174,未来 マクロとミクロの世界の狭間で
地球の上空には、いくつもの星が重なって瞬いていた。その中心部分が大きく裂け、暗い帯のようなものが地球へ迫りつつある。シニスのダークは、星々の狭間に生じた亀裂が地球の空間を裂いていく様を、ただ静かに見つめていた。
そのとき、優香が高く掲げたクリアライン・ブレイドから、瞬くような閃光がほとばしる。まるで世界の基盤を断ち切るかのように、あらゆる階層を一気に貫くその光には、**フォトスの上層世界と量子の下層世界を直結するため、自分たちがいる階層の“結合”を切り離す**意図があった。
彼女は研ぎ澄ませた知成力で、自らを取り囲む“世界”の境界を刃先で巧みに切り分けていく。すると、BWゾーンだけでなく、フォトスやパリンゲネシアといった別世界も、優香のブレイドがもたらす影響を免れない。もとは無数の接合点によってバランスを保っていた世界が、意図的に結合を断たれ、フォトスの高次領域と量子世界の最下層だけが狭間を経て直結されていった。
> 「これで、 これでフォトスと量子の世界は直につながる。一時的に私たち自身の階層は切り離されるけど……今はこうするしかないんだ」
優香の声はどこか自嘲的だった。圧倒的な力を行使することへの一抹の迷いと、それでも使命を最優先に据える決断が、微妙にぶつかり合っているように見える。
こうして世界を支えていた結合が外された結果、上位回路は自壊を始め、元来そこに人々の暮らしていた階層ごと“第六次元”へと吹き飛ばされる。侑人や美沙、一矢、セージ、ベルティーナ――その誰もが、自分たちを保つ“枠”を失い、輪郭を曖昧にしていく。
「これが……世界から切り離されるってことなのか」
侑斗の思考はそんな言葉を最後に遠のき、意識は闇の底へと沈んだ。
ただ、霧散師だけは真空から新たな支えを抽出し、空間の奥へ楔を打ち込んで、自分がいる階層をいくらか安定させられる能力を持っている。そこへベルティーナが知成力を注ぎ込み、上下から世界を支えるように存在力を流し込むが、それでも足りない。深まる亀裂を前に、彼女の表情には焦燥がにじんでいた。
零たちの階層も同様に世界の外側へ押し出されていく。仲間たちの姿は次々と輪郭を失い、形を保てたのは零とハルカだけだった。
「――零、ハルカー!」
優香の刻奏音が届く。第六次元では言葉というより“音”そのものが伝達の手段になる。
「――ベルひとりじゃ世界を支えきれない。零、今だけでいいから、結合を外された枠をつなぎ直して! あなたならできるはず!」
「霧散師!」
零は刻奏音を介してハルカと意識を交わす。
「何だ、葛原零」
「優香が切った“結合”の枠をもう一度つなぐ。あなたに預けた輝石を指示どおりに放って!」
そう言うと、零は紺碧の輝石を十三個、宙で螺旋状に配置し、そこへ存在力を注いでいく。ハルカも零の行動を感じ取り、優香が結合を断ち切った理由を直感した。彼女は刻奏音を頼りに優香の居場所を探しつつ、知成力を送り込みながら輝石を空へ投げ放つ。
ダーク・ブルーの光をまとった石たちは、深い闇を突き破って上昇し、ベルティーナが維持する空間の障壁さえ超えていく。そして、**零が創り出した“つなぎ直し”の力**は、先ほどまで切り離されていた仲間たちの階層を再び枠として成立させた。
一方、量子世界と直接結合したフォトスの世界では、幻怪人やフィーネの姿が薄れ、上空に待機していたダークもフォトスとBWゾーンとの交流が途絶えてしまう。両者の間には依然として大きな溝が生まれ、干渉は困難な状態に陥った。
しばらくして、優香がクリアライン・ブレイドへ注いでいた知成力を解くと、零とベルティーナの力で作り直された枠に侑斗たちの世界が戻り、上階層や量子世界との結合を再取得する。
「――戻った、のか……」
侑斗は急に思考が冴え始めたことに驚きながら、辺りを見回した。灰色に濁る境界だけを残して、周囲はほぼ以前どおりの姿を取り戻している。優香はブレイドを地面に突き立て、過度の消耗で崩れそうな身体を支えようとしたが、とうとう膝を突いた。そのまま侑斗が腕を貸す。
「やりすぎだ。こんなの、一歩間違えれば世界が完全に終わってたぞ」
侑斗がたしなめるように言うと、優香は浅く息をつきながら、苦笑とも諦観ともつかない表情を浮かべる。
「これでも“始まり”に過ぎないんだよ。階層を超えて世界を賭けるって、そういうことだから」
一方、霧散師たちは世界が切り離されている間もパリンゲネシアの侵入口を創り、あるいは阻み、“世界の壁”をなんとか繋ぎ続けようと尽力していた。
「セージ、あとどれくらいかかる?」
優香が背後を振り向いて問うと、セージはいつもの平坦な声に苛立ちをわずかに混ぜて答える。
「数分程度ですね。ただ、カラナ・ソーリア――あなたは危険すぎる博打に出ました。世界の結合を外すなど、本来なら最後の一手でしょう。パリンゲネシアだけでなく、他のすべても巻き込む可能性があったのです」
「仕方ないさ、セージ。こうでもしなきゃ、先へ進めない」
優香が肩をすくめる姿を見て、侑斗は「私生活でもこんなふうなのか」と呆れたくなった。
そのとき、霧散師のアンナが突然声を上げる。
「女王ベルティーナ! パリンゲネシア側から、とんでもない力が流れ込んできます! ――みんな、備えて!」
「あれは……?」
侑斗が眉をひそめた瞬間、紫色の空間に開いた円から放たれた光の矢が、アンナの首を一瞬で吹き飛ばした。彼女は悲鳴を上げる間もなく絶命する。
> 『案内人はもう要らない』
さらに、近くにいた霧散師たちの身体までもが容赦なく切り裂かれ、無数の光の矢は軌道を断たれた途端、血に濡れた妖艶な幻妖へと形を変える。パリンゲネシアの眷属なのだろう、その姿は凄惨でありながら、どこか美しさすら宿していた。
そして――満を持してパリンゲネシアの“本体”が姿を現す。オレンジ色にきらめくその装いは、少年か少女かすら判別しがたい中性的な容貌で、かえって残酷性を際立たせているようにも見えた。
「経路をいくら操作しても無駄だよ。私たち上階層の前では、最初から確率なんて決まっているんだ」
パリンゲネシアが侑斗を正面に捉え、無機質な笑みを浮かべる。その笑みのあまりの歪みように、侑斗は背筋に嫌な汗をかいた。
「こいつにだけは殺されたくない……」
そう内心つぶやきつつ、侑斗はクリスタル・ソオドを手に力を込める。
「下層の思考体が偉そうに……。ならば、おまえたちの身体を“裏返して”やろう。意力があれば、おまえたちの存在そのものを根底から書き換えるのは造作もない」
パリンゲネシアが軽く腕を振ると、侑斗と優香は内側から切り裂かれるような痛みに襲われる。声を上げるどころか、呼吸すらままならない。
そこへ、パリンゲネシアの眼前に巨大な瞳が浮かび上がった。瞳が微かに光り、相手の時間を凍結させる。
「私の“真空の瞳”――上階層にだってそれなりに効くんだね。パリンゲネシア」
ベルティーナは自らの肉体を霧散し、瞳だけの形を維持している。
「いかにも“人間的”なことをするじゃないか。ああ、そうだったね。おまえたちは、人間の負の感情が生み出した存在……だったか」
パリンゲネシアはわずかに表情を歪め、すぐに凍った時間を再び動かす。
「敵は、おまえたち人間の“世界”そのもの。私はお前たちをすべて滅ぼし本来のパリンゲネシアに還るのさ」
ベルティーナは再び人型に復元し、目の前のパリンゲネシアを冷厳な目つきで見据える。
「消えるのはお前だ。人間の“恥部”が形を得た姿なんか、長くは存続できやしないさ」
亀裂が無数に走る空間で、両者の視線は激しくぶつかり合う。次の瞬間、ここにあるすべてが破滅へと呑まれるかもしれない――そんな緊迫感が辺りを満たしていた。