172、未来 それぞれの思慮
ベルティーナの激情は、ある意味で零よりも激しかった。燃え上がるようなその感情に、侑斗は翻弄されるしかなかった。
彼女の抱擁は、ただの快楽ではない。その先にある、押し寄せるような感情の渦が、侑斗の身体を締めつける。愛、執着、そして赦しを乞うような懺悔の波。それらが混ざり合い、際限なく膨れ上がっていた。
侑斗を創った存在である彼女の、本当の望みは、ただひとつだった。
――自分を、愛してほしい。
それだけ。
彼女の瞳に宿る負の感情。後悔、挫折、そして背徳の濁った意識。それらすべてが、無言のうちに侑斗へと助けを求めていた。
だからこそ、侑斗は彼女を抱きしめながら、ただ言い続けるしかなかった。
――貴女は悪くない。
その言葉を、何度でも。
彼女が救われるまで、何度でも……。
◇
「うわああああ!」
パリンゲネシアで二人暮らしをしている家。その朝、亜希は早起きをして朝食の準備をしていた。すると、突然、史音の大声が響き渡った。
――ああ、今起きたんだな。
亜希はただそれだけを思い、手を止めることなく料理を続ける。
やがて、リビングの入り口に、疲れ果てたような表情の史音が姿を現した。顔色は冴えず、黒ずんだ影が差したまぶたの奥で目が鋭く光っている。
「夢を見た……」
喉の奥から、呪詛のような声が漏れる。
亜希は黙ったまま、フライパンの中で味の無い卵をかき混ぜる。
「無視すんなよ! アタシの悪夢の内容を聞いてくれよ、亜希。お前に少しでも優しい心があるならさあ!」
朝から失礼なことを言う。ため息をつきながら、仕方なく口を開いた。
「どんな夢を見たの?」
史音は俯いたまま、目だけこちらに向けてつぶやく。
「侑斗がさ……」
ああ、あんまり聞きたくないなあ。
「侑斗が女どもに精神的に蹂躙されまくるんだ。一方的に繁殖行為を押し付けられる」
それは……気持ちが悪いな。
「聞かせないでよ。そんなろくでもない夢」
顔をしかめながらフライパンをコンロから外す。
「何でそんな夢見たの? このパリンゲネシアに来てから刺激のあることなんて何もないのに。史音の欲求不満がそんな悍ましい夢を見せたんじゃない?」
「……」
史音は口を閉ざしたまま、しばらく動かない。やがて、首を何度か大きく横に振った。
「そりゃあアタシは、アンタと違って普通の女だから、人並みの欲求はあるけどさ。でもこれは、外から流れてくる意識の情報だよ。何やってんだアイツ……しかも相手が……」
そこまで言ったところで、亜希は史音の頭にチョップを食らわせた。
「気持ち悪い話を朝からしないでよ。私はそんな感情を共有したくない」
「薄情者!」
史音は悪態をつきながら、渋々とテーブルにつく。そして、亜希が用意した朝食を無表情のまま口に運び始めた。
「そろそろなんだよね? ベルティーナさんって人が、私たちを助けるためにパリンゲネシアと戦闘を始めるのは」
「ああ。あの夢を見たってことは、もうベルはやるべきことを終えたんだろう。だから今日か明日には、行動を起こすはずだ」
もう夢の話はいい。亜希たちは、それが始まったら、修一くんが指定したマーキングポイントへ移動しなければならない。でないと、パリンゲネシアの世界ごと、亜希たちは消し去られてしまう。
「そうなんだけどな……アタシも、もしかしたらベルや優香も忘れてるかもしれない。もう一つの危険を……」
◇
ベルティーナの下を離れた侑斗は、夜明け前の薄暗い通りを重い足取りで進んでいく。彼が目指すのは、優香が暮らすという古びたビルのような建物だ。外観は石造りで重厚感があり、まるで時代に取り残されたような雰囲気を漂わせている。
――閉まっているはずの扉が、なぜか開いている。
侑斗は心の中で怪訝に思いながら、錆びついた蝶番が軋む音を聞きつつ、扉をそっと押し開けた。石造りの扉は、精神的にも物理的にもずしりと重く、わずかな力ではびくともしない。
建物の中は薄暗く、人気のない廊下には古い照明がぼんやり灯るだけ。湿気を含んだ空気がまとわりつき、奥からは物音ひとつ聞こえない。優香は眠っているのだろうか……。
そのとき、カラン、と氷の弾ける乾いた音が耳をかすめた。侑斗は廊下の突き当たりにある部屋を覗き込む。
「おはよう、あなた」
部屋の中央には、古びたテーブル。それを取り囲むように、豪華そうな酒瓶が何本も転がっていた。だが、ほとんどが空になっており、わずかに残っている一本も中身は一割ほど。そこに座っていたのは、青白い顔でグラスを手にしている優香だった。
「こんな美人の婚約者を放り出しておいて、朝帰りですか。そうですか」
掠れた声と落ち窪んだ目。彼女が一晩中飲んでいたのは一目瞭然だった。侑斗は思わず眉を顰める。放り出したのはベルティーナのほうだと弁解したいが、今の優香には通じそうにない。
「何か言うことはないのかな?」
世界を包むような話を聞いてきた後だというのに、現実はこんなものだ。優香がどれだけ特別な力を持つ存在でも、情緒は普通の女性と変わらない。侑斗は胸の奥にある罪悪感を吐き出すように言葉を絞り出す。
「ごめん」
彼の謝罪に、優香はゆっくりとグラスを置き、口角をわずかに吊り上げた。
「ごめんなさい、じゃないの?」
叱咤するような調子に、侑斗は返す言葉を失う。優香の声には疲労と苛立ちが混じり合っていた。
「これからシャワーを浴びて、私は好きなだけ眠る。泥のように眠る。あなたはそれに付き合いなさい。夕方まで二人で裸で抱き合ってベッドで眠るんだよ」
その言葉を聞いて、侑斗は思わず息を呑む。愛情なのか執着なのか、その狭間で揺れ動く優香の心情を感じ取るようだった。
「別々に寝たほうがお互いに疲れが取れるんじゃ……」
遠慮がちにそう言いかけると、優香は顔をしかめる。
「うるさい。これは罰なんだから黙って言うとおりにするんだよ。それとも、まだ私の琴線を引っ張りたいの?」
有無を言わさぬ気迫に、侑斗は観念してうなずくしかなかった。
「明日は、いよいよ決戦だから。私は気持ちをスッキリさせておきたいんだよ」
優香の声は沈んだまま。しかし、その瞳の奥には、決意の色が見え隠れしている。まるで明日を前に、混沌とした思いを振り払うかのように。
古い建物の薄暗い空気と、酒精の残り香が混じり合い、侑斗の胸には妙な圧迫感が広がっていく。世界の大きな運命と、この一室で交わされる感情の重み。その両方が彼の心を押しつぶしそうなほどに迫っていた。
◇
ついに、パリンゲネシアとの決戦の朝が訪れた。冷たい風が吹き抜ける荒涼とした大地に、霧散師たちが静かに集まっている。彼らの周囲には微かな霧が漂い、まるで世界と世界の狭間を象徴するかのようだ。
今回の作戦は、パリンゲネシアの世界がBWゾーンを侵食せざるを得ない状況を作り出し、最終的にベルティーナとパリンゲネシアの本体を直接ぶつけるというもの。侑斗が優香から聞いた作戦は、次のような流れだった。
まず、霧散師たちがBWゾーンの境界をぼやかしてフォトスの世界をパリンゲネシアの世界に直結させる。フォトスとパリンゲネシアは極性が逆の存在であり、BWゾーンがなくなれば、ふたつの世界は互いに強く惹かれ合ってしまう。その結果、パリンゲネシアの本体はフォトスへ侵入せざるを得ない。そこに待ち構えるように、BWゾーンに真空の瞳の結界を張り、一気にパリンゲネシアを捕捉するのだ。そして、さらに葛原澪の力を使ってBWゾーンを拡張し、侵入してきたパリンゲネシアの本体とベルティーナを直接対峙させる。
だが、侑斗自身はこの作戦に含まれていない。彼にできるのは、後方で事の成り行きを見守ることだけだ。霧散師たちが前線で術を行使する中、侑斗は複雑な思いを抱えながら、その光景を見つめていた。
やがて、優香が霧散師たちの先頭に立つ。夜明け前の冷気をまといながら、右の掌をそっと前に突き出す。すると、パリンゲネシアとの境界が静かに溶けるように消えていった。霧散師たちはその様子を見計らい、適度な穴ができた段階で、今度はフォトスの側の境界を同じようにぼやかしていく。セージをはじめ、他の霧散師たちが後方で慎重に魔法陣のような陣形を組み、空間を操作する。
空間がくぐもったような唸りを立て、双方の世界に大きな穴が穿たれる。そこから、パリンゲネシアの本体と思しき黒い影が、もやのように広がりながらBWゾーンへ侵入を始めた。
すると突然、セージたちが開いたフォトスの世界のほうから、大量の幻怪人がなだれ込んでくる。凶暴な咆哮を上げながら、口々に理解不能な声を発する。だが、霧散師の力を前にすれば、これらの怪人は脆い存在に過ぎない。次々と霧散され、消えていく。
しかし、怪人たちは底知れぬ数を誇るかのように、渦を巻いて湧き続ける。やがて、その渦の中心が濃密な闇に変じ、人のような形を作り始めた。
「フィーネ!」
霧散師の一人が声を上げる。その声に応えるように、闇の中から現れたのは、フィーネの姿を持つ存在だった。まるで操り人形のように身体を小刻みに揺らし、その口からは低くくぐもった声が響く。
「……ダークからの指示によって、私はお前たちを滅ぼす」
フィーネの背後には、フォトスの幻怪人たちが尾を引くように従っている。彼らの目は虚ろで、闇の奥から恐ろしいまでの殺気が漂っていた。
「パリンゲネシアはお前たちの敵だろう? なぜ邪魔をする」
一矢が声を張り上げるが、フィーネの濁った瞳は彼を捉えることなく、無機質に答える。
「パリンゲネシアなど、敵ですらない。本来なら真っ先に潰していた存在だ。だが、お前たちが創り出すこのBWゾーンこそが、ダークにとっては厄介なのだ。パリンゲネシアがお前たちを滅ぼすのが理想だったのに、お前たちは逆にパリンゲネシアを潰して、自分たちの世界を広げようとしている……そんなことを許すわけにはいかない」
背後に控える幻怪人たちが、一斉に身を震わせ、奇声を上げる。フィーネはそちらを振り返ることなく、ベルティーナに視線を定めてにじり寄っていく。その様子は、まさに操り人形のごとき不気味さだった。
侑斗はごくりと唾を飲み込み、硬くなった喉を鳴らす。フォトス、パリンゲネシア、そしてダーク。三つの力が交錯する戦場で、果たしてどのような結末が待ち受けているのか――その幕は、すでに切って落とされていた。