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16、過去 濡れそぼる森で、少年は魔女に出会う

兄の車で送ってもらい、橘侑斗(たちばなゆうと)は森の入り口に立った。

目の前には高く伸びた樹々。その間を縫うように絡まる蔦。地面では雑草がわずかな隙間を奪い合い、どこまでも緑が広がっている。


生存競争の縮図だな。


そんなことを思いながら、侑斗は景観を見渡した。

ここは20年前には里山らしい風景が広がっていたと聞いている。しかし今は、植物たちが生きるために競い合い、光を求め、伸び、絡まり合っている。秩序などない。ただ、生命がそこにあるだけだ。


「今、現地に着いたぞ」


侑斗は携帯を取り出し、天文部の部長・稲田(いなだ)に連絡を入れた。


「2時間後に兄貴が迎えに来る。それまで歩いて見られる範囲でいいんだろ?」


ノイズ混じりの声が返ってくる。


「少しだけでいいわけないだろ! これは代々の諸先輩方から受け継がれてきた、貴重な観測スポットの記録だぞ。ちゃんとやれ!」


全く、面倒なものを引き継がせてくれたものだ。

天文部には、先輩たちが残した観測地の記録がある。しかし、何十年も前に星がよく見えた場所も、今では樹木が育ちすぎ、視界が遮られてしまっている。

「仰角が分かればいいんだろ?」


「方位と高度が分かれば十分だ」


そう言われ、侑斗は水準器付きのコンパスを目の位置に持ち上げた。


「難しいことを考えるな。木の天辺が地平線だ。そこから上が星空。それでいいんだ」


珍説だな。だが、確かに木々の下は見えないのだから、そう言えなくもないか。毎年地平線が伸びていくが。


ふと、侑斗の脳裏をよぎる言葉があった。


見えないものは存在しない——。


アインシュタインが量子力学を批判したときの発言だったか? それとも別の話だったか?


「しかし、西側の街明かりがかなり強い。光害は考えなくていいのか?」


「いいんだよ。光害だって夜空の一部だ」


珍説大百科だな。


だが、昼間に夜の明るさを計測するのは確かに無理だ。大半の人間は星明かりより街の光を求める。実用的で、便利だから。


五月の陽射しは想像以上に強かった。標高1000mを超える場所のはずなのに、汗が肌を滝のように伝うのが不快だ。


「仕方ない、行くか」


稲田に文句を言われるのも面倒だ。侑斗は徒歩で第二観測ポイントへ向かう。


彼は周囲から「クソ真面目」と言われるが、本人にそんなつもりはない。ただ楽な方を選んでいるだけだ。肉体的ではなく、精神的に。その方がストレスが少なくて済む。だが、このロジックは他人には理解されない。


今日、資料修正のために駆り出されたのは侑斗を含めて四人のはずだった。しかし、実際に作業をしているのは彼一人。女子は仕方ないとしても、あいつらはどこへ行ったのか。


きっと俺のことを笑っているんだろうな。


いや、今ごろ冷房の効いた部屋で談笑しているかもしれない。侑斗は自嘲した。


林の隙間から見えた空には、真夏のような入道雲が浮かんでいた。最近の春は本当に短い。


ふと、侑斗は太陽に背を向け、自分の影を覗き込んだ。


……今日は聞こえないな。


時々、自分の奥底から妙な声が聞こえような気がした。昔、兄に馬鹿にされてから、誰にも話さなくなった。自分の影が喋っているなどと知られたら、中二病扱いされるのがオチだ。しかも自分の中から聞こえるのは、自らを否定するような鬱陶しい声。


——ん?


影が薄くなっている。


よく見ると、影の輪郭がぼやけ、縁が保てなくなっていた。辺りが暗くなり、空を見上げると、いつの間にか灰色の雲が広がっている。


「嘘だろ……?」


さっきの入道雲はまだ遠くにあったはず。


ポツ、ポツ。


冷たい雫が額に落ちた。次第に雨足が強まっていく。


「冗談じゃない!」


あいつらの笑い声が頭をよぎる。これ以上、笑いものにはなりたくない。


とにかく雨宿りできる場所を探さなければ。


記憶をたどる。確か、少し上に駐車場と展望台があったはず。そこには屋根が——。


侑斗はぐちゃぐちゃになった上着を頭から被り、駆け出した。


だが、本当に残念なことに、彼の逃走を追うように雨は勢いを増していった。


駐車場に着くと、そこには目を引く真紅のスポーツカーが停まっていた。雨粒がボンネットを滑り落ち、光を受けて鈍く輝いている。侑斗は車に詳しくないが、それが高級なものであることは一目で分かった。流線型のフォルムが、まるで猛獣のような迫力を醸し出している。


そのとき、運転席側のウインドウが静かに下がった。湿った空気の中、車内から現れたのは、思わず息をのむほど美しい女性だった。まるで映画のワンシーンのように、長い睫毛の下の瞳が侑斗を捉える。そして、まるで旧知の友人にでも話しかけるかのように、彼女は軽やかに言った。


「うわぁ、もうドロドロだね。まるで泥まみれの子猫だ」


彼女は楽しそうに笑う。細い指先でハンドルを軽く叩きながら続けた。


「私もこの滝みたいな雨の中、さすがに運転しづらくてね。呉越同舟ってやつだ。ほら、さっさと乗りなさいな」


場違いなほど艶やかな声に、侑斗は一瞬、思考が止まった。


「でも……俺、びしょびしょだし。車内が汚れちゃうかも」


言い終わらぬうちに、彼女は後部座席に手を伸ばし、ビニール製のシートカバーを無造作に取り出した。それをひらひらと振りながら、助手席を指差す。


「これ敷いとけば大丈夫。峠を走る車には、こんなもの常備してるの」


そんなものなのか? 侑斗は戸惑った。普段なら、こんな展開に飛び込むことはない。けれど、次の瞬間、体の奥からこの状況を否定する叫びが発せられた。


『彼女は危険だ』


久しぶりに胸の奥から直接囁かれるような、声を聞いた。しかし蕩けるようなその女性の魅力はそれを跳ね除けた。まるで見えざる力に導かれるように、侑斗はおずおずと頷いた。


「……すみません」


車内に足を踏み入れ、彼女を間近で見ると、その美しさに改めて息をのんだ。自分が知るどの少女とも違う、大人の余裕と気品を兼ね備えた女性。雨に濡れた自分とは、あまりに不釣り合いな存在に思えた。


「素直だね、少年」


彼女は楽しげに微笑むと、侑斗の問いを待つことなく、自ら名乗った。


「はじめまして。私は椿優香(つばきゆうか)っていうんだよ」


彼女の名前すら、何か特別な響きを持っている気がした。

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