148、過去 牟礼彰が星を始めた理由についてⅢ
「ここは彼女たちの場所だ。私たちは離れよう」
鳳ハルカは微笑を浮かべながら、穏やかに言った。
だが、彰の関心はハルカよりも、今まさにレジへ向かおうとしている侑斗に向いていた。店内の光が侑斗の背を照らし、彼の青いリングが一瞬、鈍く光る。だが、そんな彼を追う間もなく、ハルカは強引に彰の腕を取り、立たせた。
レジでは、すでに侑斗が会計を済ませていた。彼はレシートすら受け取らず、黙って袋を抱え、店を後にしようとしていた。ハルカは自分の分を頼んでいなかったが、彰の分まで支払いを済ませると、亜紀と侑斗の脇を抜け迷うことなく店を出て行った。
出入口近くでは、木乃実亜希が侑斗に詰め寄り、何かをまくし立てていた。その姿はまるで風に舞う炎のようで、彼女の鋭い眼差しが侑斗を逃がすまいとしている。
彰は手近なテーブルナプキンに名前と携帯の番号を書き、侑斗にそっと差し出した。侑斗は戸惑いながらもそれを受け取る。
「悪いな」
短くそう呟いた侑斗の横顔を、ハルカがじっと見つめていた。その表情には、どこか不機嫌な色が滲んでいる。
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「ねえ、あれって鳳ハルカだよね? それで、あの背の低い人……彼氏なの?」
亜希が眉をひそめながら侑斗に尋ねる。
「知らない……でも」
侑斗はぼそりと呟く。
「あれは、何だかよくない潮流に引かれてる。まずいかなあ……」
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◇
気がつけば、彰は鳳ハルカに連れられ、近所でもひときわ高いビルの屋上にいた。
奇妙なことに、ビルの中ですれ違った人々は、彼らにまるで関心を払わなかった。まるで、存在そのものが透明になったかのように。エレベーターを使わず、駆け足で階段を上がったというのに、ハルカはもちろん、彰も息が乱れていない。
「やれやれ、どこを見ても柵ばかりだ。無粋だねえ。屋上からの展望以外に、高いビルに価値なんてあるのかい?」
ハルカはそう言って、眼下の景色を一瞥する。
人命を重視した結果だろう。そんなに見たけりゃ最上階の窓からでも覗けばいい。
彰は呆れたように肩をすくめ、空を仰いだ。青い空に、白い雲がゆっくりと流れている。青と白の割合は、およそ3対7といったところか。
(俺の今の心境よりは、まだマシだな……)
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「悪かったです。コソコソ遠くから探るような真似をして。もうやめるから、勘弁してください」
彰がそう言うと、ハルカは目を大きく瞬かせた。
「はあ? 何を言ってるんだい。私は君に興味を持たれて、とても嬉しいんだ。だから、どうしても会いたくて今それを実行している。誰に何を詫びているんだ?」
雲の切れ間から差し込んだ光が、ハルカの背後から伸びる影を長く引き、彰の足元を包む。
「だから……俺を監視対象にする、みたいなことを言うんだろう?」
ハルカは逆光の中で、微かに笑った。
「へえ、君は誰かにそんなことを言われたんだ。まるで危険人物扱いじゃないか」
後になって、修一から「それはむしろ、彰を守るためだ」と説明されることになるが、この時の彰はまだその事実を知らなかった。
「私はそんなことはしない。君を私の世界に取り込んで、私の世界を広げていくんだよ」
ハルカはゆっくりと左手を伸ばし、彰の頬に触れようとする。その仕草には、確かな意思があった。
「彰、正直に言って、私は今の段階では君に恋愛感情はない。だが、君は私にとって必要な存在だ。そのために愛情が必要だというのなら、もちろん与えよう」
「そんなものは要らない」
彰はかぶりを振る。
そもそも愛情って何だ? 前頭葉が作り出した幻覚だろう。幻覚は実態を持たない。そんな錯覚なら、小説の主人公に自分を重ねることで、いくらでも味わえる。
「ふふ……」
ハルカは楽しげに笑い、そして、彰の背中に両腕を回した。
「逃がさないよ」
耳元で囁く声は、ひどく甘やかで、だが同時に抗えない強さを持っていた。
「……君が私から離れようとした瞬間に生じた、脳波パルスの乱れ。きっと、皆はそれを愛情と呼ぶんだろうね」
彰は反論しようとしたが、すでに抵抗する意思を奪われていた。
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鳳ハルカはすでに卒業を控え、部活動も引退していた。スポーツ推薦で好きな大学に進めるらしい。いや、それすら必要ないほどの学力を持ち、全国模試でも常に上位に名を連ねていた。
彼女の実家である鳳財閥は、地元では名の知れた名家であり、後に知った小鳥谷財閥と比べても決して劣るものではなかった。
それからというもの、彰は頻繁にハルカに呼び出されるようになった。
ハルカは「デートだ」と言っていたし、周囲から見れば確かにデートに見えただろう。だが、彰にとっては、終わりのない夢の中を手探りで彷徨っているような感覚だった。
不思議なことに、鳳ハルカの「男」となれば、衆目を集めるはずなのに、なぜか誰も気に留めない。
(これが……鳳ハルカの力が創る世界なのか?)
やがて、二人は逢瀬の間に自然と唇を重ねるようになり、そして——
鳳家の広大な屋敷で、身体を重ねるようになっていた。
仰向けの彰の首に腕を回し、ハルカは息を潜めるように囁く。
「私たち鳳一族は、代々、絶え間なく移ろうことのない世界を創る役目を背負ってきた。世界とは、それを認識する者によって創られ、受け継がれていく……そういった役目をもった者達が居なければ人の世界など遥か昔に四散している」