表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
175/244

173、未来 デコヒーレンスの壁の間

目を開けると、荒涼とした空間が広がっていた。かすかな風が吹き抜けるだけで、辺りを満たすのは緊張感と不穏な気配。ここは、デコヒーレンスの壁の間。物理法則がねじれた世界の狭間であり、パリンゲネシアとの決戦が繰り広げられようとしている。


 世界の階層は、小さな領域から大きな領域へと連鎖している。それは確率の高い分布が極微からマクロへと拡張し、熱力学の第二法則にも通じる不可逆性を帯びていた。通常であれば、上位の世界が下位の世界に手を加えることはできない。それが、この世界の基本的なルールでもある。


 ところが、パリンゲネシアは本来、互いに干渉し得ないはずの下位世界、つまり人間の住む地球の“枝”に侵入し、その存在を覆いつくそうとしている。なぜ、そんなことが可能なのか。答えは単純ではない。創造主と呼ばれる存在と、その手先であるダークが、階層構造を“真上から”破ってしまったからだ。地球の大樹はそもそも創造主によっておかれたものだったからだ。そこにはるか遠くから地球を擬人化するための意志が注ぎ込まれた。


 かつて「地球を守る教団」が行おうとした巨大な干渉行為――マクロからミクロを無理矢理に操作し、不在をもって存在を覆そうとした試みがあった。それはデコヒーレンスの壁をこじ開け、下位世界の確率分布を上位へ引き上げようとする行いだった。フィーネが操る塵楳(じんばい)の力は、感情の自励発振(じれいはっしん)を制御することでミクロを操作する行為にほかならない。さらに、知成力によって存在確立を操る葛原澪やベルティーナの方法も、同様の禁忌を犯しているといえた。



 フィーネの形をしたフォトスの怪人が、ベルティーナへと殺到する。空間に淡く浮かぶ真空の瞳(カーディナル・アイズ)が、その怪人たちを次々と引き裂いていくものの、フォトスの群れは際限なく押し寄せ、明らかに不気味な圧力を増していた。


 「……女王よ……私たちフォトスは、ここだけではない。BWゾーンの至るところで現れ、この世界を破壊する」


 フィーネの唇は動かず、にもかかわらず空気が振動し、不気味に言葉が耳を刺す。


 「それがどうした。私と葛原澪がいる限り、このBWゾーンがなくなることはない」


 ベルティーナの声には、自信というより冷え切った静謐が宿っていた。しかしフィーネの言葉はそれをあざ笑うかのように続く。


 「それでも、この世界が傷つけば、お前たちの力は削られるのだ」


 事実、BWゾーンとベルティーナ、そして葛原澪は互いに依存関係にある。フォトスに世界の一部を壊されるたび、彼女たちの存在も弱まっていくのだ。ベルティーナが真空の瞳でフォトスの怪人を消し去ろうとしても、その数は減るどころか逆に増えているようにも見える。


 「ベル、フォトスの相手はもうしなくていい! 予定どおりパリンゲネシアの本体を狙うんだ! そこに集中して!」


 優香の叫びが戦場に響く。彼女はフォトスが入り込む空間の穴へ向き合うように両手を合わせ、その通路を霧散させ始めた。通路はじわりじわりと縮小していく。


 セージやカノン、美沙、一矢たち霧散師も同時に力を合わせる。穴は小さくなりかけるが、フィーネの声が空気を震わせるように嘲笑を含んだ響きを放つ。


 「霧散師の力か……椿優香、ユウ・シルヴァーヌの成れの果てよ。パリンゲネシアに囚われないために身につけた力で、我らフォトスに対抗するつもりか? 己のためだけに生み出した術で、無限に湧き出る我らを止められると?」


 フィーネの言葉とともに、塞いだはずの穴の周囲にいくつもの新たな穴が生まれる。そこからフォトスの幻怪人が次々と姿を現し、絶え間なく襲いかかってくる。


 「我らに底などないのだよ。小さき者たちよ。お前たちは、大いなる我らに奉仕し、与えられたとおりの思考パターンを生み出せばいい。すでにこの星の半分が、そうなっている……」


 侵入する幻怪人の無数の目が、揃って禍々しい輝きを放つ。霧散師たちはその勢いに一瞬たじろぐものの、すぐに迎え撃つ体勢を整えようとする。


 「あなた、クリスタル・ソオドかクリアラインブレイドを作って!」


 優香の指示に応じるように、侑斗は漆黒のサイクル・リングからクリスタル・ソオドを具現化し、恐る恐る構える。そして深く息を吸い込むと、一気に剣を振り下ろした。フォトスの怪人たちは存在確立を削られ、次々と霧散していく。


 しかし、その数はまさに圧倒的。いくら消しても、すぐに新たな怪人が湧くように現れる。優香もまた、霧散師の長としてその力を振るい、侑斗とともに怪人の大群を吹き飛ばしていくが、均衡は儚いバランスの上にあるだけだ。


 「優香、これじゃ消耗戦だ。女王とパリンゲネシアの対決は後に回して、まずはフォトスを叩くべきじゃないの?」


 美沙が悲鳴に近い声を上げながら、必死に怪人を消し去っている。その横にいるセージが、乾いた喉でかろうじて声を振り絞った。


 「だめだ、美沙。女王の力は無限じゃない。この場でフォトスの怪人に全力を出せば、パリンゲネシアの本体と戦う分の力が尽きてしまう……」


 荒れ狂うように押し寄せるフォトスの怪人、そして彼方から迫り来るパリンゲネシアの本体。BWゾーンを舞台に、混沌とした戦いは最高潮へと近づいていた。優香と侑斗が肩を並べ、必死で霧散の力を行使しても、全体のバランスはぎりぎりで保たれているにすぎない。


 この先にあるのは、どちらかの絶望か、それとも——。今はただ、一筋の光も見えない暗闇の中で、彼らは懸命に抗い続けるしかなかった。



葛原零のそばには、彰、琳、洋、そして鳳ハルカの四人が集結していた。まるで暗い空の下、嵐の前の静けさを思わせる光景だ。しかし、その静寂はあっという間に打ち砕かれる。彼らの周囲、特に零の立つ場所めがけて、フォトスの幻怪人たちが襲い掛かってきたのだ。


 これは当然といえば当然の成り行きだろう。ベルティーナの下に現れるのと同じ数の怪人が、世界のもう一方の支柱である零を狙っている。世界を支える者が二人いるなら、両者を一度に削り取るのがフォトスの常套手段というわけだ。


 零の紺碧の輝石は、その気配を感じるたびに淡い光を放ち、フォトスが作り出そうとする空洞を容赦なく消し去る。輝石が一つ光るたびに、フォトスの侵入経路は断ち切られる。それでも漏れ出てくる僅かな怪人たちは、ハルカの霧散師としての力によって消されていく。


 「これはきりがないなあ。パリンゲネシアと女王が戦っている間、葛原零にはBWゾーンを支えてもらわなきゃならない。どうしたものか……」


 ハルカが面倒くさそうに唇を歪める。彼女が開いた掌を拳へと変えると、それを合図にでもするかのように、フォトスの怪人が次々に霧散していった。彰は、その力にわずかな感嘆を抱くものの、すぐに気を引き締め直す。


 「……椿優香が、侑人が、ユウが……女王のそばにいるなら、この状況を予測してないはずがない。きっと何らかの対策を練っているはずだよ。だから大丈夫」


 零は深い呼吸をするように、身体を直立させて十四個の輝石を同時に操る。輝石が放つ光は美しく、それでいてどこか危うさを伴っていた。


 「でも、こんな戦い、いつまでも続けられるわけないでしょう、零さん……?」


 琳が泣きそうな声で訴える。彼女は零の背後に隠れるように立っていた。そこへ彰の低い声が響く。


 「琳、邪魔にならないようにそっちへ来い! 零さんから離れろ!」


 琳は一瞬、涙目で彰を睨むが、仕方なく零のそばを離れて大人しく彼のそばへ移動する。洋がそっと彼女の肩に手を置き、慰めるように言った。


 「大丈夫だよ。零さんが『大丈夫』って言ってるんだし、僕たちは邪魔しないよう、見守るしかないんだ……」


 零はふと、頭の中で亜希の顔を思い浮かべる。もしここに亜希がいれば、フォトスなど一瞬でリセットしてしまうだろう。それを恐れたパリンゲネシアが亜希を取り込んだのは、その力を封じるためでもあった。しかし、今となってはその影響が、ここでフォトスに自由を与えている。


 「霧散師の女!」


 零が鋭く呼ぶと、ハルカはわざととぼけたような声を上げる。彰はその態度に、一瞬だけ昔のハルカを重ね合わせる。


 「輝石の一つをお前に貸す。ラナイの女王の元で優香が行動を起こす時、これを使え」


 零のまわりを漂う十四個の輝石のうち、一つが強く輝き、ハルカのもとへ飛ぶように移動する。ハルカはそれを受け取ろうとするが、零は警告するように言葉を重ねた。


 「そのまま掴んだら、お前の身体はバラバラになる。霧散師の力で輝石の存在確立をできるだけ少なくしなさい。時が来たら合図を出す」


 ハルカは少し狼狽したように、その輝石をまるで霧の膜で包み込むかのように中空に留めた。胸元へそっと近づけるが、その際には苦しげに呻いている。


 「くっ……なんて重たいんだ……私か、師匠か、セージくらいにしか扱えないよ、こんな代物」


 それきり、ハルカは動けなくなったかのように立ち尽くす。



 「ベル、もうフォトスやフィーネは放っておきなさい! セージ、あんたたちは予定通り、霧散師の力でパリンゲネシアとの境界を解いて!」


 優香の声が、戦場に響く。フォトスの怪人たちが次から次へと押し寄せる中、その眼光は冷静な戦略を見据えているかのようだ。


 「そうしろと言われれば、やりますがね。パリンゲネシアの入り口は、すでに数日前からほとんど集め尽くしていますよ」


 優香から十メートルほど離れた位置で、セージの声が通る。どこか落ち着いた響きでありながら、その背後には張り詰めた気迫が漂っていた。


 「パリンゲネシアの幻妖を呼び出して、フォトスと戦わせるのか? そんなの、ハルカみたいな卑怯な手段じゃないか」


 一矢が苦言を呈する。だが優香は、ちらりとも目を向けず淡々と応じた。


 「卑怯だろうとなんだろうと、今は一時しのぎにしかならない。パリンゲネシア本体を仕留められない限り、ベルティーナだって限界が来る。だから、今この機会を逃すわけにはいかないんだよ。セージ、準備して。霧散師は全員、パリンゲネシアの本体に向けて境界を霧散させる準備をするの。できたら声をかけて」


 優香が背を向けたまま叫ぶと、フォトスの怪人たちはさらに勢いを増したかのように押し寄せてくる。侑斗の手に握られたクリスタル・ソオドは無尽蔵の切れ味を発揮するが、今この空間にいない存在までは切り裂けない。


 そんな中、六人の霧散師が一陣を組み、中空へと掌をかざしている。まるで大きな渦を作るかのように、複雑な幾何学模様が空気を揺らす。


 「優香、私たちのほうは何とか準備ができましたよ。あなた抜きでこれをやることになるとは、思っていませんでしたけどね……」


 セージの静かな声が響く頃には、フォトスの怪人たちも、新たなうねりを見せ始めていた。闇と光、そして人の思惑。それらが錯綜する戦場は、もはや一触即発の危うさを孕んでいた。


 「最初から、私抜きでもできるように鍛えてきたのよ。……さて、行くわよ」


 優香はそう言い放つと、横を向いて侑斗の右腕にあるサイクル・リングに手を伸ばす。そのリングからは、漆黒の空間が微かに揺らぎ、黒い霞が立ち上っていた。


 「私にはかつてこの剣を創った葵瑠衣がとり憑いているからね。たぶん、取り出せると思うんだ」


 そう言うやいなや、優香はサイクル・リングに手を差し込み、額には汗を滲ませながら、ゆっくりと何かを引き抜いていく。


 ――振るった対象を世界の結合から外す剣、クリアライン・ブレイド。


 その刀身は淡く歪む光を帯び、一瞬見る者の目を欺くようにちらつく。優香はそれをしっかりと握り、フォトスが出現してくる空間の穴へと向けた。


 「小さきものだと言ったね、フィーネ。私たちの階層がなければ、あなたたちも存在できないんだろう? だったら私は、さらに下の階層をそのまま、あなたたちにぶつけてあげる」


 そう宣言する優香の声には、不思議なほどの落ち着きがある。侑斗のサイクル・リングに左手を置き、何かを導き出すように集中している。クリアライン・ブレイドを横に構え、一度転回させる。その軌道に合わせるように、空間がかすかに揺れ動いた。


 「今から、私のいる空間の階層を、一瞬だけ世界の結合から外す。そして、私たちの下にある世界、デコヒーレンスの壁の下に広がる量子の世界と、フォトスの世界を直接つなげる」


 突然の告白に、侑斗は優香を凝視する。彼女の動きは大胆でありながら、どこか冷静な判断が垣間見えた。そんな彼女を前に、フィーネの声が微かに色を変える。


 「愚かな……失敗すれば、お前たちの階層は永遠に消えてなくなるんだぞ」


 感情のこもらないはずのその声には、わずかな狼狽がにじんでいた。


 「このままでもどうせ消えてなくなる」


 優香が不敵に笑った瞬間、彼女の背後――侑斗たちが立つ空間ごと、世界の結合から外されていくのが見えた。まるで巨大な歯車が音もなくかみ合わなくなるかのように、周囲の景色が一瞬ざわりと歪む。


 そして、デコヒーレンスの壁の下にある量子の世界と、フォトスの幻怪人が繋がった。その境界は、確率のみが支配する混沌。立ち込める霧のような微粒子が、幻怪人を直接侵食するかのように渦を巻く。


 ――これは、まるで禁じ手。失敗すれば本当に階層ごと消滅しかねない。しかし、優香はその危険を承知の上で、迷いなく剣を握っていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ