149、過去 牟礼彰が星を始めた理由についてⅣ
後に、葛原零は彰に語った。
「貴方は選ぶことができた。他我の種に身を委ね、その潮流に乗ることは何も間違っていない。そうすれば、それなりの幸福に満ちた人生を、世界が終わるまで送ることができた。私ならそうした」
静かに告げる零の声は、どこか乾いていた。まるで、手のひらからこぼれ落ちる砂を眺めるように——。
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その日、彰はハルカと共にサッカーの試合を観に来ていた。
フィールドでは、葛原修一が躍動している。まるでピッチの支配者のように、ボールを操り、試合の流れを創っていた。そのプレーは、隣にいるハルカと遜色ないほどの超人的な支配力を持っていた。
試合終了のホイッスルが鳴る。歓声が響く中、修一はちらりと彰の方を見た。そして、その隣に立つハルカの姿を認めると、目を細めて何かを納得したように視線を外した。
「いやあ、さすがは地元のスター葛原修一くんだね。彼の創るゲームはいつも、とてもバランスが良い」
彰は苦笑しながら言った。ハルカと付き合い始めてから、修一と会うことはほとんどなくなっていた。
「ところで彰、橘侑斗くんからその後連絡はあったのかい? 連絡先を伝えていたじゃないか」
不意にハルカが問いかける。
侑斗――彰はその名を聞いて、一瞬思考が止まった。そういえば、すっかり忘れていた。ハルカと付き合うようになってから生活スタイルが変わり、街中でばったり会うことすらなくなっていた。
今になって思う。要するに、自分は浮かれていたのだ。
侑斗の怯えた瞳の奥に、揺るがぬ意思を見ていたはずだった。そして、確かに興味を持った。
だが――ハルカと共に歩く道には、アイツは要らない。そう思っていた。
「なんなら今、声を掛けてきたらどうだい? あそこにいるよ、世紀の美女、木之実亜希さんも一緒だ」
ハルカが視線で示す方向を見る。そこには、確かに侑斗と亜希の姿があった。
亜希が嫌がる侑斗の頭を無遠慮に撫で回している。まるで子犬を弄ぶかのように。
そういえば、侑斗は修一の知り合いだと言っていた。だから、ここにいてもおかしくはない。
だが、何故ハルカは侑斗の話をする? 何故、アイツに興味を示す?
喉元から競り上がってくるこの感情は、嫉妬なのか?
自分がずっと笑い飛ばしてきた、前頭葉が作り出す幻覚――そう思っていたはずなのに。
その時、不意にハルカの携帯の着信音が鳴動する。
画面を確認したハルカは、彰に軽く手を挙げると、そのまま遠くへ離れていった。
取り残された彰の方へ、二人が歩いてくる。侑斗と、亜希が。
「アンタにも、せめて修一くんの5%くらいの器量があればねえ」
「無茶言わないでください。あんな奴の5%なんて、普通の人間にできるわけないでしょ」
何気ない会話を交わしながら、二人は前を歩く彰の存在に気づく。
会話が、止まる。
二人は口を閉ざしたまま、そのまま彰の横を通り過ぎようとした。
振り向きざまに、彰は侑斗の腕を掴んだ。
「おい、橘侑斗! なんで俺を無視する? なんで連絡を寄こさない?」
力を込める指先に、侑斗の細い腕の骨が僅かに沈む。
侑斗は困ったように顔を歪めた後、視線を落とす。
まるで自分の影を見つめるように、黙り込んだ。
「……貴方は俺に関わらない方がいい」
低くかすれた声だった。
「今、貴方のために用意された道を、そのまま真っ直ぐに進んだ方がいい。そうしないと——」
言葉が途切れる。
彰は奥歯を噛みしめると、侑斗の襟首を掴み、ぐいと引き寄せた。
「そうしないと、なんだ!」
息がかかるほどの距離で、鋭く問い詰める。
侑斗は、下を向いたまま、か細い声で答えた。
「……俺のようになる」
その言葉が引き金になった。
握る拳に力がこもる。
「自分だけ何でも知ってるような口をきくな!」
怒鳴り声が響く。
「女に溺れてる俺を、馬鹿にしてるのか!」
「ちょっと、やめなさい!」
鋭い声とともに、木之実亜希が彰の腕を掴んだ。
「自分はこんな綺麗な女と付き合ってるくせに……なんで俺を哀れむような目で見る。馬鹿にするな!」
彰は亜希の静止を振り払い、左手を振りかぶる。
殴るつもりだった。
——だが、その拳は振り下ろされることはなかった。
「止めなさいって言ってるでしょう!」
亜希の手が彰の腕を強引に引き離した。
凄まじい力だった。
抵抗する間もなく、彰は後ろへ弾き飛ばされる。バランスを崩し、尻もちをついた。
「……なんだよ、あの馬鹿力……」
痛む腰をさすりながら、呆然と呟く。
亜希は、ふっと息をついた後、静かに口を開いた。
「零さんが言ったの。貴方はそっとしておいた方がいいって」
彰は、眉を顰める。
「零さん?」
「葛原零。修一くんのお姉さんだよ」
零——修一の姉?
「鳳ハルカは目的のために貴方を取り込んでいる。でも、そんな愛の形があってもいいって」
何を言っているのか、分からなかった。
頭の中で言葉が渦巻き、まとまらない。
ゆっくりと立ち上がる。
亜希は、ちらりと侑斗を見た。
「それから、私たち付き合ってないから。こいつは、物凄く出来の悪い弟みたいなものだから」
侑斗も続ける。
「俺は、恋愛をする資格を剥奪されている」
「……は?」
彰は、思わず聞き返した。
「貴方はこんな風になるべきじゃない」
恋愛をする資格を剥奪? 何を言っているんだ、コイツは……。
「……ああ、コイツの言うことは真面目に聞かなくていいから。コイツの病気みたいなものだから」
亜希が軽く手を振る。
——頭の中が、チカチカと点滅する。
思考が揺らぐ。
ハルカと出会う前の自分が、今の自分に向かって何かを叫んでいる。
『なんでお前まで、そんなことを言う?』
侑斗と亜希は、もう彰の傍にはいなかった。
立ち去っていく二人の背中を、彰はただ眺める。
やがて、ズボンについた砂を払いながら、ゆっくりと立ち上がる。
そして——叫んだ。
「……ハ……ハハハハ……」
込み上げる笑いが、喉を震わせる。
「忘れてたな……こういう風に、当たり前に頭に血が上ることを……」
声が震えていた。
「俺は天邪鬼だからな。俺はお前たちに関わることを、やめない!」
言い放った直後。
いつの間にか、隣にハルカがいた。
まるで、すべてを見計らったかのように。
「やあ、彰」
朗らかに微笑む。
「また橘侑斗くんや木之実亜希さんと繋がれたようだね。私も嬉しいよ」
彰は、微動だにしなかった。
——少しも、嬉しくなかった。