166、未来 励起導破戦争Ⅲ 〜優香と侑斗の誕生〜
ベルティーナに諭された優香は、かすかに息を止めた。そのまま数秒間静止し、やがて大きく深呼吸をする。ゆっくりと侑斗の背後から離れ、彼の左手前、そしてベルティーナの右手前の位置まで歩み寄った。
何万キロの距離を一瞬で飛ぶことができる彼女が、まるで赤子のように震えながら、慎重に姿勢を正す。その様子を見て、ベルティーナの胸に淡い痛みが走った。
優香の視線が、静かにベルティーナを射抜く。
「ベルティーナ、貴女は私が創られた瞬間、レイと貴女の兄――バーナティーに追い詰められていた。だから、その瞬間を見てはいない……でも、もう気づいているでしょう?」
ベルティーナは一瞬身じろぎし、やがて俯いたまま小さく頷いた。
「ユウ・シルヴァーヌはレイ・バストーレのクライン・ボトルの結界に閉じ込められながらも、貴女を守る術を考えていた」
ベルティーナの指先が微かに震える。彼の想いを知っていたはずなのに――今、この瞬間、それがはっきりと輪郭を持って心に迫る。
「けれど、彼はそれだけを考えていたわけじゃない」
優香の言葉が、冷たくも確かな響きを持ってベルティーナに突き刺さる。
「ベルティーナ、そしてレイを苦しませ、その危機的状況を生み出した己の弱さを……涼しい顔をしながらも、実際にはレイに対する劣等感を抱えていた。それを恥じてもいた。けれど、それでも彼の意思が残らなければ、世界を救うことはできない。ステッラの地球の大地に、自らを送らなければならなかった」
ベルティーナは唇を噛んだ。ユウの決断の意味を、今ほど深く理解したことはなかった。
「だから私は……いいえ、彼は、レイと貴女を苦しめた『男性の性』を憎み、それを除去する意思をクリスタル・ソオドのアーク・ブレイザーに集約した。そして、自らの存在の半分を――バーナティーから奪ったパールムを利用し、スクエア・リムで放つことで、量子の海に共振転創を行った」
優香の言葉が、乾いた空間に響く。
ベルティーナの胸の奥に、何かがこみ上げた。
「それでも……貴女を創る力をこの地球に共振転創させた後……彼を……」
ベルティーナは侑斗を見つめた。
「……私を助けるために、残さなければならなかった」
侑斗の瞳が揺らぐ。破壊された記憶の奥深く、何かが呼応するように疼く。だが、その瞬間を思い出すことはできなかった。
「そうだよ、ベル……彼は、貴女を救うために残らなければならなかった。力の半分は彼に残したけれど、ユウの意思は私が忌み嫌ったすべてを否定し、すべて共振転創されたんだよ」
ベルティーナは震える息を吐いた。ユウの意思の行方、そのすべてを知る覚悟がなかったのかもしれない。
「その意思は、まず1年前に地球から教えられ最初の枝の神子、甲城トキヤの肉体情報を求めてダークの骸のもとへ向かった」
トキヤ……ベルティーナの脳裏に、遠い記憶の断片が過る。
その話は侑斗もトキヤから聞いていた。
『なんか嫌だったから追い払った、と』
「残念ながら彼は私を拒んだ。その代わり貴女の姉――ヴェナレートに憑いていった葵瑠衣が私に取り憑いた」
ベルティーナは息をのんだ。
「葵瑠衣はこの地球で肉体を拘束されながら意識は自由にクァンタム・ワールドを移動出来た。そして身体が開放された時、最強の力を持つヴェナレートの力を欲したんだ。けれども彼女がヴェナレートに敵う筈はない。やがて魔女となった彼女とロッゾの地球で葵瑠衣は戦い続けて、負け続けたんだ」
ベルティーナの手がわずかに震える。姉が追い求めた力、葵瑠衣の戦い――それらは彼女の知るものとは異なる物語を描いていた。
「ロッゾの地球でヴェナレートに敗れ続けた彼女の意識は、ある時、ブルの世界で二人の戦士とロッゾの魔女が戦う姿を捉えた。そして、ユウ・シルヴァーヌが一瞬でヴェナレートを破った姿に、彼女は驚愕した。いや、狂喜したんだよ」
ベルティーナの視界が歪む。
「そして――彼女は、肉体ごと憧れていたユウ・シルヴァーヌの意思に同化した。そして、葵瑠衣を同化したまま、それは地球の大樹へと入っていった……」
ベルティーナの胸が詰まり、呼吸が乱れる。
「1年前、地球と約束を交わし、その枝に触れていたから、地球はユウの意思を汲み取り……私を創った」
ベルティーナは目を閉じた。
「ユウの記憶は、私が初めて貴女に出会ったとき、地球から与えられた。いや、封印を解かれた……その時以来、私は男性を嫌い、そして残してきた自分の残滓を呪った」
優香の声がわずかに震える。
「フィーネの塵媒に憑りつかれた私は、感情に囚われていることにすら気づかなかった……でも、結果論として、私が君に女性を受け入れない強制術を使ったことが……君にすべてを疑う聡明さを植え付けた」
その言葉を口にしながら、優香は自分の中に不協和音を感じていた。
この想いは、本当に正しかったのか?
ベルティーナの視線が優香を貫いた。彼女の中に生まれた迷いに、かすかに共鳴するように。
ベルティーナは静かに問いかける。
「優香、貴女が共振転創された後、彼が私にサイクル・リング委譲を行ったのは貴女の意思だったのですか?」
優香は首を横に振る。
「いいえ。私は己を捨てて貴女を守れ、と指示した。貴女を守るために死ね――そういう意思を残した」
ベルティーナの肩が震えた。怒りが体を貫き、弱々しかった身体に力が戻る。そして立ち上がると、澪とは比較にならない力で優香の頬を叩いた。鋭い音が響く。
優香は驚くこともなく、ただ目を伏せたまま、澪に頬を打たれたときと同じように、一筋の涙をこぼした。
ベルティーナの唇が震え、涙を滲ませながら叫ぶ。
「貴女という人は……女は……何て、何て女そのものがやりそうなことをしたの!」
彼女の叫びが、部屋の空気を揺るがす。
その言葉を聞きながら、侑斗の胸には圧倒的な絶望が広がっていた。自分はユウ・シルヴァーヌが自らの罪を負わせるために残した廃棄物なのだと、ようやく理解した。胃の奥からこみ上げる吐き気が喉を焼く。自分が気持ち悪くて仕方がない。自分の存在がただ醜い。
意識が遠のく。
ガタン、と鈍い音を立てて、椅子から転げ落ちた。だが、床に崩れ落ちたことすら、自分では気づかなかった。
伸ばしかけた手が、虚空を彷徨う。
優香が手を伸ばすよりも早く、ベルティーナが侑斗のもとへと駆け寄った。
先ほどまでとは比較にならないほどの強さと意志で、彼女は意識のない侑斗の頭を両手で抱く。
「……すべてがわかりました」
彼女の声は震えていたが、その瞳には確かな光が宿っていた。
「レイ・バストーレが話せなかったこと。どうして残されたユウの意思が、自分の身を守ろうとしたのか――」
ベルティーナの腕の中で、侑斗の意識は目覚めなかった。
「優香! サイクル・リング移譲を行わなくても、彼は自らを犠牲にすれば私を救うことができたのです! それなのに、禁断のサイクル・リング移譲をしてまで私を守ったのは、残されたユウの意思が……優香、貴女を止めるために、私に転移創造を頼むためだった!」
ベルティーナの言葉が室内を満たす。
「彼は私にしか頼めなかった。レイ・バストーレには頼めなかったのです。死にかけたユウを転創するには、私の力だけでは足りない……だから、サイクル・リングが必要だった」
ベルティーナは息を詰まらせ、静かに目を伏せた。
「彼は私にサイクル・リング委譲をした後、レイ・バストーレに致命傷を負わされた。そして、優香、貴女の指示どおりに、命がけで私を助けた」
ベルティーナの拳が震える。
「怒りに身を包まれた私は、実の兄を躊躇なく殺し、レイ・バストーレすら目覚めた赤のサイクル・リングで圧倒しました。そして、私は彼を殺したレイ・バストーレを許せなかった……けれど、死にかけの彼は私を止めたのです」
ベルティーナは侑斗を抱きしめる手に力を込める。
「『ベルティーナ、止めるんだ。レイは悪くない。悪いのは僕だ』……これは、優香、貴女ではなく、彼自身が言った言葉です。貴女が卑しく醜いとして切り捨てたユウの残滓が、そう言ったのです」
彼女の言葉は優香の胸を深く抉った。
「少なくとも、そこに残されたユウが――レイ・バストーレが本当に欲したユウの、男性としての強さと優しさでした。だから彼女は優香を追わず、侑斗を求めたのです。けれど、残されたユウの中には蒼い懺悔の欠片が残されていました。それを持つことが、自らの使命だというように……」
ベルティーナはそっと目を閉じた。
「『ベルティーナ、お願いだ。どうか僕を真地球に転創してほしい。あれを放置しておくのは危険だ』……彼はそう言いました。だけど……彼が言った『あれ』とは、この地球のことではなかった。優香、貴女のことだったのです」
ベルティーナの目には、涙が浮かんでいた。
「ユウは私に自分の転創を頼んだ後、最後に言いました――」
「『なんて僕は馬鹿だったんだろう、化物だったんだろう。ちゃんとした男なら、レイを奪った君の兄さんに嫉妬の一つもしなきゃいけない。そんな素振りすら見せない僕に、レイはどれほど絶望したことだろう? そんな当たり前の感情が、こんな風になるまでわからないなんて。だからベルティーナ、僕を助けて。僕は……僕をやり直さなきゃならない』」
ベルティーナは静かに語る。
「……私が、どうしてそんなユウの最後の願いを叶えずにいられるでしょうか?」
そうして――侑斗は、ベルティーナの手によって流転創造された。
ベルティーナに抱かれた侑斗のまぶたが、ゆっくりと震えた。
意識が戻る。
視界に映ったのは、泣いている二人の美しい女性の姿だった。
(泣かないでくれ……)
心の奥底で、何かが訴えかける。
(それ以上、俺なんかのことで……悲しまないでくれ。苦しまないでくれ……)
右腕の漆黒のサイクル・リングが疼く。
それは、果てしなく冷たく、限りなく優しい痛みだった。