151、未来 異形
空の色は漆黒に染まっていた。月齢は十九ほどだが、東の空には厚い雲が広がり、彰、琳、そしてハルカを照らす光は、頼りなく傾いた街灯のみだった。雨こそ降ってはいないが、湿った空気が肌にまとわりつき、じっとりと冷たい。足元のアスファルトにはわずかに残る雨粒が光を反射し、ぼんやりとした輪郭を描いている。
零に指定された時間は、もう残り少ない。そして、世界の境界に立つ彰たちには、別の脅威が迫っていた。
白い幻怪人――緑の幻妖。
それは、二つに分かれてしまった世界で、互いを引き寄せようとする異形の存在だった。その在り様は曖昧で、零が創り出したルートでさえも構わず、いや、むしろ新たな道を探し、より好みして侵入してくる。彼らに捕まれば、連れていかれるのは、今いる世界とは別の世界。もはや戻ることは叶わない。
「先輩、もう時間がない。だから、一緒に俺たちと行こう」
彰の言葉は、焦りを滲ませていた。だが、ハルカはそんな彼を見て、ふっと笑う。
「彰、そんなに慌てるなよ。今さら焦っても、あまり意味はないだろう?」
どこか達観した口調だった。そして、わずかに目を細めながら続ける。
「それから……嬉しいけれど、無条件に私を信用するのは危険だよ。今の私のこと、彰は何も知らないだろう?」
ハルカの視線が琳に向けられる。
「ほら、小鳥谷財閥の末っ子さんの方は、私をまるで信用していないようだ。君がこんな遠くまで派遣されたのは、小鳥谷家から鳳家を監視する使命を与えられたからだろう?」
――そうなのか?
彰は驚き、琳を見た。琳の表情は不満げだった。いや、むしろ隠そうともせず、あからさまに嫌悪を滲ませている。
琳が一歩、前へ出た。彰の前に立ち、ハルカを睨みつける。
「……分かってるなら、どこかへ行ってください。鳳財閥の跡取り様」
――こいつら、顔見知りだったのか?
彰は内心で驚く。だが、それ以上に状況は面倒な方向へ転がっていた。
「私はもう鳳一族の人間じゃないよ」
ハルカは肩をすくめ、ゆっくりと告げる。
「だから、君の使命は私には関係ない。私はな、彰と別れてから……葛原零に、根底を否定されてからずっと、自分探しの旅をしていたんだ。鳳一族の掌握する世界なんて、器量の狭いことにこだわっていた自分の小ささにも気づいた。だから、在城龍斗の教団にも身を寄せたし、女王ベルティーナ・ファラ・ラナイの下で学ばせてもらった。そんなことばかりしていたから、鳳一族からは勘当された。でも、まあ……私のいないあの一族なんて、この千切れた世界じゃ、もう機能していないだろうね」
ハルカはちらりと背後の路地を振り返る。影が揺れていた。
「そんな風に変わった私だけど――彰。私は、お前に対する気持ちは変わっていない。だから、ここで待っていたんだ」
彰はハルカの視線を正面から受け止めきれず、わずかに目を逸らす。
「……鳳ハルカ。あんたは相変わらず、そういうことを照れもせずに口にするんですね。最後に会った時と、何も変わっていない」
琳が、彰の袖を引く。
「行くよ」
その声音は、僅かに苛立っていた。
――ハルカと琳。
二人が最後に顔を合わせたのは、財界のパーティー会場だった。煌びやかに飾られたシャンデリアの下、優雅に振る舞うハルカと、「早く終われ」と心の中で叫んでいた琳。二人とも、人間の暗黒面が渦巻くその場を嫌悪していたはずだった。
それなのに。
琳は、ハルカを嫌いになった。
「先輩……俺はもう、あの頃の俺じゃない。貴方に想われていた俺は、もうどこにもいない」
彰の声には、わずかな苦悩が滲んでいた。だが、ハルカは表情ひとつ変えずに答える。
「彰には彰の事情があるだろう。私はただ、自分の気持ちを伝えただけだ。とりあえず、信用してもらうためにここへ来たんだよ」
静寂が、わずかに軋む。
空は次第に漆黒へと沈み、冷たい風が路地を駆け抜ける。建物の隙間を吹き抜けた風が不吉な音を奏で、闇が徐々に濃くなっていく。
どこからともなく、鳥たちの鳴き声が幾重にも重なった。か細く、怯えたような声。次第にそれは悲鳴にも似た響きへと変わり、空気を震わせながら不吉な前兆を告げる。
そして――
闇の中から、白い影が現れた。
路地の奥、月明かりの届かない闇が揺れ、じわりと滲み出すように無数の影が浮かび上がる。
それは身長一メートルほどの異形。逆三角形が潰れたような形の顔を持ち、どこにも目はない。だが、そのただならぬ気配が彰たちを射抜くように包み込んでいた。
白い幻怪人。
地の底から這い出すように、無音のまま湧き出す異形の群れ。その存在だけで、まるで世界そのものが軋むような感覚があった。
「彰さん、間に合わなかった……! 白い怪人が現れました!」
琳が声を震わせる。
彼らは、たとえ零が創り出した道であっても、世界に生まれたわずかな歪みを感じ取って侵入する。ダークが支配する世界に生じた不協和音を正すために。
「だから言っただろう?」
ハルカの声が、静かに響いた。
「彰、小鳥谷琳。お前たちは、どのみち間に合わなかったんだよ。だから、慌てても仕方ないって言ったんだ」
闇を背負いながら、彼女は一歩前へ出る。その姿は頼もしくもあり、どこか人ならざるもののようでもあった。
「私はお前たちを守るために、ここへ来た」
次の瞬間、
ハルカの両手が、白銀の光に包まれる。
月光よりも鋭く、夜の闇を切り裂くかのような光。幻想的な輝きが、白い怪人たちの無機質な輪郭を照らし出した。
「フォトスの幻怪人、霧散師――鳳ハルカが相手をしよう。」
ハルカの宣言が、夜の空気を震わせた。