177、未来 パリンゲネシアの憂鬱Ⅲ
パリンゲネシアの声が遠ざかった。ベルティーナの視界から一瞬、その姿が消える。
次の瞬間、空の全面に広がる巨大な顔――美しいほどに醜い顔――が現れた。その姿は、まるで凶兆を告げる幻影のようだ。
「これでも、私がいる階層の“はるか底”なんだぞ。おまえは、その空に向かって、か細い力を振るっているだけにすぎない」
空いっぱいのパリンゲネシアがそう言い放つ。ベルティーナは真空の瞳を使い、差時間の大渦をいくつも作り出しては、いっぺんに天空へと撃ち込んだ。
荒れ狂う差時間の嵐が、空を覆うパリンゲネシアの輪郭を一気に崩し、砂のようにざらりとこぼれ落としていく。
「人間は、皮膚から剥がれ落ちる細胞をいちいち気にするか? 女王よ、おまえがやっていることは、その程度以下だよ」
ゆがんだ笑いを含む声が響くと、今度はパリンゲネシアの巨大な瞳が、異様に青白い光を纏いながら天空に浮かぶ。瞳はベルティーナを冷たく見下ろしていた。
ベルティーナは唇をきつく結び、鋭い声を放つ。
「お前の精神世界の構成要素として、私たちの意志や行動がまるで関与しない、なんてことはない。しかも、お前は今、この階層まで降りてきているのだからな」
たしかにパリンゲネシアは、何階層も上にある存在だ。それでも、こうして直接相対している以上、まるで「人間的」な思考を覗かせている。
物理的に地球すら滅ぼせるベルティーナの力が、まったく届かないなどとは考えづらい。彼女はBWゾーンに蠢くパリンゲネシアのすべてに対して瞳を開き、差時間の膜を幾重にも重ねて、一層大きな渦を放った。
「擬態人形の女王よ、まだ分からぬか。おまえの力は、おまえの“階層”までしか及ばない。物理も精神も同じだ。量子の世界をねじ曲げたところで、私の階層では“すでに確定”した現象でしかないんだよ」
瞳は、さらに広がっていく。いつしか空そのものがパリンゲネシアの一部と化し、ベルティーナの目に映る景色のすべてを覆いつくした。
ベルティーナはわずかに呼吸を乱し、肉体の疲労が少しずつ溜まっているのを感じる。ラナイの血を使えば、姉ヴェナレートのように細胞構造を分子の分布に変え、肉体の消耗を消せるだろう。だが、いまの彼女にはできない理由があった。
「パリンゲネシアよ。おまえは上位回路でありながら、この階層まで降りてきた。そして今、私と向き合っている。なのに、本来の力を振るえないのは、おまえ自身が必死に誤魔化している証拠だろう? そう……おまえも、シニスに操られた“存在”にすぎないのでは?」
その言葉に、上空に広がるパリンゲネシアが震えた。黄金色の太い槍が、何本もこちらへ向かって放たれる。
ベルティーナの胸を次々に貫いていく黄金の槍――だが、そこにあるのは、あくまで“仮の”肉体だった。かつてジャッロの兵に削り取られたときと同じように、ラナイ一族は肉体の位相をずらし、何度でも身体を復元できる。苦痛は残るが、今のベルティーナは痛覚を別の感覚へ変換する術さえ備えていた。
「女王の人形、ベルティーナ。私は六万年前に誕生した“上位回路”だ。フォトスのシニスに操られただと? あんなものは、下階層の歪んだ世界に不存在を上書きしただけの、ただの熱平衡の塊だ。存在と呼ぶに値しない。だから私は拒んだのさ。そんなものに取り込まれるのを、ね。そして、パリンゲネシアの世界を創り出した。それを……操られた、だと? ふざけるな!」
つい先ほどまでの肉体を貫かれたまま、ベルティーナはじっと相手を見据える。そして、まるで新しい皮膚が作られるように、別の肉体が形作られていく。
「そう……それがフォトスに拒まれた理由だよ、パリンゲネシア。人間にあまりにも近い、その思考様式がね」
再び、黄金の槍が上空から降り注ぐ。だが今度は、ベルティーナが片手をすっと差し出すだけで、その槍の群れは砕け散った。
「シニスの最大倍数“ダーク”がフォトスの世界を創るとき、人間の悪意や怨念、醜怪な面から生まれた“パリンゲネシア”の中間階層の回路を嫌ったのだ。だから、世界の半分におまえを押し込んで、切り離したんだろう?」べルティーナが嘲笑して言葉を発する。
「私は私の意志でこの階層に自分の世界を創ったのだ」
パリンゲネシアの真の憂鬱はそこにあるのだろう。
それこそが“真のパリンゲネシアの世界”が生まれた理由。フィーネが「パリンゲネシアなどどうでもいい」と言い捨てた根拠でもある。フォトスのシニスは時間が経てば、BWゾーンさえ消えれば、人間と変わらないほど“小さな”パリンゲネシアなら簡単に消し去れる……という算段なのだ。
皮肉にも、BWゾーンがあるおかげでフォトスもパリンゲネシアも生き長らえていた。だが、いまフィーネが侵攻してきたということは、とうとう準備を終えたに違いない。
重く垂れ込める空の下。ベルティーナとパリンゲネシアの視線が激しくぶつかる。
――この世界を包む戦慄が、いよいよ本格的な崩壊を迎えようとしていた。
パリンゲネシアは、先ほどまで空を覆っていた巨大な姿を収束させ、やがて本来の大きさに戻った。足元に湧き立つような闇の気配をまといながら、ゆっくりと――そして真っすぐにベルティーナへ歩み寄ってくる。
その歩幅はあまりにゆったりで、まるで確信的に獲物を狩る捕食者のよう。周囲には、一瞬だけ不自然な静寂が訪れた。風の音さえやんでしまったように感じる。
パリンゲネシアは至近距離まで近づくと、その腕をすっと伸ばした。
ベルティーナは反射的にそれを払い除けようと腕を振る。だが、パリンゲネシアの腕はまるで幻のようにスルリとベルティーナの攻撃をかいくぐり、首筋へと滑り込む。
「――っ! く……」
強烈な圧迫感が、ベルティーナの喉を絞め上げる。息ができない。喉仏がガリガリと軋むような痛みを生々しく感じながら、彼女は微かな悲鳴を絞り出した。
「今度はちゃんと、おまえの“肉体の本体”を掴んだよ、女王の人形。逃げ場はもうない。分かっていたんだろう? 私の正体を。おまえたちの都合で、ほかの同胞たちと切り離され、放り出された私の屈辱を――」
パリンゲネシアは無表情のまま、青白くなっていくベルティーナの顔をじっと見つめていた。やがて、その手を放すと、ベルティーナを地面に投げ捨てる。
ゴッ、と鈍い音を立ててベルティーナの身体が地を転がり、咳き込みながら喉に引っ掛かった言葉を吐き出した。
「だが……何故だ? フォトスやダークが……人間の感情の善し悪しで回路を分断するなんて……聞いたことがない。何故……人間の価値基準で、おまえたちを選別したんだ?」
ベルティーナはまだ腰を地につけたまま、苦しげに問いかける。
その視線の先で、パリンゲネシアの唇が妖艶に歪み、穏やかとも冷たともつかない美しい声が響いた。
「もちろんさ、女王の擬態人形。第一に、人間の思考回路はすべて“感情”から発振されている。シニスは“偏向された一様な感情”を好む。けれど、おまえが言う“人間の悪意”は、個人ごとに形が違い、凄まじく多様で、しかも全体に波及する。そのおぞましい個性の複合こそ、私の正体。
それを押しつけられたのが、私なんだ。ダークにとって“不必要”なものとして、切り離されたのが私。――そう、世界の裏側にさ。
だからこそ、もう一度言う。おまえたちからもらったこの“醜怪”さを、いまから全部返してやる。さあ、“人形遊び”の時間だよ」
唇からあふれる声は美麗だが、その裏に潜む嗜虐的な響きは否応なくベルティーナの耳を震わせる。
大地に膝をついたままのベルティーナを前に、パリンゲネシアの気配がさらに膨れ上がる。まるで、現実のすべてを飲み込もうとする黒い波が、じわじわと迫ってきているかのように感じられた――。