表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
145/244

143、現在 冷たい空

青白い光がゆらめく夜空を背に、零はゆっくりと降下していた。

彼女の身体を包むのは、クライン・ボトル――捻じれた時空の泡。

それがゆっくりと収縮するとともに、彼女は地表へと降り立つ。


見渡す限りの荒野。

砂と岩が広がるこの大地は、最初にヴェナレートと対峙した場所だった。


そこに、一人の青年が立っていた。


「……どうにか終わったようだな」


修一の声が静かに響く。

彼の視線は、空から降りてきた姉へと向けられていた。


零は、深く息を吐く。


「ロッゾの魔女は……強かった」


戦いを思い返しながら、彼女は空を仰ぐ。


「もし彼女が、世界の物理法則を完全に理解していたら……こんなに簡単にはいかなかっただろうね」


空は静まり返り、冷たい夜風が二人の間を吹き抜ける。


サイクル・リングの力を全開放すれば、確かにヴェナレートを一瞬で消し去ることはできただろう。

だが、それと引き換えに、この星も無傷では済まなかった。


修一もまた、空を見上げる。


「……姉貴には、分かってたのか?」


ふと、彼は問いかける。


(たちばな)木之実(このみ)さんだけで、この世界を救えるって……」


零はゆっくりと首を振った。


「いいえ。私には、何の確信もなかったよ」


夜風に髪をなびかせながら、静かに言葉を紡ぐ。


「でも……私は、あの二人にずっと期待していた。あの二人なら、自らの理想だけで世界の在り様を正しく整えられるって……」


彼女の目が遠くを見つめる。


「私の分身と、ユウの最後の願いを託された彼なら」


零と修一は、改めて世界を見渡した。


眼前には、亜希と侑斗が再生する前の、荒れ果てた赤茶けた大地が広がっている。


「……世界は、少しだけ巻き戻っただけか」


修一が呟く。

零は、小さく頷いた。


「もちろん、失われた存在(エグジステンス)(フォース)を完全に復活させるには、あの力は弱すぎる」


地平線の向こう、夜の闇にかすかに光る残骸を見つめながら、彼女は続ける。


「それに……制御されない亜希さんの力は、この地球を成起創造が始まる前にリセットしてしまう」


彼女の指先が、かすかに震えた。


「……まだ彼女は、自分の力の1%も使っていない。それを更に侑斗が制御したからこそ……ここまで再生するのがやっと」


──戦いの最中、ヴェナレートは刻奏音(こくそうおん)でずっと語りかけてきた。

世界の真実について。創造主の、シニスのダークの真の目的を。


だが、零にとって真実などどうでもよかった。


彼と彼女が望む世界を創れれば、それで良い。


だが――


世界の真実と戦うためには、もっと状況を整えなければならない。


零は静かに踵を返した。


「……さあ、帰りましょう、修一」


冷たい夜風が吹きつける中、彼女は淡々と言う。


「亜希さんや侑斗たちが待っててくれる場所へ」


修一は少し迷うように視線を横へ向けた。

暗闇の中、離れた場所に一人、座り込んでいる女がいた。


「……椿優香(つばきゆうか)は、あのままでいいのか?」


零もそちらを見やる。

一瞬だけ、寂しそうに目を伏せると、静かに嘆息した。


「……ヴェナレートから聞いた、塵楳(じんばい)の話……」


彼女の瞳が、過去を映し出すようにかすかに揺れる。


「私は、最初の崩壊を起こした後……自分の感情が記憶をコントロールしていることを知った。そして、いつでも本来の自分に戻るための起点を置いてきた」


暗闇の中で、優香の影がわずかに動いた。


「……その結果、塵楳を自分の感情から切り離す事が出来た。そして、自分の周りにいる者たちにも、思考様式のズレを認識した後……同じ処理を施してきた」


静寂が二人を包む。


「……感情が記憶を書き換える。それは、人にとっては、時に自然に起こること……」


遠くの空に、薄い雲が流れていく。


「でも……なぜ、それが引き起こされるのか……誰も考えようとしない」


零の視線は、優香の方へと向けられたままだった。


「亜希さんの場合は、私から分かれて以来、塵楳(じんばい)を受け付けない体質になった。侑斗の場合は……ユウが託したユウの欠片の影響で、最初から自己否定の塊だったから……塵楳(じんばい)の囁きなど、ただの雑音にしかならなかった」


修一は黙って、姉の言葉を聞いていた。


「……まあ、そのせいで、自傷癖を止めるのは大変だったけどね」


零は、かすかに口元を歪めた。


夜の風が吹き抜ける。


遠くで、微かに、世界の鼓動が聞こえた。


冷たい風が荒野を吹き抜ける。

夜の帳が広がり、世界は静寂に包まれていた。


零は、遠くの闇を見つめながら、静かに呟く。


「……もう一人のユウ」


風が彼女の銀髪を揺らす。


「彼女は、ユウから塵楳(じんばい)に対する抗体を得ることができなかった」


修一は黙って姉の言葉を聞いていた。


「もともと彼女は、ユウの力と願いだけを託された存在……だからこそ、もっとも塵楳(じんばい)に操られやすかった」


夜空に、雲がゆっくりと流れていく。


「……多分、彼女が女性になったのも塵楳(じんばい)の影響」


零の瞳に、わずかに憂いの色が宿る。


「……私には、どうしようもない」


ふと、彼女は目を閉じる。


「それでも……彼女はやはり、ユウの本体」


唇が、かすかに歪む。


「こんなところでは終わらないでしょう」


その言葉とともに、二人の身体が光に包まれる。

次の瞬間、一陣の風が巻き起こった。


巨大な位相の波が宙を裂き、二人の姿はその先へと消えていった。



虚ろな瞳が、宙をさまよう。


椿優香は、焦点の合わない視線をどこへともなく向けていた。


分からない。

判らない。

解らない。


自分の記憶のどこまでが本当で、どこまでが塵楳(じんばい)によって作られたものなのか。

何が間違っていたのか。

どこから選択を誤ったのか。


思考の迷宮に囚われたまま、優香はただ立ち尽くしていた。


そこへ、不意に弾むような声が響く。


「ああ、割を食ったな、椿優香」


軽やかな足取りで近づく影。


「結局、おまえが一番損をしてる」


虚空から滑るように降り立ったのは、西園寺史音(さいおんじふみね)だった。


彼女は位相を跳んできたばかりなのか、わずかに身体を揺らしながら優香の背後へと近づいてくる。

その声は明るく、しかしどこか鋭い。


優香はゆっくりと振り返る。


「……史音」


かすれた声がこぼれた。


「あなたは……塵楳(じんばい)の影響を受けなかったんだね?」


史音は軽く肩をすくめる。


「最後に地球に選ばれた者は、塵楳(じんばい)に対する抗体を生まれつき備えている……って話だが、まあ、実際は違うな」


彼女の目が冷たく光る。


「むしろ、ようやく地球の大樹が塵楳(じんばい)の存在に気づいたってだけだ。この星が、ようやくそういう選択をした」


夜風が二人の間を通り抜ける。


「まあ、逆にアタシには疑問だったよ」


史音は両腕を組み、優香を見下ろす。


「なんでいちいち人間は、思考を感情で偏向させるのか?」


ふと、目を細める。


「特におまえは……一番不思議な女だったよ」


優香は何も言わない。ただ、静かに史音の言葉を待っていた。


「さて」


史音は、白い円筒を手にする。


「そういうわけで、アタシが造ったフィーネの塵楳(じんばい)の抗体……ワクチンみたいなもんだ」


片手でくるくると円筒を回しながら、軽く笑う。


「もっと早く気づいていれば、道を選び間違えた奴らを救えたかもしれなかったな……」


彼女は優香の右腕を取り、静かに円筒を押し付ける。


その瞬間。


優香の手が鋭く動き、それを払いのけた。


史音が怪訝そうな顔をする。


優香は、苦笑するように口を開いた。


「……もういいよ、史音」


その声は、どこか乾いていた。


「私の中に塵楳(じんばい)はいない」


史音が眉をひそめる。


「さっき……みんな、出て行っちゃったからね」


優香はゆっくりと目を伏せた。


「フィーネは、私から手を引いたんだよ」


静寂が落ちる。


「それに……私には、もう世界を救う資格はない」


夜風が、冷たく吹き抜ける。


「ユウの出がらしは……彼じゃなくて、私だった」


その言葉とともに、優香は自嘲するように笑った。


パチン!


乾いた音が響いた。


頬に、鋭い痛みが走る。


驚いて顔を上げると、目の前には史音の鋭い視線があった。


「……っ」


優香は息をのむ。


史音の手は、なおも振り抜かれた余韻を残していた。


「馬鹿か、お前! アイツらは嘘をつくのが商売だぞ。簡単に信じるな!」


荒々しい声が、静まりかえった空間に響き渡る。史音は力強く優香の腕を掴んだ。冷たい風が吹き抜け、灰色の空が二人を覆っている。だが、優香はまるで魂を抜かれたかのように、その場に立ち尽くしていた。抵抗する気力すら、もう残っていない。


「おまえがベルと一緒にアタシを連れ出してくれなかったら……アタシは、塵楳(じんばい)に取りつかれた奴らに絶望して、侑斗みたいに自分で死のうとしてたよ」


優香の声はかすかに震え、かき消されそうなほど弱々しい。しかし史音は、その言葉を遮るように言った。


「優香、おまえの今までを全て否定するな。おまえは強いし、ちゃんと正しくて、美しいこともしてきた」


史音の目が鋭く光る。彼女は迷いなく、手に持った注射スプレーを優香の腕に押し付けた。ワクチンの冷たい刺激が肌に触れる。


「このワクチンも、知成力が低い奴には効果が無いがな」


優香はぼんやりと、腕に打たれた薬の感触を確かめた。史音は、そんな彼女の様子をじっと見つめると、低く、しかし力強い声で告げる。


「さあ、立ち上がれよ、椿優香!」


突き刺すような叫びが、沈んだ空気を切り裂いた。


「世界を救えなくなったとか、どうでも良いことで這いつくばってんじゃねー! 言っただろう? アタシたちの敵はいつだってこの世界だって。世界からもういらねーとか言われたのか?」


史音の言葉は鋭い刃となり、優香の心を揺さぶる。


「おまえにやれることとか、考えてんじゃねー! おまえがやりたいことを考えろ。だから——おまえらしく、格好良く、颯爽と立ち上がれよ。そして欲しいものを奪いに行けよ! おまえは葵瑠衣でもユウ・シルヴァーヌでもないだろう?」


優香の背中が、小さく震えた。すると、その身から黒い霧のようなものが蠢き、無数の影となって空へと散っていく。フィーネの塵楳(じんばい)——それが、まるで虫のように彼女の身体から這い出し、姿を消した。


「だから言ったじゃねえか。本当にアタシ以外の世界中の人間は馬鹿ばっかりだな」


史音は腕を組み、不敵に笑う。優香はゆっくりと顔を上げた。


「……そうか。フィーネは私からは出ていったけど、私の中の葵瑠衣には憑りついたままだったんだね」


彼女は右手で顔を押さえ、ひとつ深く息を吐く。


「なるほど、分かったよ。確かに幾つかの分岐点で、私は選択を間違えた。今の私には理解できない間違いもある。なるほど……そういうことか」


優香の瞳に、再び強い光が宿る。


「史音ちゃんの言う通り——私は全部間違えたんじゃないんだね」


雲の切れ間から、一筋の光が差し込む。彼女はその光を見つめながら、ふっと微笑んだ。


「私がやりたいことは、まだ全然できてないよ」


優香は、ゆっくりと立ち上がる。その姿は、もう迷いに満ちたものではなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ