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146、未来 牟礼彰が星を始めた理由についてⅠ

空はすでに薄明を終え、天文薄明が始まる直前だった。遠く西の空には、沈んだ夕陽の名残がオレンジ色の残照となって浮かんでいる。街の輪郭はぼんやりと影を伸ばし、家々の屋根は闇へと溶け込みつつあった。


黄昏の黄昏の中、牟礼彰(むれあきら)小鳥谷琳(こずやりん)は商店街の狭い裏道をすり抜け、背後に折り重なるように立ち並ぶ古い住宅地へと入っていく。雑然とした建物の間を、正確かつ素早く進む二人の足音が、小さな路地に静かに響いた。


「街の裏側に、こんなに古い家が立ち並んでるなんて、私、初めて知りました」


琳がか細い声でつぶやく。驚きの混じったその声は、夜の気配が濃くなりつつある空気の中でかすかに揺れた。


彰は前方から目を逸らさずに、後ろの琳へと答える。


「商店街の裏通りなんて、どこもみんなこんなもんだろう。まさか、表通りの裏は空き地にでもなってると思ってたのか? お嬢様」


三年前、琳が「家は貧乏な方の金持ち」だと自嘲気味に言ったときから、彰は彼女の出自をあまり信用していなかった。


琳は少し歩調を緩め、落ち着かない様子で辺りを見回す。


「……だんだん暗くなってきましたよ。大丈夫なんですか? 白い怪人が出たら」


東の空を見上げると、そこには漆黒の闇が迫っていた。琳の言う通り、白い幻怪人が出没すると噂される時間だった。こんな時間に出歩きたくはなかったが、零の言う通りならば、時間も、経路も、一切の間違いは許されない。


「怖いのか? 俺たちは幽霊なんてゴミみたいに思えるような経験をしてきただろう?」


「それはまあ、そうなんですけど……」


そのとき、横の路地でカサッと音がした。


琳はびくりと肩を震わせ、反射的に彰の腕を掴む。


視線を向けると、小さな黒猫が塀の上から飛び降り、金色の瞳で二人を睨みつけながら通り過ぎていった。


「怖がるなよ。幽霊なんて、大体女だろう? 死んだ女は、生きてる女より怖くはないぞ」


彰が軽口を叩くと、琳はムッとした顔で睨み返す。


「女の幽霊が多いのは、男尊女卑が染みついた男性の(やま)しさから生まれたんです。ニタニタ笑いながらナイフでも翳した汚らしい男の幽霊が目の前に現れたら、彰さんだって怖いでしょう?」


それは生きていても怖いだろう——と、彰は心の中で呟いた。


辺りはさらに闇を濃くしていく。たぶん、さっきの猫が最後の「生き物」だろう。この先、零の示したルートでは、もう何も出会わないはずだった。


彰はポケットからコンパクトだが強力なLEDライトを取り出し、先を照らす。路地をあと六つ曲がれば、指定の場所に着く。


彼は琳の腕を引き、足を速めた。


——そのときだった。


背後から声がした。


いや——それはもうずっと昔に聞いた声だった。


「彰、自分の女を放っておいて、可愛い娘と夕暮れ時にデートかい? 私とデートするときは、もうちょっと気の利いた時間に、気の利いた場所で頼みたいな」


彰の足が止まる。恐る恐る振り返ると、琳は完全にそちらへ向き直っていた。


「……(おおとり)先輩……」


思わず、その名を口にする。


琳も驚いていた。この零の作った経路に、他人——いや、彰の知り合いが侵入している。


「先輩はやめてくれよ、彰。私たちはちゃんと、男女の関係を持っただろう?」


ライトの光の中、立っていたのは背の高い女性だった。彼女は眩しそうに瞳を細めながら、笑みを浮かべている。


「お知り合いですか?」


琳が尋ねる。


「ああ……まあな」


乾いた声で返しながら、彰は琳や亜希、零と出会う前のことを思い出していた。


琳はじろりと女性を見つめた後、皮肉げに言う。


「彰さんの『女』とか言ってますけど、そんな悪趣味な人が実在したんですか?」


「うるせえな、質問に嫌味を混ぜるな」


「ハルカ先輩。久しぶりです。それじゃあ、俺たちはちょっと急ぐんで、また今度ゆっくり——」


彰が前を向き直ろうとした瞬間、左肩を強い力で掴まれた。


「いやいや、私はずっと彰を待っていたんだ。ここに来ると師匠に言われてな。だから私の元から離れられると、とても、とても困る」


——勝手に離れていったくせに、今さら何を言ってるんだ。


だが、彰は彼女の腕の力を感じながら、鳳ハルカに身体能力で勝てるとは少しも思わなかった。


「わかりました、先輩。手短にお願いしますよ。俺に用があるなら、さっさと済ませてください。それで、誰ですか? 師匠って」


ハルカを正面から見据える。


あれからどれだけの時が流れただろう。


鳳ハルカ——20代後半のはずだが、その凛々しい姿は昔のままだった。均整の取れた体躯、引き締まった両腕と脚。二重の瞼を美しく開き、じっと彰を見つめている。


「だからさ、師匠に言われて、お前を探しに来たんだ。私は今、霧散師(むさんし)という仕事をしていてな」


「むさんし?」


彰は口元に手をやり、彼女の言葉の裏を推し量る。


だが——それは意味のないことだった。


昔と同じだ。


鳳ハルカは自分のすべてをさらけ出しながら、他人に理解されない存在だった。


それが——彼女という「女」だった。



彰は、初めて鳳ハルカに会ったときのことを思い出す。


それは遥かな過去——友人と市営の体育館へ行ったときのことだった。


体育館の天井は高く、わずかに色褪せたバスケットボールのゴールがコートの両端にそびえている。床には無数のシューズ跡が刻まれ、少し湿った木の匂いが鼻をくすぐった。


その広々としたコートの中央で、ひと際目立つ存在がいた。


(おおとり)ハルカ——。


彼女は群れを抜くスターだった。


それ以前から、その名は彰の耳にも届いていた。


彰と同じ学校の一年先輩。

スポーツ万能、学業もAランク。

加えて、容姿端麗。


既に葛原修一(くずはられい)とは知り合っていた彰は、最初、彼女のことを「修一の女版」くらいに捉えていた。


だが、それは大きな誤解だった。


「彰、おまえ美人は好きだろう? 一度くらい本人を見ておけよ、すげーから」


友人がそう誘ったとき、彰はさほど乗り気ではなかった。


だが、一度くらい「本物」を見ておいてもいいかもしれない——そう思い、ついていくことにした。


確かに美人は、ただ愛でるだけなら好きだった。


もっとも、体育館の観客席から彼女の容姿がどれほどわかるのか、はなはだ疑問ではあったが——。


実際にコートの中で動く鳳ハルカは、遠目からでも異質な美しさを放っていた。


彼女のプレーは、まるで精密に計算された舞のようだった。


ドリブル一つ、パス一つ、そのすべてが滑らかで、無駄がない。彼女にボールが渡ると、試合の流れそのものが変わる。いや、ボールだけではない。自らのチームも、相手チームも、彼女の都合のいい位置にいつの間にか配置されていた。


それはまるで、彼女が試合そのものを作り上げているかのようだった。


表面上は僅差の接戦に見えたが、不自然さが拭えない。 彰はその違和感をぬぐいきれずにいた。


——だが、まあ、秀でたスポーツ選手というのは、どこかそういうものなのかもしれない。


「おい、もうちょっと下に行こうぜ」


友人に促され、彰は試合を終えて戻ってくる自分の学校の選手たちがよく見える位置へ移動した。


そこには、汗をタオルに吸わせながら、わざとらしく息を切らせる鳳ハルカの姿があった。


近くで見ると、さらに異様だった。


彼女の周囲には女子のファンばかりが群がっている。これでは、じっくり観察するどころか、居心地の悪さしかない。


それでも、ほんの数分だけ彼女を間近で見ることができた。


背は彰よりも十センチほど高い。

無駄を一切削ぎ落としたような、洗練された体躯。

その上に載っていたのは、意外にも幼さを残した可愛らしい顔だった。


「へえ……」


彰は思わずため息をついた。


「な、男なら絶対に惹かれるだろう? 鳳ハルカの全身に染み渡った魅力」


いや、男どころか、女にも無茶苦茶好かれているようだがな。


そう思っていたときだった。


タオルを頭にかぶったままの鳳ハルカが、すっと視線を上げた。


——視線が合う。


そして、砕けるような笑顔を浮かべると、彼女は右手でVサインを送ってきた。


その瞬間、彰は眩暈を覚えた。


周囲のファンたちも、友人も、次々に彰へと視線を移す。


「おい、彰……今の……」


友人が驚きに満ちた声を上げるが、彰の危険回避能力が発動した。


黙って後ろを向き、出口へ向かって歩き出す。


「彰、おまえ、鳳先輩と知り合いか? あんな笑顔、俺たちの方を見ていたことなんて一度も——」


こいつ、もしかしてストーカー並みの鳳ハルカ信者か?


彰は内心でうんざりしながら、適当に返す。


「ただのファン・サービスだろう。俺の方を見たわけじゃない。俺たちの方を見ていただけだ」


そう結論づけることで、自分を納得させようとした。


——だが、違う。


彼女は、試合中から彰の存在に気づいていた。


それを直感してしまった。


奇麗だけど、危険な人。


彰の本能が、そう判断していた。


だから、もう二度と彼女には近づくまい。


そう決めた。


——だが、結局、その決意は果たせなかった。


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