光がベルティーナの瞳に宿る。カーディナル・アイズが何十倍にも拡大し、赤のサイクル・リングを完全に支配下に置く。差時間の膜は極小の単位で切り分けられながら星全体を覆い、深紅の光が地球を塗り替えていく。やがて、全ての人々が抵抗の声をあげる間もなく崩れ落ちた。
「ふ……これで星が一つ空いた。姉上が他の地球の人々を転創するのに、ちょうどいい余白ができるだろう。……姉上、か。まだわからぬ。私がこのまま化け物になり果てるのか、それとも人の世界に戻れるのか」
――ほう、自らの民を一掃するとは。なかなかやるな、人間の女王よ――
いくつもの階層を隔てた上空からこの様子を見下ろしていたパリンゲネシアは、その圧倒的な力にほんの少しだけ感心したようだ。しかし、遥か上階層にいるパリンゲネシア本体のもとへ、深紅の瞳が真っ直ぐ向けられる。
『待っていろ。今から昇っていくぞ! お前のいる処まで、階層の階段を上がっていくぞ!』
その激しい意力に、パリンゲネシアは初めて恐れを抱いた。突き刺さる“視線”は、いくつもの層を超えてなお衰えを知らない。
この瞬間、B・Wゾーンにいた澪たちもセージたちも、フライ・バーニアにいた優香と侑斗も、何も見えなくなっていた。同じように、パリンゲネシアの世界にいる亜希と史音の上空からも一切の情報が覗けなくなっている。
「大丈夫なの? あんたの親友の女王、自分の星の人々をあの恐ろしい力で全部……壊しちゃったよ」
ベルティーナが辱めを受け、身体を削られていった過去を知っている亜希は、その復讐とも言うべき行為に言葉を失い、弱々しく口許を押さえた。
「大丈夫なわけないだろう。ベルは……自分の正体を知ってしまったんだ。アタシや優香が隠し続けてきた真実を。これじゃ、たとえパリンゲネシアを倒せても、アタシたちの元へ戻ってこれるか分からない」
史音は深刻な面持ちで呟く。その驚きは、亜希のものとは全く違う方向を向いているようだ。
「でも、いくらなんでも一つの星全ての人の命を奪うなんて……」
思わず声を詰まらせる亜希は、史音に視線を向けながら不詳の意を示す。そんな彼女を、史音はやるせなく見つめた。
「そうだな。でもベルの地球は、パリンゲネシアによってもう救いようのない負の連鎖に入っていた。ベルはあの星の最上位の国の女王として民を裁断したんだ。それくらいのことができなきゃ、上位階層にいるパリンゲネシアと戦うなんて到底無理ってことさ」
混乱と絶望、そして無情な世界の姿を目の当たりにして、亜希は胸の奥がひどく痛んだ。そっと唇を噛み、史音に問いかける。
「……史音は、あのベルティーナという人の本当の姿を知ってたんだね」
史音は俯きがちに、沈んだ声で答える。
「ああ。世界のバランスを見た時、ベルの力はあまりにも弱すぎた。そう感じたのが、あたしと優香の意見だったんだ。本来のベルは、葛原澪や侑斗の持つサイクル・リングと、そしてベル自身の驚嘆に値する自制心によって、ずっと力を押さえ込んでいたんだよ」
そう言うと、史音は目を伏せる。轟々と吹き荒れていた風はふとやみ、処刑場の無残な情景だけが闇の中に残される。亜希は見渡す。そこにはもう、誰一人声をあげる者はいなかった。
◇
「葛原零、女王はどうなったんだ?」
凍てつく空気が満ちるB・Wゾーンで、ハルカが零に問いかけた。そこにはパリンゲネシアの幻妖が黒煙のように立ち現れ、歪んだ形相のまま浮遊している。ハルカは幻妖を払いのけるように片手を掲げ、その合間に零の横顔をうかがった。
突然、あの女王が肉体を再生し、自らの民を“処断”しはじめた。かつての王国とは思えぬ凄惨な光景。零の表情には、敵意よりもどこか戦慄に似た影が滲んでいる。
「……あんなものを、本当に創ろうとしたなんて。ラナイの国は私の地球より、はるかに狂っている。最早、彼女は私の仇敵なんて呼べる存在じゃない。今の女王には、私も、彼女の姉ヴェナレートも、過去に存在したどんな強者も勝てない。クリスタル・ソオドでも存在を打ち消せないし、クリアライン・ブレイドでも彼女の支配下にあるものとの結合を解くことはできないんだ」
零は息を吐く。言葉の端々から感じ取れるのは、単なる危惧ではなく心底からの“恐れ”だった。
「けれど、多分あれでようやくパリンゲネシアと対等になれた。世界全体を書き換えるあの化け物に対抗するには、ベルティーナが持つあの力しかない。フォトスのシニス以外であれと拮抗できるのは、せいぜい亜希さんくらいだろうね。……だから、その力を知られた亜希さんは先に囚われた」
ハルカは淡々と話す零の言葉に納得したように肩をすくめる。そして、手のひらに集束させた力で、そばを飛び交っていた幻妖を握りつぶした。まるで昆虫を潰すかのような残酷な仕草。潰れた幻妖は淡い光のかけらと化し、BWゾーンの漆黒に溶けていく。
「まあ、あなたがそう言うんなら、そうなんだろう」
その光景を間近で見ていた彰は、零や女王と呼ばれる人物に似た“天質”を感じとっていた。背筋を走る寒気を抑えようとするかのように、一歩、後ずさる。
◇
一方、フライ・バーニアでは猛風が吹き荒れ、視界を覆う雪と霧があたりを覆いつくしていた。優香と侑斗は足場が崩れそうなほどの突風に耐えながら、黙ってその場に立ち尽くしている。
「優香は、知ってたんだろう? ベルティーナの本当の姿を」
低温の風は容赦なく吹きつけ、侑斗の衣服には白い霜がこびりついていた。優香は、侑斗の身につけている黒のサイクル・リングから熱を取り出して、自分と侑斗の体温をどうにか保とうとする。
「……知っていたよ。でも、それをヴェナレートにだけ刻奏音で伝えたの。ベルの“恐ろしい存在”に、私たちはずっと触れないようにしてきたんだ」
そう言って、優香は零のように侑斗の背後から抱きしめた。まるで悪夢から目覚めないまま、互いのぬくもりだけを頼りにしているかのようだ。彼女のかすかな震えが侑斗の背に伝わってくる。
「私たちの前身であるユウ・シルヴァーヌが、一番最初にベルの底にある何かに気づいた。だから決して彼女と戦いたくなかったんだよ。彼が銀のサイクル・リングをベルに渡していなかったら、一度死んで目覚めたベルは、レイも、兄のバーナティーも、ブルの地球も、全てを吹き飛ばしていたはず。……そして姉のヴェナレートなど、遠く及ばない最凶の魔女になっていただろう」
優香の声色が低く落ち、わずかに震える。見えない涙を感じさせるその声音に、侑斗は背中越しの重さを受け止めた。
「あの力を自分で封じていたベルティーナは、一体どれほどの自制心を持っていたんだろう……」
侑斗は呟くが、それは本当の重みを捉えきれない、あまりにも頼りない言葉だった。
「ベルティーナよりも悲しい女は、クァンタム・ワールドのどこにもいない。レイよりも悲しい存在だよ。無意識のうちに己の力を律して、常に世界に対して公平であろうとした――私は、そんなベルを誰よりも守りたかった」
優香の吐き出す息が、切なげに宙を漂う。侑斗は再び風が強まるのを感じながら、静かに目を閉じた。
(いや、あなただって十分に悲しい女じゃないか……)
侑斗は心の中でそう呟き、優香のか細い震えごと受け止めるように、腕の中に抱きしめ続ける。視界をかき乱す吹雪の先には、果てのない世界の暗雲が広がっていた。