159、未来 朝日が過去を溶かすとき
今日はいつもより奥の方まで行ってみる。この白濁した世界では、指の届く数センチ先ですら、実際に触れないと実体を感じることができない。空気はひどく静かで、どこまでも広がる霧が視界を奪っていた。
ふと後ろを振り向く。今まで上ってきた大樹は確かにそこにある。少なくとも、帰る道だけは残されていると確信できる。枝葉はゆるやかに揺れ、風の流れを教えてくれる。
「さあ、もう少し先に行こう」
最初は妖精のように見えたパリンゲネシアの幻妖も、今では羽虫のように鬱陶しい。元の世界はもう無いかもしれないけど、とりあえず零さんのところに帰りたい。
巨大な枝を這うように進む私に、大樹の下から何かが呼びかける気配がした。
『亜希、戻れ』
史音の声だ。
『そこは前に行ったところだ』
そんなはずはない。私は慎重に枝分かれを選びながら進んできた。もう少し行けば、この世界から抜け出せる道に辿り着くはずだ。そう信じて腕を伸ばした瞬間、気がつけば私は大樹の真下に戻っていた。
史音が20メートル以上もある巨大な幹に触れ、何かを探っている。眠たげな瞳で、口の中で呪文を転がしているように見える。
「史音、どうしたの?私はアンタに言われた通りの順路で上ったのに、なんで元に戻っちゃったの?」
「まあ、ちょっと待て。分かるように説明するよう努力するから」
小馬鹿にしたような言い方だけど、不思議と不躾には感じない。
「同じ道を選ぶと、ここへ戻ってくるようにパリンゲネシアの主が設定したんだな。だが問題はそこじゃない」
史音は右手の人差し指と中指で大樹の節に触れ、じっくりと何かを探る。そして、得心したように頷いた。
「同じ道を行っても、辿り着く場所が毎回違うんだ」
全く意味が分からない。私は困惑し、首をかしげる。
「アタシは、自分がここへ来るまでの道を演算して、アンタに出口を探してもらった。でも、出口をランダムに変えられたんじゃどうしようもない」
確率の高い順路を全て探って出口を見つける。しかし、その出口自体が確率に支配されていたら、史音でも手の打ちようがない。
「この三か月……私がやってきたことは無駄だったってことだね?」
「まあ、こちらからはどうにもならないことが分かったから、無駄ってわけじゃないさ」
史音の思考は、結果が出ればその良し悪しに関係なく、とりあえず満足するらしい。
私たちは大樹に背を向け、家に向かって歩き出す。
「どうするの?もう私たちにはお手上げってこと?」
私の問いに、史音は横目で私を見て答えた。
「向こうの世界から手を伸ばしてくれるのを待とう。そろそろ、私たちを取り戻すために、アタシたちのいた世界から干渉がある……と思う。その時、見つけてもらうための手段を考えよう」
二人の間を、可笑しそうに口元を歪めた美しい羽虫がすり抜けていく。思わず払いのけたくなる。
「零さんが助けてくれるのかな?」
「いや、多分動くのはベルの方だと思う」
女王ベルティーナ——零さんの仇敵であり、零さんと同等の力を持つと言われる女性。
「葛原零の力は底が知れないが、対パリンゲネシアという点では、ベルの力の方が向いている。単体との戦いなら葛原零のアクア・クラインは無敵だが、同時に複数個所にいる敵と戦うには、ベルの真空の瞳の方が有利だ。それに、ベルには無茶でもそれをやらなきゃならない理由がある」
「理由?」ようやく質問する隙ができた。
史音は曇った顔で答える。
「ベルの寿命はもう長くない。ベルのカーディナル・アイズとサイクル・リングは相性が良すぎた。ベルの姉さん——あの魔女が力を蓄えすぎて蒸発したように、ベルの肉体はもう限界が来ている」
*
◇
零と侑斗の前に現れた優香は、以前とはまるで違う姿だった。侑斗が初めて会った時の曖昧な美しさは影を潜め、どこにでもいる普通の美しい人になっていた。
それでも、優香自身の存在のあり様は変わっていない。侑斗は過呼吸になり、胃液を戻しそうになる。身体が彼女を拒否して震えだす。
「何を怯えているの?侑斗、言ったでしょう?彼女を創ったのはあなたなんだから」
侑斗の右に立つ零が、左手を彼の俯いた右肩に置いて引く。
優香は一瞬、侑斗と視線を交わした。そして、零の方を見て話しかける。
「レイ、貴女は……貴女たちは最初から私を、ユウ・シルヴァーヌを愛してなかったんだね。彼の中の橘侑斗だけを愛していた。私を創った後に残ったものが、ベルから貴女を助け、ベルに転創されたものが、貴女たちの求めるものだったのに、貴女たちは彼を殺した。美しいほどの悲劇だよ」
零はすっと優香の前に躍り出て、左手を伸ばす。侑斗の時と同じように、優香の両頬を何度も打った。優香は侑斗のように崩れ落ちることなく、その平手を微動だにせず受け止める。侑斗はその二人の姿に圧倒された。
「ふざけないで、優香。私がユウのすべてを愛していたことは、誰にも否定させない。貴女でも」
一筋の涙が優香の瞳からこぼれ落ちた。
「それじゃあレイ、どうして貴女は私を追いかけてきてくれなかったの?私を不要だと言ったの?」
その姿を見て、侑斗は初めて優香の本当の顔を見た気がした。涙など一滴も持たぬ女だと思っていたのに——。
胸の奥が鈍く痛む。こんな哀しい光景を生み出したもの、それが自分自身の罪だと思うと、身震いするほどの嫌悪が込み上げた。
「……貴女を、力を放り出した後のユウが、私の中の女たちが本当に欲しかったもの。ユウの優しさは、ただの男性の弱さだった。その優しいユウが、私を裏切るはずがなかったのに……。塵媒に汚染された女たちは嫉妬の感情に囚われ、最悪の決断を後押ししてしまった。そして——ようやく手に入れたものを、私自身が壊した!」
零は立ち尽くす優香にしがみつき、その身を震わせる。まるで壊れかけた人形のように。
侑斗は目を見張った。今まで一度も見たことのない姿だった。我を忘れ、取り乱す零など——。
「……ごめんなさい、ごめんなさい! 私がユウを信じなかったから、私が愚かだったから、弱かったから……女たちの感情に憑りつかれてしまった。彼女たちは私に侑斗しか選ばせなかった……。あなたたちに勝手に私の想いを重ねて、苦しめた。この世界のすべての人を……。いえ、今も苦しめ続けている。
すべて、私が招いたこと。償いようがない。許してなんて言えない。
でも……私には、それしかできなかった。自分の想いが世界を苦しめていると知りながら、それでも、そうすることしか思いつかなかった……」
零は声を上げて泣き叫んだ。
その姿はまるで、初めて自分の感情に気づき、受け入れた哀しい女のようで——。
「貴女は悪くない」
「あなたは悪くない」
重なった侑斗と優香の言葉が、零の肩に優しく降りかかる。
——そうだ。本当に悪いのは——。
「余計なことを考えなくていいよ。あなたは橘侑斗、私は椿優香。それだけが事実。これを過去にしないために、私たちがやれることを考えよう」
優香と侑斗に抱えられ、零はゆっくりと立ち上がる。
「私がここにいる意味は……何?」
「今がここにあるため。そして——貴女は苦しまなくていい。だって零がここにこうしていなかったら、とっくにこの世界は消え去っていたはずだから」
過去を過去として、今を未来として繋いでいくために。
三人は、朝陽に向かって歩き出した。