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170、未来 成就

優香の別宅は、ベルティーナの赤の城にほど近い、重厚な石造りの建築物であった。年月を経た壁面には苔が生え、風雨にさらされた鉄扉は長い歴史を語るかのように錆びていた。その最上階の一室で、二人は静かに抱き合っていた。


 不思議だ……と侑斗は思った。この前、零と身体を重ねたときは、自らの意思で彼女を抱いた。それは衝動でありながらも、確かに自分の選択だった。しかし、今は違う。優香に抱かれている。自分が包まれる側にいるという感覚。三年前の記憶が、不意に蘇る。途端に背筋を冷たい刃がなぞるような感覚が走る。


「震えてるね。君はまだ私に取り込まれると思っているのかい?」


「……いや、そういうわけじゃない……けど……」


「あの時、窓から差し出した私の手を振り払った。君は、自我を捨てないと自ら決めた。何かに溶け込むことよりも、たとえ不純物でも、この世界で自分でいることを選んだ。それなら、私も一人の女として生きるしかなくなったんだよ……」


 優香の表情がほころぶ。かすかに笑みが浮かんだ。


「やっと手に入れた」


 遠くを見つめながら、優香は侑斗の首をそっと引き寄せる。


 侑斗は微かに眉をひそめ、細く白い優香の首筋を見つめた。初めて出会ったときよりも、顎の線は鋭くなっている。彼女は、侑斗の視線の変化を感じ取りながら、静かに呟いた。


「……ああ、今のは、私の中の葵瑠衣の言葉だよ。彼女は、ずっとあなたを欲しがっていたからね」


 葵瑠衣は強欲な女だった。己の身体を分子結晶化し、優香に同化した。それでもまだ満たされることなく、求め続けた。葵瑠衣の妄執は世界に傷を与え、同時に救いも与えた。


 フィーネの塵楳を好んで取り込むことで、葵瑠衣は優香を自在に操った。史音が開発した塵楳ワクチンによって、それは一掃されたが、葵瑠衣の意識は完全には消えず、今もなお優香の内に微かに残る。


 かつて、ロッゾの魔女と葛原零の死闘の最中、侑斗の自我を奪い、その存在を取り込もうとした優香は、あの時の感情をはっきりと思い出せない。ただ、ユウ・シルヴァーヌの意思と、侑斗を手に入れたいという葵瑠衣の欲望が混ざり合い、世界をシニスにとって都合の良い状態に導いたことだけは確かだった。


 ふと、侑斗の脳裏に史音の言葉がよみがえる。


『お前の胸はアタシの半分以下だ!』


 確かに史音の胸は大きかった。優香の胸は、それよりも薄い。零よりも薄い。もしかすると、ベルティーナよりも……。


『あんたは年上の胸の小さい女が好みだと思っていたよ』


 亜希の言葉が続く。彼女の胸は……


「こら、私の胸に顔をうずめながら、他の女のことを考えるとはね。あなたもすっかり、普通の男になったね。昔の私なら、どうでもいいと思っただろうけど……私も今は、本来の女に近くなった。だから、そういうのは不愉快だ」


 優香は侑斗の両耳をつまみ、じろりと睨む。


「……ごめん」


 侑斗は小さく呟く。考えていることが伝わるものなのだな、女性には。


 侑斗はかつて、女性の容姿に興味がなかった。優香もまた、男性と女性の区別がつかなかった。だが今、二人はようやく、自分の性を自覚するようになった。それはユウ・シルヴァーヌの意思だったのか? いや、違う。人の思考の結果など、誰にも予想はできない。ラプラスの悪魔ですら。それは、ただの偶然だった。


 世界を創るものは、あやふやな人の知成力。そのゆらぎこそが、この階層世界の本質なのだ。


「私はようやくあなたを手に入れた。でも、まだ彼女たちはあなたを諦めないだろう。そして何より、あなたを創ったベルティーナは、確かめずにはいられない」


 優香の言葉が、空間に響く。


「本当になってみて分かるけど、女ってのは悲しい生き物だね」


「そうだね。俺たちは、それを理解する努力をしなきゃいけない」


 ユウ・シルヴァーヌの口からは決して聞けなかった言葉が、侑斗の口からこぼれ落ちた。その瞬間、優香の瞳がほころぶ。



 ベルティーナの下を去った二人が再び現れたのは、二日後の朝だった。


 女王の城の入り口には、セージ、一矢、美沙、そして数名の男女が立っていた。朝の光が城壁に差し込み、硬質な影を地面に落としている。


「おやおや、思ったより早かったですね。私は、もう少しゆっくりしてくると思っていましたが」


 セージはいつものように穏やかな笑みを浮かべながら、二人を迎えた。その隣で、一矢が怒気を帯びた眼差しを向けている。


「お前たちは最低だな。こんな時に何を考えているんだ! 恥を知れ!」


 一矢の鋭い声が、朝の空気を裂いた。隣にいた美沙が、静かに彼の肩に手を置く。


「無粋ですよ、一矢。こんな時に誰かに道徳を押し付けるのは、良くないことです」


 かつて枝の御子として指導役と生徒だった二人。その距離は今も埋まらぬままだった。


「まあ、貴女の言う通りですが、美沙。一矢君がこの性格のままなのも、貴女の責任ですよ。今現在に限っては、優香のほうが貴女よりずっと上手く男性を導いている」


 セージに諭された美沙は、頬を赤らめて言葉を失った。


「……私は……一矢よりもずっと年上で、もう四十を過ぎます。だから……」


「そんなことはどうでもいいでしょう」


 セージは肩をすくめながら、静かに微笑んだ。まるで大人の見本のような立ち居振る舞い。侑斗は、その様子を見て恥ずかしさを覚えた。こんなにも当たり前の感情が、今まで自分に浮かばなかったことが不思議だった。


「セージ、一矢。私のプライベートに関わる話は、二度とするんじゃない。それは、あなたたちにも世界にも、口出しされる謂れはないからね。だから、美沙、あんたたちのことも、私にはどうでもいいことだ」


 優香は真っ直ぐに立ち、堂々とした口調で言い放った。


「セージ、ベルはどうしている?」


 セージの口元の微笑が消える。


「もう、あなたたちの帰還を伝えました。今は女王の間で、あなたたちを待っています」


 そう言った後で、セージはわずかに哀しげな表情を浮かべ、低い声で続けた。


「確かに、あなたたちのプライベートに私たちは口出ししません。でも、女王にそれを求めるのは無理な話です。彼女にとっては、あなたたちだけの問題ではないのですから」


 落ち着いた声で、静かに響くセージの言葉。侑斗は、この男が全てを知っていることを悟る。史音とは別の意味で。


「わかっている、セージ。上手くいくかは分からないが、精一杯善処はする。それから、一矢と美沙の指導は順調なのか?」


 セージは再び穏やかな表情を取り戻し、頷いた。


「ええ。他の霧散師の二割ほどの力は、身につけましたよ。あ、美沙、気にしないでください。他の霧散師は、あなたたちの四倍の時間をかけて、ようやく辿り着いた力ですから」


 霧散師とは、己の存在を極限まで薄めることのできる者のみがなれる。強大な力を持つ女王も、葛原零も、木乃実亜希も、そして橘侑斗も、その資質を持たなかった。


「二人と私を合わせても、霧散師は六人か。少しきついね」


 優香は、零のもとに残したハルカのことを思う。


「あとアンナとカノンが来ることになっています。パリンゲネシアの世界は、私たちの誘いに乗らずにはいられないでしょう」


 優香は、上階層のパリンゲネシアの幻妖本体が、このBWゾーンに出現する確率を演算する。適切な配置を行えば、引き込むことは可能だ。零がBWゾーンを支え続けてくれれば。


「実行するのは二日後だ。以前立てたプランの配置とタイミングの修正は、セージ、あなたに任せる」


 そう言いながら、優香は侑斗とともに城のエントランスへと向かう。


「なぜ、二日後なんだ?」


 一矢と何人かの霧散師が疑問を口にする。


「察しなさい。美沙、一矢、他の者の指導をお願いします。さすがの私も、これ以上朴念仁の相手をするのは、心労が忍耐を超えます」



 女王の間には、ベルティーナが二日前と同じように玉座に座っていた。その表情は、どこか暗く沈んでいた。


「……遅かったですね……などとは言いません。あなたたちが、そういう関係になるとは思っていませんでした。セージは当然のように予測していましたが……元は一つだったあなたたちが、自分自身とそういう関係になるなんて……想像もできませんでした……」


 優香は侑斗の手を強く握りしめ、ベルティーナに対峙する。


「私たちは、もう別々の人格なのだから。ようやく、あなたやレイの想いが成就したんだ。私は女となって彼を愛し、彼は男となって私を好きになった。性を持たなかった私たちが性を持ったことで、あなたたちは欲しいものを手に入れることができるようになった」


 ベルティーナは、それが真実であることを理解していた。だが、彼女が求めていたのは、そういう形ではなかった。


「葛原零は、もう試したのですね? 侑斗」


「……ああ、零はもう試したよ、ベル。結果はまだ分からないようだけど」


 優香の言葉を聞いた侑人は、かすかに眉を寄せる。零は、あんな無茶をしてまで……。


「私たち二人は、一人ではもう誰も愛せない。でも、二人一緒なら……ベルティーナ、あなたも、葛原零も、愛することができるかもしれない」


 優香の言葉に、ベルティーナは静かに瞳を閉じた。そして、ゆっくりと口を開く。


「ごめんなさい、優香。どうか、彼とあなたのパートナーと二人だけでいてください。多分、これが私があなたにする最後のお願い」


 ベルティーナの静かな瞳を前に、優香はわずかに視線を落とした。悲しみを帯びたその横顔には、どこか諦念が滲んでいる。何も言葉を発せず、恭しく一礼をすると、ゆっくりと後ずさるように下がった。


 そして、静かに身を翻す。普段の彼女からは想像もできないほどの静謐な足取りで、侑斗の横を通り過ぎる。足音ひとつ立てず、石堂の部屋を後にするその姿は、まるで儚い幻のようだった。


 侑斗はふと、背筋に冷たいものが走るのを感じた。


 ――今、彼女は何かを呟いたのではないか。


 それとも、ただの錯覚なのか。優香から溢れた呪詛のような気配が、侑斗の意識の隅にこびりついて離れなかった。


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