182、時と次元をつなぐ声Ⅱ
「……もうこんなの嫌だ」
空いっぱいに映し出されるベルティーナの凄惨な姿を見て、琳は思わず彰にしがみつき、必死に目を背けた。その様子を、ハルカはどこか冷たげな視線で横目に捉えている。
一方、零は前方に展開したアクア・クラインの14個の輝石へと意識を集中させていた。いま、BWゾーンを支える役目はベルティーナの代わりに澪が担っている。どうにか世界の均衡を保たなければならないとはいえ、零も彼女の姿を見ずにはいられない。仇敵だった相手だからこそ、なおさら目をそらせなかった。
「なあ、零さん」
彰は、琳の頭をそっと撫でながら尋ねる。
「あそこに映ってる映像、言葉は聞こえないのに、なぜか意味が頭に入ってきてしまう。どういうことなんだ?」
零は視線を合わせないまま答えた。
「刻奏音。パリンゲネシアの刻奏音が、人々の想いを振動に変え、それを“音”として直接伝えている。だから、誰も目を背けることができないのよ……」
蒼く光る澪の瞳とアクア・クラインの輝石たちが、見る者すべての視界を染めるほどの熱量を放っている。白熱した輝石の光が空間の歪みを映し出し、それを澪の演算でなんとか適切な位置へ押し留めているのだ。
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「なあ、葛原澪」
前に立って全員を庇うように構えるハルカが、澪へ問いかける。
「おまえは女王の仇敵だって聞いたけど、あの姿を見てどう思う? 溜飲が下がったりするのか?」
「先輩!」
彰が思わず声を上げる。すると、零は苦しそうな顔をして小刻みに震えた。胸の奥で言葉がうごめき、どうにも抑えきれない。
「あれは……あれは……」
声にならぬ声で呟くと、まるで嗚咽を噛み殺すように、彼女はつぶやいた。
「私は……あれは、もうひとつの私。あそこにいるのは、本来なら私がなるはずだった姿なんだ……!」
暗い表情のまま、洋がゆっくりと口を開く。
「そうだよ。あれは、人間の感情の“負の部分”が寄り集まったもの。言葉が分からなくても、なぜか状況が頭に流れ込んでくるのは、僕たちも同じように残虐な負の感情をどこかに抱えているからだと思う……」
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空気が揺らぎ、場面は切り替わる。ヴェナレートの力によって、優香と侑斗はフライバーニアに共振転創されたのだ。指定された地点まで位相を跳び、たどり着いた場所には、美しい姉妹――紫苑と恵蘭が氷に閉じ込められたままの姿があった。凍りついた裂け目には、いくつもの花が供えられているが、それらもまた氷の中に閉ざされている。
「……あの二人のために花を置いたのは、きっと優香だろう?」
しばらくの沈黙の後、侑斗が問いかけると、優香は低い声で答える。
「ああ、ただの自己満足だよ。何も感じなくていい」
それでも侑斗は、彼女の行動に敬意を覚えずにはいられない。あの二人を忘れずに思い続ける優香という存在は、ユウ・シルヴァーヌとは違う“人間らしさ”を持っているのだと、改めて感じさせられる。
二人は黙ったまま、風が吹きすさぶフライバーニアの地を歩き続ける。互いに身を寄せ合うようにして、一歩一歩を進む。
「あと右に十三歩、左に十七歩。そこで移動するの。ヴェナレートが指定した場所は、唯一“クァンタム・セルの窓”から彼女の刻奏音を、パリンゲネシアの創った地球にいるベルティーナへ送れる地点なんだ」
-###フライ・バーニア 北のベクトルの一角
目印どおりにたどり着いた先は、北のベクトルの一角と呼ばれる場所。世界の羅針盤が据えられている辺りだという。
「クリスタル・ソオドを構えて。私と一緒に持つんだ」
優香はにこりともせず、けれどどこか誇らしげにそう言う。
「嬉しいね、これは私にしかできないことだから」
侑斗がクリスタル・ソオドを抜き、優香が彼の腕を握り込む。このソオドは、ユウ・シルヴァーヌの分身として生まれた存在にしか扱えない。普通の人間が掴んだら、瞬時に腕を吹き飛ばされてしまうだろう。
やがてクリスタル・ソオドが下方の空間に穴を開け、かすかな光が走る。そこからベルティーナまで続く数多の“可能性”を切り裂いていくかのようだ。そして、ヴェナレートの声が時と次元を超え、こちらへ繋がり始める。
同じ頃、ベルティーナの肉体は自分の地球の民によって無残に引き裂かれ、ほとんど人の形を留めていなかった。
痛みすらもう感じない。自分がうつ伏せに倒れていることだけを、かろうじて認識している――そんな状態だ。
(……ダメだな。私は最初からパリンゲネシアの本質を見誤っていた。高潔な精神があれば、どんな闇にも立ち向かえると高を括って……。あの底知れぬ“人間の闇”に、私ごときが勝てるわけもなかった。でも……この肉体だけは、どうにか守りたい……)
――ベルティーナ!――
ぼんやりとした意識の中へ、刻奏音が割り込んでくる。誰かの声ではない。もっと深く、直接心に響く音――。
(……これは……姉さまの……? ヴェナレートの……!)
――ベルティーナ。お前は今、きっと肉体を失うことを恐れているんだろう――
なぜ姉にそこまでわかるのか。きっと優香が全てを伝えてくれたのだろう。
ベルティーナは、残り少ない呼吸で姉に答える。
「そうです……姉さま……。だって、この身体には……もしかしたら“彼”の子が――ユウの分身であった彼の子供が……宿るかもしれないんです。それだけは、私の命と引き換えになっても失いたくない……」
――ベルティーナ。わが妹よ。ラナイの真実、そしてお前自身の真実を伝えよう。……本当は、こんな話をしなくても済むことを願っていたけれど――
ラナイの真実。自分の真実……?
ベルティーナは苦痛の中で、姉の刻奏音に耳を傾ける。
――辛いだろうが、お前は彼の子を宿せない。いや、彼だけじゃない。お前には誰の子も宿すことはできないんだ。たとえ女性としての“肉体”を持っていても、おまえと同等の存在の人間など存在しないからだ。
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ベルティーナは血だらけの地面を見つめながら、姉の言葉に息を詰まらせた。
(私は、最初から“普通の子”を宿せない身体……? それがラナイ、私自身の真実……?)
彼女の意識はなおも混濁したままだが、どんなに苦しくても、姉の声を、優香たちの声を、決して振り払おうとはしなかった。
「なにを、なにを言っているのです、姉上――」
ヴェナレートの言葉が、ベルティーナの混濁した意識に直接響いてくる。
> ―ラナイの肉体は、存在力をそのまま取り込むことができる。そして細胞の一つひとつにそれを染みわたらせ、サイクル・リングのように高次元へ送り込み、蓄積するんだ。ところが、あるときラナイの誰かが思いついてしまった。“ラナイの肉体など不要ではないか。表面にごく一部だけ現し、残りの姿は並列する次元へ移してしまえばいい”とね―
「姉さまが何を仰っているのか、私にはさっぱり……」
ベルティーナの心がざわつく。とまどう彼女の耳に、少し間を置いてヴェナレートの声が続く。
> ―そして、その“形のないもの”が生まれてしまった。誕生の瞬間、それを創ったラナイたちは、そのあまりに異形な姿と凄まじい力に腰を抜かした。だからこそ、その力を幼い肉体に移植したのだ。つまり、おまえの身体に、ベルティーナ―
> ―ベルティーナ。お前は自分の力が足りないせいでサイクル・リングを上手く使えないと思い込んでいただろう。でも真逆だ。サイクル・リングが、おまえの力に振り回されて完全に機能できなかっただけなんだよ―
頭の奥で、何かが音を立てて崩れる。
(そうか……そういうことだったのね。私の身体を蝕んでいたのは、サイクル・リングなんかじゃない。ユウがそんなことをするはずない。私自身こそが、自分を蝕んでいたのだ。本来の姿へ戻ろうとして……)
もしサイクル・リングによる制御がなかったら、とっくに自分は“本来の姿”になっていただろう。ベルティーナは思わず低い声で笑い出す。
「くくく……あ、はははは……分かったよ、姉さま。私は化け物だったんですね。世界に存在してはならない、そんな化け物だったんだ」
かつてレイ・バストーレに身体をバラバラにされ、それでも複素演算体が簡単に復元できた理由も、これなら腑に落ちる。肉体など所詮は仮初だったというわけだ。
ベルティーナは邪悪な光を宿した瞳で、意識のなかの姉を見据えた。
「では姉上……いえ、ヴェナレート・クレア・ラナイよ。私は今から“本来の姿”に戻ります」
> ―それはだめだ、妹よ。ベルティーナ・ファラ・ラナイ。お前はすでに“人”と繋がっている。それはお前自身が望んで選んだことだ。レイ・バストーレのように人を遠ざけなかったのは、お前自身の意思――いや、責任を追及しているのではない。お前を諦めず想い続けた者が、この私の声をこうしてお前に届けた。どう受け止めるかは、お前次第だ―
ベルティーナの曇った視界の向こう、氷の大地に立つ優香と侑斗の姿が、姉の声の背景にちらりと見えた気がする。
> ―さあ、立ち上がれ、わが妹よ。ラナイの“最後の女王”として立ち上がり、自らの民を処断するのだ。お前の戦いは、そこから始まる―
-その瞬間、フォンドルの眼に信じがたい光景が飛び込んできた。
処刑場の床に血まみれで転がっていたベルティーナの身体が、音もなく掻き消えたのだ。次の瞬間、彼女は処刑台を取り囲んでいた群衆の、まさにど真ん中に突如として姿を現す。
ラナイ伝統の武具をまとい、まさしく“戦のための国の女王”そのもの――圧倒的な気迫に満ちた装束。先ほどまでズタズタだった身体など嘘のようだ。
「くだらないな、あなたたち。私の地球に、もうあなたたちは要らない」
ベルティーナが冷たく囁くと同時に、差時間の渦が刃となって周囲の民を切り裂いていく。かすかな悲鳴が空気を震わせ、血飛沫が宙を舞う。
「ふふ、あなたたちは人の身体を少しずつ切り取るのが趣味だったようだが……私は、もう少しだけ慈悲深いぞ」
腕を振り上げたベルティーナが、さらに意識を集中した瞬間、群衆の半分ほどがばらばらに断ち切られて地に崩れ落ちる。たった一瞬の出来事だった。
そして血の香りを吸い込みながら、ベルティーナは処刑台へと戻っていく。笑いながら、しかし瞳には狂気と絶望を混ぜ合わせた涙が滲んでいるようにも見えた。
その姿は、嗤いながら泣き、泣きながら嗤っている――そんな奇妙な相貌を呈していた。