153、未来 霧散師
砂嵐は猛る獣のように荒れ狂っていた。しかし、不思議なことに、それは彼女の身体を避けるようにして渦を巻いていた。 砂の粒子が視界を奪い、世界をぼやけさせる中、彼女は迷いなく歩を進める。
深く被ったフードが風に揺れ、漆黒のマントが砂塵の中でしなやかにたなびく。全身を覆うそれは、まるでこの荒れ果てた世界に溶け込むための影のようだった。彼女の目指す先には、巨大な円筒形の建物がそびえ立っている。空を突き刺すようなその塔は、まるで異世界から切り取られた異物のように、砂嵐の中でも静かにその存在を主張していた。
やがて、塔の前に灰色の装束を纏った小柄な人物が現れた。砂塵の中にありながら、その者の周囲だけは風が穏やかに吹き抜け、まるで見えない力が彼女を守っているかのようだった。
二人の間の距離は、ほんの数歩。空間が静かに繋がり、互いの瞳が映し合う。
「久しぶりだなあ、霧散師カラナ・ソーリア。」
低く、どこか懐かしさを帯びた声が、嵐の轟音を切り裂いた。
訪れた女──カラナ・ソーリアは、僅かに首を傾げた。フードを指先で押し上げ、目深に隠されていた鋭い瞳を覗かせる。その眼差しは、鋭くもあり、どこか訝しげでもあった。
「反応が薄いな、カラナ・ソーリア。……いや、椿優香か。」
相手は微笑を浮かべた。ほんの僅かな表情の変化。しかし、それは確かに、過去を知る者の笑みだった。
「私だよ……」
相手は一歩踏み出し、彼女を真っ直ぐに見つめる。
「何度も助けられ、そして助けた。この西園寺史音を……忘れたのか?」
カラナ・ソーリアの指がゆっくりと動く。彼女は右腕を真っ直ぐに伸ばし、第一誘導者と呼ばれる女に向けて鋭く指を突きつけた。
「お前は……誰だ?」
その声には、冷たい確信が滲んでいた。
「私は、お前など知らない。」
砂嵐の中、銀光が奔る。
カラナ・ソーリアの両腕に集まった白銀の光が、渦巻く雷のように眩く輝き、空間を裂く。彼女は迷いなく、第一誘導者へとそれを叩きつけた。
しかし、第一誘導者は微動だにせず、左へと僅かに身を翻す。光の奔流は虚しく空を切り、彼の背後で砂塵を巻き上げる。
「……ちっ、問答無用かよ。」
第一誘導者は舌打ちをしながら呟く。
「そう、問答無用。」
カラナ・ソーリアは冷徹に言い放ち、再び光の奔流を撃ち放った。
だが、その瞬間、第一誘導者が静かに左手を掲げる。彼女の腕と身体の側面との境界が歪み、そこから闇色の波紋が広がった。 それはまるで世界の一部を引き裂くかのようだった。
次の瞬間、黒い波紋の中から、無数の影が湧き出る。第二誘導者以降のフォトスの構成者たちが次々と出現し、第一誘導者の背後に整列していった。
数百人の構成者が、一糸乱れぬ動きで三角形の陣形を組む。彼らは声を発することなく、ただ一つの意思のもとに行動していた。
そして、同時に──
「……行け。」
第一誘導者の命が下る。
瞬間、構成者たちの無機質な瞳が闇に染まり、ダークの力が奔る。
空間を裂くように、無数の黒い巨大な腕が伸びた。大気を飲み込む闇が、カラナ・ソーリアを捕らえようと襲いかかる。
フォトスの構成者たちが操るダークの力。それは、相手から強制的に知成力を消滅させる力だった。ダークの世界では、知成力は不要だからだ。
──そこは、「ものを認識することができない世界」。
──そこは、「個としての存在が許されない世界」。
カラナ・ソーリアは寸前で己の位相を移動させる。 闇の腕が迫るたび、彼女の姿は影のように揺らぎ、寸分違わぬタイミングで消える。
「椿優香……いや、カラナ・ソーリア。」
第一誘導者は静かに呼びかけた。
「フォトスの世界では、構成者たちの支配力は絶対だ。だがな……私は、お前をここに取り込もうとは思わない。」
カラナ・ソーリアの瞳が細められる。
「お前は3年間、自らを否定し、カラナ・ソーリアという存在になった。だからここは引け。」
第一誘導者の声は淡々としていたが、内にある感情を隠しきれなかった。
「私は、お前の敵じゃない……。だが……」
彼女はわずかに間を置き、低く続けた。
「お前がパリンゲネシアの側に就いたのなら、見逃すわけにはいかない。」
次の瞬間、第一誘導者の放つダークがさらに広がる。闇の腕は増殖し、カラナ・ソーリアの存在できる空間を次々と塗りつぶしていく。
「お前の言う椿優香も、西園寺史音も……私は知らない。」
カラナ・ソーリアの声は揺るぎなかった。
「フォトスも、パリンゲネシアも──私たちの敵だ。
二つに引き裂かれた世界を元に戻す。それが霧散師の使命だ。」
彼女は後退しながら、闇に覆われていない世界の境界ギリギリまで移動する。わずかに残された自由な空間の中で、己の存在を維持するため、身体を震わせた。
「なあ、優香。」
第一誘導者の声が静かに響く。
「私はな、お前たちブラッド・ウェイブにいる者たちを救いたいんだよ。少なくとも、パリンゲネシアの幻妖に取り込まれるよりは……人としての在り様を維持できる。」
カラナ・ソーリアは短く息を吐く。
「……人としての在り様とは何だ?」
彼女は低く呟き、第一誘導者を見据えた。
「パリンゲネシアの第一誘導者は、少なくともその答えを知っていたよ。」
※三年前──
再生された地球は、発現したシニスのダークによって支配された。
シニスの住まう中間層には、枝の神子すら手が出せず、零やベルティーナも個々に対処するしかなかった。
やがて──
知成力を持たない者、存在力の低い者は、個を捨て、シニスの一部となっていった。
その数が世界人口の半分を超えたとき、地球は──
その美しい姿を、完全に失った。
地球を構築する全ての概念は、人間を見捨てた。
枝の神子たちすら、地球の「枝」に触れることも、語ることもできなくなった。
──地球が、最後に知ったもの。
それは、**塵楳**の存在だった。
そして、塵楳に影響された者たちは、自覚なく自我を歪められ、シニスの構造要素に近づいていった。
地球は、その大樹は自らパリンゲネシアの幻妖を生み出し、塵楳に憑りつかれ感情を暴走させる全ての生物を、体表から追放した。
やがて──
「塵楳を受けつけない人間」
「他の生物たち」
──このわずかな存在によって、パリンゲネシアの世界は永遠に生成され続けた。
そして、二つに分かれた世界は、互いを敵視しながらも同時に存在し続けた。
──フォトスの世界。
そこは、知成力と存在力が欠如した世界。
──パリンゲネシアの世界。
そこは、塵楳を排除することで成り立つ世界。
どちらの条件にも該当する者たちは、多くいた。
だからこそ、フォトスの幻怪人と、パリンゲネシアの幻妖は、世界の境界で絶え間なく争い続けていた。
そして──
世界が分断されたとき、どちらにも受け入れられなかった者たちがいた。
それは──
強大な知成力を持ち、塵楳による感情操作の影響を受けていた者たち。特に数少ない枝の神子たちもそうだった。
彼らは、世界にとって「排除すべき存在」となったのだ。