179、未来 狂気の城Ⅱ
トゥワルチが自らの身体を使い、ベルティーナをぐいと押しやって向きを変えさせる。ラナイの城の長い回廊。その奥には、ほんのわずかにオレンジ色の光がこぼれていた。
だが、それは――不吉な明るさ。暗闇に慣れきった瞳を乱暴に照らし、今までの“正しい闇”を奪い去ろうとしているかのようだった。
「やっぱり帰ってきやがったか、ラナイの最後の女王」
背後から男の声が響く。その瞬間、ベルティーナに寄り添っていたトゥワルチは弾き飛ばされ、硬い床に転がって小さく呻吟の声を上げる。
「トゥワルチ!」
思わず膝をつこうとしたベルティーナの両腕を、何者かが掴んで背後へ強引にねじ上げる。鈍い痛みが肩から背中を走った。
「やはりラナイの者をわずかに残しておいたのは正解だったな。最後の最後に“大物”……ラナイ直系の最後の一人が姿を現すとは」
男の冷ややかな声が耳を刺す。ベルティーナは腰の裏で両腕を縛り上げられ、歯を食いしばりながら男を睨み返す。
「おまえは……覚えているぞ、バルジのフォンドル。おまえの娘がヴィオの戦士に囚われたとき、私の兵が救い出した。あのとき十人以上のラナイの戦士が、おまえの娘を守るために無惨に死んだのだぞ」
オレンジ色の光が微かに照らし出す先、フォンドルの顔が見えてくる。それはかつてベルティーナが知っていた男の面影とは大きく異なっていた。髪は一房も残っておらず、青白い肌に深い皺が刻まれたその容貌。だが、虚無に満ちた目だけは、あのころのままだ。
「ああ、覚えているとも、元女王。あの恩を“返さねば”と思っていたんだ、ずっとな」
フォンドルはそう言うと、ベルティーナの両腕を縛る金錠から伸びる鎖を荒々しく引き、彼女の身体を引きずるように歩かせる。
光に慣れつつあるベルティーナの横合いには、両腕を失い傷まみれのトゥワルチが転がっていた。その姿はまるで壊れた人形。かすかな息遣いすら感じられない。
「トゥワルチ!」
ベルティーナの声にも反応はない。
フォンドルの部下たちが足でトゥワルチの身体を小突き回す。
「親方様、こいつはもう息をしておりません。どういたしましょう?」
フォンドルは床に倒れ伏すトゥワルチを忌々しそうに一瞥すると、すぐ前を向き直した。
「いらん。城の最下層の“汚物処理場”にでも捨てておけ。もっと干からびてからでも構わんさ」
高貴で美しかったはずのトゥワルチ――。なぜ、どうしてこんな姿にされたのか。
ベルティーナの胸には怒りと悲痛がせめぎ合い、抑えきれない声がこぼれる。
「ふざけるな……! 貴様の娘を助けたのち、心を閉ざしたおまえを説得し、再び元の生活へ帰れるよう力を尽くしたのはトゥワルチだったではないか! 彼女が何をしたというのだ!」
だが、フォンドルは冷然としていて、眉ひとつ動かさない。
「ああ、感謝しているとも。だからこそ今まで生かしてやったんだ。しかし、もう用済みだろう?」
それが“十分”だというのか。トゥワルチをこれほどまで弄び、その身体を刻んで……。
押し立てられるままに、ベルティーナはよく知った城の回廊を進む。自分が“ここ”にいることが信じられない――まさか本当にこの城へ転送されたのだろうか。それとも、パリンゲネシアが生み出した悪夢なのか。
もし現実なら、どうして地球の民たちは、かつて彼らのために戦ったラナイ一族をここまで貶める? 戦争が終わっただけでは説明のつかない、この狂気は何なのだ。
「さっき話に出ていた俺の娘だがな……。あの女の元を離れてすぐ死んだんだよ。ラナイの戦士どもに凌辱されてな。“死んだ仲間の代わりだ”と言われたそうだ」
フォンドルが吐き捨てるように言う。
ベルティーナは反論しようと口を開くが、声が出ない。自分の部下にそんな男がいたはずがない――もし存在したのなら、それは兄バーナティーの……。
言葉を呑み込んだまま、ベルティーナは連行され、かつて自分の庭園だった場所へ辿り着く。
かつては花や緑が咲き乱れ、ユウと出会った記憶が刻まれた庭園。しかし今や、枯れ果てた褐色の土が広がるだけで、木々も茂みも存在しない。不毛な地面に無数の“何か”が転がってうごめいている。
よく見れば、それらは倒れ、枯れ枝のように変質した木の幹にも似ていた。だが、かつてこの庭にそんな樹木があったことはない。ベルティーナは息を呑む。
と、その中の一本がわずかに転がり、こちらへ寄ってくる。
「……ベル……ティーナ……様……」
枯れた木の幹のように見えたそれが、かつてベルティーナの下で戦った戦士の声を発したのだ。息も絶え絶えなそのか細い音に、ベルティーナは恐怖に凍りつく。
ここに散乱しているのは、手足をもがれたラナイの戦士たちの“成れの果て”――人間の姿など留めていないが、それでも声を上げ、必死に生きている。
「……おまえたちは……! こんな、こんな無法が許されるか……!」
ベルティーナは見開いた瞳に怒りと絶望を宿し、フォンドルを睨みつける。男はその様子を冷めきった瞳で見やり、部下から錆びた金属棒を受け取ると、すぐさまベルティーナの胸元へ突き立てた。
「ぐあっ――!」
ベルティーナの絶叫が、枯れた庭園にこだまする。血がどくどくと溢れ、世界が歪むほどの痛みが彼女の神経を焼き尽くす。
立ち尽くすフォンドルの横顔は薄笑いさえ浮かべているように見えた。何かが決定的に崩壊していく、そんな予感がベルティーナの脳裏を霞ませる――。
「女王様。あんたにこいつらの姿を見せるために、わざわざ目を潰さずに残しておいてやったんだ。でも――もう充分見ただろう? 誇り高きラナイの戦士たちが、どれほど情けない姿になったか……」
フォンドルが冷たい声でそう言った瞬間、彼はベルティーナのもう片方の瞳を容赦なく潰した。
視界がぐちゃりと歪み、激痛が脳髄を焼き尽くす。ベルティーナの喉から思わず悲鳴が漏れる。
「まあ、ラナイの力はもう効力を失ってるからな。大丈夫だとは思うが、あんたの“瞳”ってのは危険らしい。念のため、ここで潰しておくのさ」
ベルティーナは唇を嚙み締める。痛みは凄まじいが、今さら悲鳴を上げるのも無駄だと分かっていた。髪を乱暴にむしり取られ、衣服を剥ぎ取られ、そしてその身体が刻まれていく。
意識が遠のく中、かすかにフォンドルの言葉が耳に届いた。
「いい加減にしろ。ラナイ最後の女は、もっと多くの奴らが見てる前で、ゆっくり解体する――生きたままな」
***
「ひどい……。あんなことができるなんて……あの人たち、人間じゃないよ!」
上空に映し出されたベルティーナの凄惨な姿に、亜希は思わず顔を背ける。だが映像は容赦なく瞼の裏に焼きつき、震えが止まらない。
史音は黙り込んだまま、その光景をじっと見つめていた。
「これが、人間の悪意から生まれた“パリンゲネシア”の作り出す世界なの? どうして人は、あそこまで残酷になれるの?」
亜希が堪えきれずに問いかける。史音は声を殺すように低く言い放った。
「うるせえよ、亜希。今ベルが攻撃されてるのがパリンゲネシアの精神攻撃か、それとも本当にベルの地球で起きてることか、アタシにも分かんねー。だけどパリンゲネシアがあたしたちにこれを見せて、“人間の悪意”を引きずり出そうとしてるのは確かだ」
史音は足元に転がっていた小石を拾い上げ、上空のフォンドルへ向けて投げつける。小石は空に消えたかと思うと、そのまま史音の頭上に落ちてきた。史音はあらかじめ分かっていたかのように軽く顔を振って回避する。
「いいか、亜希。人間を過大評価するなよ。人間の本性なんて残虐で非道なもんだ。アタシたちの地球だって、あれと同じことが起きてるさ。人間の歴史は、黒い歴史しかない。……おまえも“アローン”に会ったとき、嫌ってほど痛感したろ?」
亜希の脳裏に、嫌な記憶が甦る。惨殺される人々、自分の仕業で大地が血に染まり、高笑いしていた少年の姿――。
「……そんなことどうでもいい。私は……あんなのが許せない……許せない。絶対に……!」
震える亜希の言葉に、史音が呻くように声を漏らす。
「奇遇だな。アタシも許せないよ。“根拠”とか“背景”とか、そういうの関係ねえ。アタシの大事な友だちをいたぶって、それをあたしたちに見世物にしてるパリンゲネシアを――絶対に許さない」
◇
「ベルティーナを助ける方法はないのか?」
ベルティーナがパリンゲネシア本体に連れ去られたあと、暗闇へ包まれたBWゾーンに残る侑斗たちは、亜希や史音同様、“天井”に映し出されるベルティーナの見るも無残な姿を黙って見守るしかなかった。
「無理だよ。今のあたしたちには、あれが本当に起こっていることか、それともパリンゲネシアが見せる“偽りの像”なのかすら分からないんだ」
そう言って、優香は血走った目を上げた。長年ともに戦ってきた仲間だからこそ、ベルティーナの痛みがひしひしと伝わってくるのだろう。
侑斗は霧散師の力を思い浮かべるが、その意図を察したかのようにセージが声をかけた。
「橘侑斗くん。霧散師の力は対象の“実在”をこちら側で掴むことで世界の障壁を砕く。しかし、パリンゲネシアはそれを警戒しているらしい。あの映像を見せてきながら、自分の“実態”を一切掴ませていないのです。さっきから何度も試しているのですが……」
ならば――と、侑斗は自分の漆黒のサイクル・リングに手を当てようとする。
「だめだよ。クリスタル・ソオドもクリアライン・ブレイドも、いま振るえば永遠に“ベルとパリンゲネシア”をこの世界から切り離してしまう可能性がある。そうなったらベルを救うことなんて不可能になるし、この不安定な世界が二度も破壊行為に耐えられるか分からない」
優香が侑斗の腕を押し留める。――最初に破壊行為をやったのは、あなたでしょう? 侑斗は思わず胸の奥でそう呟きかけるが、言葉にはしない。
「じゃあ……あんたはもう“策”はないのか? “あそこ”に共振転創とか……」
「できても無理。パリンゲネシアはベルを“おびき出した”んだ。……あなたと同じく、ベルはいつだって自分の行動の正否を問い続ける。ベルティーナは世界に対して常に“公平”であろうとする。それを利用されたんだよ。あの子は真面目だから」
優香はそう肩を落として呟く。もしこれが“葛原零”や“レイ・バストーレ”のような、何も迷わず信念を貫く闘士だったら――少なくとも相手の悪意に構わず戦うことができただろう。
ベルティーナはそうじゃない。――だからこそパリンゲネシアの策に嵌り、哀しいほどの苦しみに陥っているのかもしれない。
上空に映し出されるベルティーナの姿――。それは見るに堪えない惨状だった。両目を抉られ、手足の爪を剥がされ、美しかった裸身は血の衣を纏い、まるで生きながら地獄を味わっているかのよう。
さらに磔にされたその周囲では、狂乱の観衆が声を張り上げ、歓喜に打ち震えている。まるで“恍惚”を隠そうともせず、血まみれの女王の苦痛を娯楽として堪能しているかのようだ。
その光景を見上げながら、侑斗は思わず嘔吐しそうになる。
「――吐いてる場合じゃないよ。あたしたちは直接パリンゲネシアをどうにもできない。でも、まだ手はあるかもしれない」
と、優香が低い声で言った。
侑斗は薄暗い周囲を見回しながら、上空に映る“生き地獄”から目をそらす。
「どういう意味だ?」
「余剰次元に……まだ“彼女”がいるならば、何とかなるかもしれない。ベルティーナの姉、ロッゾの魔女ヴェナレートがね」
「ロッゾの魔女? そういえば、零さんと戦った人だよな」
当時、零によって隔離されていた侑斗は、ヴェナレートという戦士についてあまりよく知らない。
「そう。ヴェナレート・クレア・ラナイ――かつては一流の戦士だった。もし彼女がフィーネの塵楳操作なんかをはねのけ、感情の制御を維持できていたなら、いまの世界はもう少し“マシ”だったかもしれないんだけど……」
優香は深く息をつき、目を伏せる。
もしヴェナレートが傲慢も絶望もねじ伏せて、強靭な精神力を保てていたなら――いまこの惨劇は起きていなかったのだろうか。そう思うと、一層不気味な後悔と苛立ちが募る。
やがて、優香は水平に腕を伸ばす。この暗黒の空間では上下も左右も分からないはずなのに、不思議と“方向”を示すかのように動かす。彼女の指先が何かを指し示していた。
「あっちに“フライ・バーニア”がある。そして、その真北に“余剰次元”に通じる窓が開いてるはず。……クァンタム・セルの窓ってやつがね」
闇に覆われたB・Wゾーンのどこかへ向けられる彼女の言葉は、一縷の望みを告げているようにも聞こえた。
――ベルティーナを助けたい。だが、いまはこちらから直接パリンゲネシアへ挑むことはできない。ならば、ヴェナレートという存在に賭けるしかないのだろうか。
上空では、なおもベルティーナの“生き地獄”が映し出されている。その凄惨な姿を直視するだけで胃液が逆流しそうになるが、侑斗は無理やりにでも顔を上げる。
――あそこまで追い込まれたベルティーナを救うため、いま自分にできることは何か。優香の指さす先を、侑斗は血のにじむような思いで見つめた。