169、未来 小さき者たち
それは突如として始まった。
空の色が変わる。いや、空だけではない。大地に生える草木も、そこに生きる動物たちの姿さえも、まるで水面に映る影が揺らぐように歪み始めていた。
亜希は史音の手を引き、より安定した場所を求めて走る。自分はまったく疲れを感じていないが、隣の史音は明らかに息を切らし、肩を大きく揺らしながらゼイゼイと荒い呼吸を繰り返していた。
「……亜希……アタシはお前より頭が良いが、体力は普通の人間なんだぞ。少しは気遣え……」
どうやら、亜希はまた長距離を短距離のスピードで走ってしまったらしい。慌てて足を止め、史音の顔を覗き込む。汗でぐちゃぐちゃになり、今にも泣き出しそうな表情――でも、こういう顔の史音は可愛い。
「よし、こうしよう」
亜希は史音の両脇を抱え、まるで赤ん坊を抱くように持ち上げた。
「馬鹿野郎! 何するんだ!」
史音がヒステリックに叫ぶ。声が枯れていて、もはや発音すら怪しい。
「いや、史音ちゃん、私が抱えてあげるよ。その方が速いし」
だが、史音は亜希の腕の中で激しく暴れ、あっという間に地面へと転がり落ちた。
「このゴリラ女! お前の脳みそは猿並みか!」
なんて失礼なことを言うんだろう。もう置いていこうかな……。
「でも、このままだと、空も地上も私たちを押し潰そうとしているよ」
亜希は周囲を見回しながら言った。大地はうねり、空は渦を巻くように歪んでいる。まるで世界そのものが自分たちを飲み込もうとしているかのようだった。
史音は肩で息をしながら、それでも冷静に答える。
「ここまでくれば十分だ。パリンゲネシアの本体がアタシたちを呼ぶために、大雑把な手段をとっただけだろう」
確かに、史音の言う通りだった。世界の収縮は止まり、私たちを押し包もうとしていた圧迫感も消えている。だが、その代わりに、私たちは狭い空間に閉じ込められていた。
その空間の中心――そこに、ぽつんと白い点が浮かび上がる。それは次第に広がり、やがて一人の人影を形作った。
現れたのは、真っ白な美しい少女――いや、少年のようにも見える。性別を超越したかのような存在だった。
そいつは静かに私たちを見下ろし、言葉を放つ。
『フミネ、お前はパリンゲネシアの第一誘言者として、私に呼ばれた者だ。お前は私の世界で存在を許された数少ない人間……それなのに、なぜ役目を果たさない?』
第一誘導者――以前、史音から聞いたことがある。
言葉によって人を誘導して繋がりを司り、それを起点に世界を拡張していく存在。かつて彰くんと深く結びついていた鳳ハルカ、鳳一族はその力を利用して支配領域を広げていたという。
史音はその存在を前に、まるで観察するようにじっと見つめた。いや、単に暇そうに眺めているだけのようにも見える。
「アタシの意思とは関係なく、勝手に役目を決めるな。そういうのは、お前の手下みたいな幻妖にでもやらせとけ」
史音は、目の前の存在をじっくりと眺め、時には撫でるように指先で触れながら適当に言う。
『フミネ……お前以外の者が私に触れたら、その瞬間に消し飛ばしているぞ』
「そうか? じゃあ遠慮なくアタシを消し飛ばしてみろよ。ほら、さっさとやれよ」
パリンゲネシアの本体は、わずかに不愉快そうに口元を歪めた。
「ふん……お前、重力崩壊を起こせるほどの存在力の塊だな。世界のほとんどの力を一点に集中させたのか? フォトスの世界とついに対決する気か? それともベルティーナとの戦いに備えているのか?」
史音は気軽な仕草でパリンゲネシアの頭をポンと叩き、観察を止める。……本当に怖いもの知らずだな、この子は。
『そもそも、この世界にアオイルイが入り込めば、すべては終わっていた。お前たちの階層は、私の上位回路の支えとなり、この地球は本来のあるべき姿に戻る』
冷たい視線を向けられても、史音は無造作に腕を組んでいた。
「亜希、重力量子論の階層性問題って聞いたことあるか? ……人間ってのは、なんでも自分の常識を客観的な自然の複雑さにこじつける癖があるんだよ。本来はミクロの世界の話だけど、こいつが言ってるのはちょっと違うな」
沈黙の後、パリンゲネシアの本体は皮肉めいた笑みを浮かべた。
『さすがフミネ。私が選んだ”最後の枝の神子”……自分たちが”小なるもの”だと理解しているのか』
史音は腕を組んでいた手をほどき、大きく背伸びをする。
「ハハハ、創造主がアタシたちの階層の上位回路から降りて来るってって知ったからな。当然、それに抗うお前らも、アタシ達に近い階層に属する存在だってこともわかるさ。……お前はアタシを”最後の枝の神子”と言ったが、アタシを選んだのは、この”地球”だ。地球の大樹は創造主が創り、お前たちが階層の会談として管理した。だが地球の大樹に意志を与えたのは宇宙の果ての存在だ。それがアタシを選んだ。
まあ本来なら、階層が違うお前がアタシたちに関与するはずもないのにな。でも、身の危険を感じたお前は、この階層に降りてきて”パリンゲネシアの世界”を創った。……シニスのフォトスが、直接お前の階層を侵食するのを止めるために、な」
……何言ってるのか、さっぱりわからない。
夜空を見上げると、漆黒の闇に無数の星々が輝いている。それらは銀河団を形成し、さらに銀河系を作り上げ、太陽を中心とする惑星系を生み出している。すべては重力に引かれ、電磁力や強い力によって結びつき、一つの秩序を形成している。
史音の声が静寂を破った。
「亜希、この宇宙には階層がある。クオークやレプトンのような微細な粒子が結びついて物質を作り、やがて生命が生まれる。同じように、人間の精神も、小さな思考や感情の積み重ねで形成される。そして、その精神もさらに細かな要素に分解できるんだ」
史音は足元の石を蹴りながら続ける。
「逆に言えば、私たちの思考や意識も、より高次の存在の一部になっている可能性がある。だが、基本的に異なる階層同士が直接影響を与え合うことはない。クオークがグルーオンによって結びつけられているように、階層ごとに確立された秩序があるんだよ」
彼女の言葉を聞きながら、私は自分の手のひらを見つめた。
――私たちの存在は、もっと小さな精神活動の総体にすぎないのだろうか?
――そして、私たちはさらに大きな生命の精神の一部なのか?
――もしそうなら、その上位の存在を見ることは決してできない?
思考が深みに沈み、頭を抱えた。ダメだ、やっぱり何を言っているのか分からない。
その時、冷たい声が響いた。
「亜希、お前は自覚していないが、お前の力はその階層を打ち崩す存在だ」
鋭い視線が私を貫いた。
「お前に限らず、フォトスが作った偽りの地球で知成力を強制的に高められた者たちもそうだ。このままでは、この星だけではなく、近隣の宇宙一帯、さらには余剰次元に浮かぶ膜宇宙さえも影響を受ける。その力は、世界に致命傷を与える」
胸の奥がざわめいた。私が存在するだけで、世界が苦しむというのか。
「亜希、アイツの言うことを真に受けるな。結局、自分たちに都合のいい解釈を押しつけているだけだ」
史音がそう言い放ち、目の前の存在――パリンゲネシアの本体の額を軽く小突いた。
「それにさ、お前……この状況を面白がってるんじゃないのか? まるで、人間が顕微鏡でミクロの世界を観察するみたいにさ。本当にお前らの階層がここまで崩れるのを止めたかったなら、もっと早く手を打てたはずだろ?」
その言葉を聞いた瞬間、パリンゲネシアの本体は満面の笑みを浮かべた。その表情は、これ以上ないほど楽しげだった。
「小さき者たちよ、その通りだ。私たちの階層は何億年もの間、退屈で起伏のない世界だった。だからこそ、フォトスが下の階層に干渉し、力を与えたことは、実に興味深く、面白かった」
史音は眉をひそめ、その顔を睨みつけた。
「……お前のその傲慢さが、世界を混沌に導いたんだよ。亜希を取り込んだのも、その力を奪うためだろ? どうせ、お前たちの退屈しのぎなんだろう?」
史音の目には軽蔑の色が浮かんでいた。
「……アタシにはな、フォトスのシニスの方がまだマシに見えるよ。まあ、お前が作ったこの世界は、ベルティーナによって引き裂かれる。お前ごと、な」
すると、パリンゲネシアが甲高い声で笑い始めた。その声は世界中に響き渡り、周囲の幻妖たちもそれに呼応するように嘲笑を重ねる。
世界全体が、史音を笑っていた。
「ククク……この私が、この私たちが、下層世界の偽りの星の一国の女王ごときに敗れると? こんなに楽しい冗談は初めて聞いたぞ、フミネ。実に面白い」
史音は冷めた目でその光景を眺め、一瞬だけため息をついた。そして、くるりと背を向ける。
「行くぞ、亜希」
私は黙って史音の後を追った。
歩きながら、史音は静かに呟く。
「アタシはな、ユーモアとか冗談とか、そういうのは大好きなんだよ。でも、それを正しさの基準に据えようとする奴は、大嫌いなんだ」