175、 未来 パリンゲネシアの憂鬱
この世界の地上は、どこを見渡しても緑色の植物に覆われている。だが、その植物たちはただ静かに揺れるのではなく、不気味に蠢いていた。根のようなものが地上から伸び出し、先端が震え狂っているのが目に入る。そのうねりは異様な生気を放ち、亜希の背筋を冷やしてくるほどだ。
かつては妖精のような幻妖が数多く舞い飛んでいたが、今はまったく姿を見せない。その事実が、この光景にいっそうの不安を与えていた。
亜希と史音は、頭上の空を見上げている。澄んだ空というよりは、怪しく灰色がかった光をたたえた天空だ。そこには、侑斗や椿優香、そして史音がベルティーナと呼ぶ女性がいた。彼らが向かい合っているのは――以前、自らを“パリンゲネシアの本体”と名乗った存在。空一面を歪めるように漂うその気配は、見ているだけで心が凍り付くような圧迫感を放っている。
『観客は多いほど、私たちの歓びは高くなる――』
空から亜希たちに向かって、低く響く声が降り注いだ。言葉というよりは、意識そのものが直接伝わってくるような感覚。史音は一瞬そちらに視線を向けると、薄く息をつきながら地面に唾を吐き、口元を拭う。
「本当に悪意のみに特化した思考体だな」
彼女の横顔は険しい。周囲を埋め尽くす植物のうねりも相まって、ここが生半可な世界ではないことを痛感させられる。亜希は心の中の不安を抑えきれず、口を開いた。
「ねえ、史音……。さっきベルティーナさんが言っていた『パリンゲネシアが人間の恥部』って、どういう意味なの?」
その問いに、史音の瞳がかすかに暗さを帯びる。うねる緑の風景の中で、その小さな変化だけが妙に印象に残った。
「ああ、ベルの言ったことは、そのままの意味だよ。パリンゲネシアは、あたしたち人間の思考が生み出した上位階層体なんだ。もっと言えば、あたしたち自身も、さらに小さな思考体が作り出した階層の思考体にすぎないってことさ」
亜希には理解できない話だ。頭を振ってみても、難解さは変わらない。
ふと、空がほんの一瞬だけ暗くなった場面を思い出す。椿さんが透明な剣を振り下ろしたときのことだ。
「さっき、世界との結合を外すって言ってたけど……いったい何が起こったの?」
「ああ、あれな」
史音は、空を仰ぎ見る。その向こうには灰色にかすむ空間と、まだ続く対峙の気配がある。
「クリアライン・ブレイド。あたしも以前に侑斗から借りて使ったことがある。だから、あれの恐ろしさはよく知ってるんだ。
昔、地球が暴走した者たちによって思考形態の偏向が起こり、世界のあり方が変わりそうになったとき、甲城トキヤって男が“現状に繋がるすべての可能性”との結合を外してしまった。あれは、過去を遡ったり空間をねじ曲げたりして、あらゆる実態との繋がりを切断する、史上最大の剣なんだよ。
優香は、フォトスに囲まれて身動きが取れない状況をひっくり返すために、それをまた使ったわけ。ほんの一瞬とはいえ、あのとき世界が真っ暗になったのは、優香やベルたちのいた場所がどの階層からも事実上消え去ってたからだ。もちろん、そんな状態を維持できるほどの力は、さすがの優香でもなかったし、BWゾーンそのものも耐えられなかったから、すぐに元に戻ったけど。フォトスの幻怪人やフィーネを追い払うには、十分だったみたいだな」
話が飛躍しすぎて、亜希の頭は混乱するばかり。それでも、史音が口にする世界の仕組みが、何かとてつもない規模の話だということは感じ取れる。
「私にはついていけないよ……。史音は前から、世界の階層構造って言ってたでしょう? ミクロの量子世界からマクロの宇宙まで、私たちは自分の階層しか認識できなくて、ほかの階層は知らないって……。でも、さっきから言ってる“思考階層体”って、物質の上下関係と同じなの? それとも精神的な階層なの?」
言いながら、自分でも何を訊いているのか曖昧になってくる。史音は露骨に面倒くさそうな表情をして、亜希の目を見る。
「あのなあ、亜希。物質的な階層とか精神的な階層とか、そんな区別はもともと存在しないんだよ。物質って何だ? 精神的って何を指す? どっちも同じ現象を、別の側面から見ただけの幻想みたいなもんだ」
これ以上、頭の中を混乱させないでほしい。げっそりとした亜希の表情を見て、なぜか史音は嬉しそうに口角を上げる。純粋に歪んでるな、この娘も。
「物質っていうのはエネルギーの偏りだよ。本来、バラバラに光速で宇宙を飛び回ってる素粒子が、強い力とか電磁力、重力なんかで結びついているように“見えてる”だけのものなんだ。だから、所詮は宇宙の4%しか説明がつかない。それ以外を、ダークマターやダークエネルギーって呼んでるわけだろ」
ダークマターやダークエネルギーは、その幻想の枠の外にあるということなのか。
史音は続ける。
「一方で人の思考力ってのは、自分の外にある法則を探ろうとする“認識力”のこと。それが幾重にも重なり合うことで、物質世界の階層が存在してるように見えるんだ。相似方向性があるから、同じ階層の思考体同士なら、お互いの世界を認識できる。言ってしまえば、物質世界と思考世界は同じコインの裏表なんだよ。その証拠として物理的に干渉できない暗黒物質に人の精神構造は干渉できる」
人間原理みたいな話だ。まあ、史音の言う通りなら、この世界は人間だけじゃなく、それぞれの階層の思考体と表裏一体で成り立っているということなのだろう。
亜希の目には、まだ蠢き続ける緑の植物が映っている。かつて存在していた幻妖たちは消え、空ではパリンゲネシアが不穏な気配を放ち続けている。この世界はいったい、どのような思考と物質が折り重なって生まれているのだろう。亜希は胸に渦巻く疑問を抱えたまま、重苦しい気配を孕む空と大地を、ただ見つめていた。




