157,未来 太陽系の危機
所々に点滅する照明と、最近取り替えたばかりの明るいLED街灯が交互に照らす夜の街路を、六人の影が静かに歩いていた。
先頭を行くのは零。そのすぐ後ろには、腕を組んだ彰とハルカ。ハルカの隣には、一人分の距離を空けた琳が真横を睨むように続く。最後尾には一矢と美沙が慎重な足取りで歩いていた。
「零さん、本当にいいんですか? この人たちを侑斗さんのもとへ連れて行って……」
琳が前方の零に問いかける。零はしばし沈黙した後、月を見上げながら静かに口を開いた。
「……私は、今のままでもいい。そう思っていた。この限られた世界で、私が心を許した者たちと残された時間を過ごすことも……」
欠けた月が鈍い光を放つ。夜空を流れる雲が、時折その光を遮っては形を変えていく。
「けれど、女王がいなくなればこの世界は失われる。遠くない未来に、この地球を引き裂いた者たちによって。だから今は、彼女の望みを叶える。それが私の愛した人の望みであり、自分を創った女王と出会うことは、侑斗にとって必要なことだと思うから」
後方を行く美沙はふと考える。かつて愛した人を巡って争い、失った過去を持つ二人——零と女王ベルティーナ。憎しみ合ってきたはずの二人に、変化の兆しが見え始めている。
三年前、塵楳の存在が明らかになった。多くの者がその影響に惑わされ、道を見失った。女王ベルティーナは本来、体質的に塵楳の影響を受けないことが判明していた。史音は最初からそれを知っていた。そして、零もまた、自分がどこまで己の意志で行動していたのか、疑問を抱くようになっていた。
月が黒い雲に覆われ、夜の闇が濃くなる。先に広がる狭い道は、さらに暗くなっていた。
※◇
「松原さん、次の星の掩蔽まで、あと四分ほどです」
七階建てのビルの屋上で、侑斗は松原洋に静かに声をかけた。雲の切れ間から顔を出した月が、再び暗雲に飲み込まれようとしている。
「分かった。とりあえず、さっきのη星のデータは保管しておこう。雲がうまく抜けてくれるといいんだけどな」
今日は、先日と同様に比較的明るい五等星以上の星が月に隠される「掩蔽」という天文現象があった。洋が持つ20センチの反射望遠鏡と、彰から借りた10センチの高性能屈折望遠鏡を用い、侑斗と洋はその観測を続けていた。
望遠鏡の接眼部には、零が作った高性能光電増幅装置が取り付けられている。データの照合は何百回と繰り返してきた。先日のデータだけでも十分な情報量があったが、今日の観測は地球の公転による影響と、時間を空けたデータの精度を確認するためのものだった。
雲の流れに固唾をのんで見入る侑斗と洋。しかし、次々と湧き上がる雲の大群が、月光を次第に覆い隠していく。
「ちょっと厳しいですね……雲が切れるのを待ちますか?」
侑斗の問いに、洋は首を横に振る。
「もう十分だろう。先日のデータの誤差を設定して計算してる。違いがあればすぐに分かるはずだ」
松原洋は、ただ星を眺めるのではなく、観測を何よりも好む。惑星食や星団の食といったメジャーな現象はもちろん、普通の星の掩蔽観測を真剣に行う者は、侑斗の周囲では洋だけだった。侑斗が亜希や零、史音と同じように洋を高く評価しているのは、その探究心ゆえだった。
「ありえないことが起こっているんですね……?」
侑斗の問いに、洋はノートPCの画像データを見つめ、不安げな表情を浮かべる。
「……まあ、零さんが作ってくれた装置とアプリのおかげだけどね。そう、すべての掩蔽される星が、本来の位置より0.9秒ずれている」
「月が……重力レンズ効果を起こしているということですか?」
一般相対性理論による重力レンズ効果。1919年5月29日、皆既日食の際に太陽が発生した重力レンズ効果によって、周辺の星の位置が1.61秒ずれた。それと同じ現象が、今、月の周囲で発生している。
つまり、月が太陽に近い質量を持っている、ということになる。太陽は太陽系の質量の99%を持つ。月など殆ど無視していい質量だ。
。しかし、そんなことが起これば——
太陽系の惑星はすべて軌道を維持できなくなる。いや、それどころか、太陽そのものが強力な引力に引かれ、中心に留まれなくなる。
だが、現実にはそんなことは起こっていない。
「侑斗くん、この世界はフォトスとパリンゲネシアに分かれ、その隙間に零さんとベルティーナさんが創ったBWゾーンがある。僕は世界がこうなる前から、掩蔽観測をしていた人たちとデータを共有していたし、天文学者のネット情報も習慣的に調べていた。だから分かる。
世界が引き裂かれる前には、こんな現象は起きていなかった。だから、僕は考えたんだけど……」
夜の空には無数の亀裂が走り、そこから闇が漏れ出しているようだった。星々の瞬きさえも、その黒い波に飲み込まれそうに見える。風はなく、ただ重苦しい静寂だけがあたりを支配していた。
「既に上階層からの侵略が始まっている。彼らはダーク・マターを含む階層の住人だ。今はまだ、高次元の階層と完全には繋がっていない。しかし、このまま侵略が進めば——もしダーク・マターの質量がこの異常を引き起こしているとしたら、やがてこの太陽系は……。」
洋は、考えを巡らせながらも不安を押し殺していた。しかし、彼の傍らに立つ侑人の表情は暗く沈んでいる。彼の胸の奥に広がるのは、まるで底なしの闇のような感情だった。
そんな侑人の沈黙を破るように、洋がふと何かに気づき、声を上げた。
「侑人くん、こちらに零さんたちが向かってきているよ。彰君と琳ちゃん、あと三人……誰だろう?」
侑人もその方向へ視線を向ける。遠くから近づいてくる影の中に、見覚えのある顔があった。彼の目がある一点に留まった瞬間、衝動的に非常階段へと走り出していた。
「ち、ちょっと侑人くん?!」
洋はその場に取り残され、呆然と立ち尽くす。彼の背後から足音が近づき、やがて零たち五人が姿を現した。
周囲には冷たい空気が漂っている。零の視線が周囲を巡り、やがて侑人の姿が見当たらないことに気づいた。
「侑人は?」
低く落ち着いた声が洋に向けられる。
「いや、その……彰くんの肩に手を置いている人の姿を見た途端、駆け出して行っちゃって……」
言葉を濁しながら答える洋を前に、ハルカが不思議そうに眉をひそめた。
「……侑人は逃げて行ったのね?」
零は無表情のまま、静かに呟いた。その言葉は夜の闇に溶けるように淡く響いた。
ついに優香の気配からも逃げるようになってしまった。