150、過去 牟礼彰が星を始めた理由についてⅤ
数日後、彰はハルカに言われた通り、街角で侑斗を待ち伏せた。
狙い通り、侑斗が現れる。
「おい」
強引に腕を掴むと、侑斗は露骨に嫌な顔をした。
「離してください……」
だが、彰は構わず引きずるようにして歩き出す。
「お前一人じゃ逃げられねぇよ。ついてこい」
しがみつく相手がいない侑斗は、まるで魂を抜かれた抜け殻のように頼りなかった。
——本当に、こいつは亜希がいないと駄目な奴だ。
そんなことを思いながら、ハルカが待つファミレスへ向かう。
店内に入ると、窓際の席でハルカがデザートをつついていた。
彩り鮮やかなパフェだが、生クリームは控えめで、フルーツが中心のヘルシーなものだった。
二人の姿を認めると、彼女はゆったりと微笑み、軽く手を振った。
「やあ、橘侑斗くん。やっと会えたね」
砕けた笑顔を向けるハルカ。
「君と、その後ろにいる彼女たちに繋がるために、私は彰を利用したんだけど——」
フォークを置き、肩をすくめる。
「本気で彰に惚れちゃってね。私としたことが、すっかり感情に飲まれてしまった」
何でもないことのように、さらりと言う。
彰は深々とため息をついた。
侑斗はずっと俯いていたが、やがて小さく息を吸い、意を決したように口を開いた。
「俺は言った。俺に関わらない方がいいって」
その声は、震えていた。
「後悔するよ、貴女は」
ハルカは目を細める。
「後悔?」
くすりと微笑む。
「私はね、生まれてこの方、一度も後悔なんてしたことがないんだよ」
手をひらひらと振りながら、向かいの席を指す。
「まあ、座りなよ」
侑斗は俯いたまま、ゆっくりと椅子を引いた。
彰の隣に座り、ハルカと正面から向き合う。
「……自励発振……」
ぽつりと、侑斗が呟いた。
「貴女はそれを繋ごうとしている」
ハルカの表情が僅かに硬くなる。
侑斗は低く続けた。
「彰さんを足掛かりにして、自分の掌握する世界を広げるために」
店内の喧騒が遠のく。
ハルカは腕を組み、ゆっくりと目を閉じた。
そして、静かに息を吐くと、目を開き——悪びれる様子もなく口を開く。
「誰から聞いたんだい?」
笑みが消えた声だった。
「——まあ、全くその通りなんだけどね」
彼女の瞳に、冷たい光が宿る。
「仕掛けを作り、人を取り込み、私たち鳳一族の掌握する世界を広げていく。それが、私の役割だよ」
堂々と言い切る姿に、彰は思わず舌打ちした。
——何を話してるんだ、この2人。
沈黙が漂う。
微かに流れるBGMだけが、場を満たしていた。
やがて、ハルカが再び口を開く。
「それでだ、とりあえず君のことを教えてくれないか?」
スプーンを皿の上に置き、顎に手を当てる。
「君は、当たり前のようにこの世界に存在しているけど——」
琥珀色の瞳が侑斗を射抜く。
「君は、この世界の干渉体ではないよね?」
侑斗は黙ったまま、微動だにしなかった。
答えられないのではない。
——自分でも、自分が何なのか分からないのだから。
侑斗の頬が痙攣し、ピクリと動く。
ハルカの視線に捕らわれ、身動きが取れない。
言葉を発することもできない。
「人の初期自励発振はね、感情によって発動するんだよ」
ハルカの声が、低く響く。
「原初の生命は、感情を持ったからこそ自励発振を始められた。そして、それを調整して世界を繋いでいった。鳳一族の『状態支配』は、そうやって生まれた」
左手が、ゆっくりと侑斗の胸へと伸びる。
「さあ——」
囁くような声だった。
「君の感情の発振は、君の中にあるその青い塊から発せられる。君のルーツ……そこから遡って、君を私の世界に導こう」
指先が、侑斗の胸元へと迫る。
微かに、侑斗の指が動いた。
「先輩、やめろ!」
突然、彰が叫んだ。
「誰にだって、知られたくない自我があるんだ! それを、誰かの都合で勝手に暴いていいはずがない!」
だが——ハルカに、その声は届かない。
指先が、侑斗に触れる寸前。
——青白い炎が、侑斗の背後から立ち上った。
「……っ!?」
ハルカの手が、凍りつく。
燃え上がる青い炎の中から——宝石のように美しい二つの瞳が、現れた。
その視線が、ハルカを射抜く。
「——!」
ハルカの身体が、跳ねるように後退した。
彰は、初めて見た。
——あの鳳ハルカが、怯えて震えている姿を。
「……あ、あんなものと……」
小鹿のように震える脚で、ゆっくりと立ち上がる。
「私は……繋がろうとしていたのか……?」
顔面が蒼白だった。
「……あんなものと……」
呆然と呟く。
「すまない、彰」
かすれた声だった。
「……あれは駄目だ。私程度の力で、どうにかなるものじゃない」
唇を噛みしめる。
「——あんな、『世界そのもの』のような存在と繋がるなんて……一族の誰にもできない……!」
そのまま——鳳ハルカは脱力した身体を引きずり、ふらふらと店を出ていった。
翌日、彰はハルカに呼び出され、かつて彼女に連れられたビルの屋上に立っていた。
西の空には夕日が沈みかけ、茜色の光が長く影を伸ばしている。ビルの縁に立つハルカの背中は、その光を浴びながらも、どこか哀愁を帯びていた。風が吹き抜け、彼女の髪がゆっくりと揺れる。
「すまない、彰。もうお別れだ。すべて私の責任だ」
沈んだ声が響く。
昨日の光景が脳裏に蘇る。侑斗の背後から現れた青白い炎と、宝石のように輝く瞳。ハルカはあの瞬間、決定的な何かに触れてしまった。
だが、それはハルカだけの責任ではない。侑斗の言う通り、最初から関わらなければこんなことにはならなかったはずだった。
「……いや、先輩。俺の責任だ」
彰は拳を握りしめ、かすれた声で続けた。
「警告は受けてたのに。俺の矮小なプライドが、こんな事態を招いた……」
一度言葉を切り、唾を飲み込む。喉の奥が焼けるように熱い。
「でも……駄目なんですか? もう、俺たちはどうにもならないんですか?」
自分でも驚くほど、声が震えていた。視界が滲む。気づけば、頬を伝う涙が指先を濡らしていた。
ハルカは、押し殺した声で静かに答える。
「どうにもならない。私は、お前を通じて世界を繋げていくつもりだった。でも……」
彼女は視線を落とし、わずかに肩を震わせる。
「このままお前と共に進めば、鳳一族にとって致命的な終末をもたらす。私は一族を守らなければならない。世界を繋ぎ、守らなきゃいけない……」
ハルカは静かに手を上げ、彰の目の前にかざした。
「彰、今私たちが立っている場所を見てくれ。ここまでの軌跡を可視化する」
その瞬間――世界が崩れた。
景色が溶けるように形を失い、代わりに、淡いピンクの道が彼らの背後へと伸びていく。それは、二人が共に歩んできた日々の記憶そのものだった。
そして、今、彼らの足元から分岐する青白い一本の道。
「……悲しいよ。こんなことになって、本当に……」
ハルカの声が震える。そのまま彰を強く抱きしめた。
彼女の体は小刻みに震えている。伝わってくるのは、冷たさではなく、深い哀しみだった。
「先輩……俺は、もう貴女と一緒に行けないのか?」
彰は顔を伏せ、嗚咽を堪えられなかった。
「泣くな、彰。……お前が私のように苦しまないように、お前の記憶を書き換える」
彰は弾かれたように顔を上げた。
「そんなのは嫌だ!」
「許せ。そうしなければ、鳳一族はお前の存在を抹消してしまう。お前は私を忘れるだろうが……私はお前を一生忘れない」
「俺の存在なんか、どうなったっていい!」
「私が嫌なんだよ……私は、お前を失うのが辛い。本当に好きだった。だから……許せ、彰」
ハルカの両手が、そっと彰の頬を包み込む。
「……忘れたくない、俺は……!」
「忘れろ、彰……そして、新しい道を行け」
彰の意識に、見知らぬ記憶が侵入してくる。
違う。こんなのは、俺じゃない。俺は、俺は……
次の瞬間――
分岐する青白い道の先から、澄んだ声が響いた。
「その必要はないよ」
冷えた空気が流れ込む。
ゆっくりと現れたのは、宝石のような瞳を持つ女性。
彼女はハルカを鋭く睨みつけ、吐き捨てるように言う。
「お前が彼を手放すのなら、私の庇護のもとに置く。そして、私の前で二度とこんな愚昧な真似をするな」
ハルカが驚愕に目を見開いた。
彰も、息を呑む。
彼が初めて目にする、葛原零の姿だった。
「なんて愚かしいのだ。一族の使命? 世界を守るためだと? そんなくだらないことのために、愛し合った者が離れなければならない世界など、滅びてしまえばいい」
零の冷たい声が響いた。
彼女の瞳は宝石のように美しく輝きながらも、深い怒りを湛えている。
零は左手を伸ばし、彰の右腕を掴む。その手は驚くほどひんやりとしていたが、不思議と拒絶する気にはなれなかった。
「行くぞ」
零は静かに言い、彰を導く。
青白い光の道へ、足を踏み出す。
その瞬間、世界が揺らぎ、再び形を取り戻した。
風が吹き抜ける。遠くで鳥の鳴き声が聞こえた。
だが――そこに、ハルカの姿はなかった。
彰は呆然と立ち尽くす。
振り返ると、淡いピンクの道がかすかに残っていたが、それもゆっくりと溶けるように消えていった。まるで、彼女がいた証まで消え去ってしまうかのように。
唇を噛みしめ、拳を握る。
しかし、嘆く暇はなかった。
彰は息を整え、零の方へ向かって歩き出す。
零は何も言わず、ただ静かに彼を見つめていた。
彼女の背後には、侑斗と亜希の姿があった。
彰は袖で涙と汚れを拭い、侑斗に向かって足を速める。
「おい、お前、橘侑斗!」彰は両手で侑斗の肩をつかむ。
突然の声に、侑斗は驚き、声が裏返った。
「な、なんですか?」
「俺に星を見る方法を教えろ! それをするのに必要なものを教えろ!」
彰の声には、かすかに震えがあった。
「……」
侑斗は言葉に詰まる。
彰は拳を握りしめ、苦しげに言葉を絞り出した。
「駄目なんだ……こんな、何も確かでなく、信用できない世界の中で生きていくことは、もう俺にはできない。だから――全能で普遍に見える星や宇宙と繋がる方法を教えろ」
どこか絶望を滲ませるその言葉に、侑斗は少し困ったように眉をひそめる。
「いや……ちゃんとした機材は結構高いですよ? 高校生に買えるようなものじゃないです。それに、まず何をやりたいか決めてもらわないと……」
彰は迷いなくポケットからスマートフォンを取り出し、指紋認証でアプリを開く。
「紙の通帳は記帳が面倒くさいからな。この前、WEB通帳に変えたんだ」
そう言って、画面を侑斗に見せる。
そこには、ほぼ100万円近い残高が表示されていた。
「俺は読書とスポーツ観戦くらいしか趣味がなかった。あとはバイトして金を貯めるくらいしか、やることがなかったんだ」
「……足りると思います。まあ、上を目指せばキリがないですけど」
侑斗は驚きながらも、冷静に答えた。
彰は、あえて零と亜希の方を見ないようにしていた。
まだ――ハルカの腕の温もりが体に残っている。
今は、誰とも向き合う気にはなれなかった。
「行くぞ」
彰は侑斗の背中を軽く押し、夕焼けの中へと歩き出す。
まるで、この世界から逃げるように。