143、現在 冷たい空
青白い光がゆらめく夜空を背に、零はゆっくりと降下していた。
彼女の身体を包むのは、クライン・ボトル――捻じれた時空の泡。
それがゆっくりと収縮するとともに、彼女は地表へと降り立つ。
見渡す限りの荒野。
砂と岩が広がるこの大地は、最初にヴェナレートと対峙した場所だった。
そこに、一人の青年が立っていた。
「……どうにか終わったようだな」
修一の声が静かに響く。
彼の視線は、空から降りてきた姉へと向けられていた。
零は、深く息を吐く。
「ロッゾの魔女は……強かった」
戦いを思い返しながら、彼女は空を仰ぐ。
「もし彼女が、世界の物理法則を完全に理解していたら……こんなに簡単にはいかなかっただろうね」
空は静まり返り、冷たい夜風が二人の間を吹き抜ける。
サイクル・リングの力を全開放すれば、確かにヴェナレートを一瞬で消し去ることはできただろう。
だが、それと引き換えに、この星も無傷では済まなかった。
修一もまた、空を見上げる。
「……姉貴には、分かってたのか?」
ふと、彼は問いかける。
「橘と木之実さんだけで、この世界を救えるって……」
零はゆっくりと首を振った。
「いいえ。私には、何の確信もなかったよ」
夜風に髪をなびかせながら、静かに言葉を紡ぐ。
「でも……私は、あの二人にずっと期待していた。あの二人なら、自らの理想だけで世界の在り様を正しく整えられるって……」
彼女の目が遠くを見つめる。
「私の分身と、ユウの最後の願いを託された彼なら」
零と修一は、改めて世界を見渡した。
眼前には、亜希と侑斗が再生する前の、荒れ果てた赤茶けた大地が広がっている。
「……世界は、少しだけ巻き戻っただけか」
修一が呟く。
零は、小さく頷いた。
「もちろん、失われた存在力を完全に復活させるには、あの力は弱すぎる」
地平線の向こう、夜の闇にかすかに光る残骸を見つめながら、彼女は続ける。
「それに……制御されない亜希さんの力は、この地球を成起創造が始まる前にリセットしてしまう」
彼女の指先が、かすかに震えた。
「……まだ彼女は、自分の力の1%も使っていない。それを更に侑斗が制御したからこそ……ここまで再生するのがやっと」
──戦いの最中、ヴェナレートは刻奏音でずっと語りかけてきた。
世界の真実について。創造主の、シニスのダークの真の目的を。
だが、零にとって真実などどうでもよかった。
彼と彼女が望む世界を創れれば、それで良い。
だが――
世界の真実と戦うためには、もっと状況を整えなければならない。
零は静かに踵を返した。
「……さあ、帰りましょう、修一」
冷たい夜風が吹きつける中、彼女は淡々と言う。
「亜希さんや侑斗たちが待っててくれる場所へ」
修一は少し迷うように視線を横へ向けた。
暗闇の中、離れた場所に一人、座り込んでいる女がいた。
「……椿優香は、あのままでいいのか?」
零もそちらを見やる。
一瞬だけ、寂しそうに目を伏せると、静かに嘆息した。
「……ヴェナレートから聞いた、塵楳の話……」
彼女の瞳が、過去を映し出すようにかすかに揺れる。
「私は、最初の崩壊を起こした後……自分の感情が記憶をコントロールしていることを知った。そして、いつでも本来の自分に戻るための起点を置いてきた」
暗闇の中で、優香の影がわずかに動いた。
「……その結果、塵楳を自分の感情から切り離す事が出来た。そして、自分の周りにいる者たちにも、思考様式のズレを認識した後……同じ処理を施してきた」
静寂が二人を包む。
「……感情が記憶を書き換える。それは、人にとっては、時に自然に起こること……」
遠くの空に、薄い雲が流れていく。
「でも……なぜ、それが引き起こされるのか……誰も考えようとしない」
零の視線は、優香の方へと向けられたままだった。
「亜希さんの場合は、私から分かれて以来、塵楳を受け付けない体質になった。侑斗の場合は……ユウが託したユウの欠片の影響で、最初から自己否定の塊だったから……塵楳の囁きなど、ただの雑音にしかならなかった」
修一は黙って、姉の言葉を聞いていた。
「……まあ、そのせいで、自傷癖を止めるのは大変だったけどね」
零は、かすかに口元を歪めた。
夜の風が吹き抜ける。
遠くで、微かに、世界の鼓動が聞こえた。
冷たい風が荒野を吹き抜ける。
夜の帳が広がり、世界は静寂に包まれていた。
零は、遠くの闇を見つめながら、静かに呟く。
「……もう一人のユウ」
風が彼女の銀髪を揺らす。
「彼女は、ユウから塵楳に対する抗体を得ることができなかった」
修一は黙って姉の言葉を聞いていた。
「もともと彼女は、ユウの力と願いだけを託された存在……だからこそ、もっとも塵楳に操られやすかった」
夜空に、雲がゆっくりと流れていく。
「……多分、彼女が女性になったのも塵楳の影響」
零の瞳に、わずかに憂いの色が宿る。
「……私には、どうしようもない」
ふと、彼女は目を閉じる。
「それでも……彼女はやはり、ユウの本体」
唇が、かすかに歪む。
「こんなところでは終わらないでしょう」
その言葉とともに、二人の身体が光に包まれる。
次の瞬間、一陣の風が巻き起こった。
巨大な位相の波が宙を裂き、二人の姿はその先へと消えていった。
⸻
虚ろな瞳が、宙をさまよう。
椿優香は、焦点の合わない視線をどこへともなく向けていた。
分からない。
判らない。
解らない。
自分の記憶のどこまでが本当で、どこまでが塵楳によって作られたものなのか。
何が間違っていたのか。
どこから選択を誤ったのか。
思考の迷宮に囚われたまま、優香はただ立ち尽くしていた。
そこへ、不意に弾むような声が響く。
「ああ、割を食ったな、椿優香」
軽やかな足取りで近づく影。
「結局、おまえが一番損をしてる」
虚空から滑るように降り立ったのは、西園寺史音だった。
彼女は位相を跳んできたばかりなのか、わずかに身体を揺らしながら優香の背後へと近づいてくる。
その声は明るく、しかしどこか鋭い。
優香はゆっくりと振り返る。
「……史音」
かすれた声がこぼれた。
「あなたは……塵楳の影響を受けなかったんだね?」
史音は軽く肩をすくめる。
「最後に地球に選ばれた者は、塵楳に対する抗体を生まれつき備えている……って話だが、まあ、実際は違うな」
彼女の目が冷たく光る。
「むしろ、ようやく地球の大樹が塵楳の存在に気づいたってだけだ。この星が、ようやくそういう選択をした」
夜風が二人の間を通り抜ける。
「まあ、逆にアタシには疑問だったよ」
史音は両腕を組み、優香を見下ろす。
「なんでいちいち人間は、思考を感情で偏向させるのか?」
ふと、目を細める。
「特におまえは……一番不思議な女だったよ」
優香は何も言わない。ただ、静かに史音の言葉を待っていた。
「さて」
史音は、白い円筒を手にする。
「そういうわけで、アタシが造ったフィーネの塵楳の抗体……ワクチンみたいなもんだ」
片手でくるくると円筒を回しながら、軽く笑う。
「もっと早く気づいていれば、道を選び間違えた奴らを救えたかもしれなかったな……」
彼女は優香の右腕を取り、静かに円筒を押し付ける。
その瞬間。
優香の手が鋭く動き、それを払いのけた。
史音が怪訝そうな顔をする。
優香は、苦笑するように口を開いた。
「……もういいよ、史音」
その声は、どこか乾いていた。
「私の中に塵楳はいない」
史音が眉をひそめる。
「さっき……みんな、出て行っちゃったからね」
優香はゆっくりと目を伏せた。
「フィーネは、私から手を引いたんだよ」
静寂が落ちる。
「それに……私には、もう世界を救う資格はない」
夜風が、冷たく吹き抜ける。
「ユウの出がらしは……彼じゃなくて、私だった」
その言葉とともに、優香は自嘲するように笑った。
パチン!
乾いた音が響いた。
頬に、鋭い痛みが走る。
驚いて顔を上げると、目の前には史音の鋭い視線があった。
「……っ」
優香は息をのむ。
史音の手は、なおも振り抜かれた余韻を残していた。
「馬鹿か、お前! アイツらは嘘をつくのが商売だぞ。簡単に信じるな!」
荒々しい声が、静まりかえった空間に響き渡る。史音は力強く優香の腕を掴んだ。冷たい風が吹き抜け、灰色の空が二人を覆っている。だが、優香はまるで魂を抜かれたかのように、その場に立ち尽くしていた。抵抗する気力すら、もう残っていない。
「おまえがベルと一緒にアタシを連れ出してくれなかったら……アタシは、塵楳に取りつかれた奴らに絶望して、侑斗みたいに自分で死のうとしてたよ」
優香の声はかすかに震え、かき消されそうなほど弱々しい。しかし史音は、その言葉を遮るように言った。
「優香、おまえの今までを全て否定するな。おまえは強いし、ちゃんと正しくて、美しいこともしてきた」
史音の目が鋭く光る。彼女は迷いなく、手に持った注射スプレーを優香の腕に押し付けた。ワクチンの冷たい刺激が肌に触れる。
「このワクチンも、知成力が低い奴には効果が無いがな」
優香はぼんやりと、腕に打たれた薬の感触を確かめた。史音は、そんな彼女の様子をじっと見つめると、低く、しかし力強い声で告げる。
「さあ、立ち上がれよ、椿優香!」
突き刺すような叫びが、沈んだ空気を切り裂いた。
「世界を救えなくなったとか、どうでも良いことで這いつくばってんじゃねー! 言っただろう? アタシたちの敵はいつだってこの世界だって。世界からもういらねーとか言われたのか?」
史音の言葉は鋭い刃となり、優香の心を揺さぶる。
「おまえにやれることとか、考えてんじゃねー! おまえがやりたいことを考えろ。だから——おまえらしく、格好良く、颯爽と立ち上がれよ。そして欲しいものを奪いに行けよ! おまえは葵瑠衣でもユウ・シルヴァーヌでもないだろう?」
優香の背中が、小さく震えた。すると、その身から黒い霧のようなものが蠢き、無数の影となって空へと散っていく。フィーネの塵楳——それが、まるで虫のように彼女の身体から這い出し、姿を消した。
「だから言ったじゃねえか。本当にアタシ以外の世界中の人間は馬鹿ばっかりだな」
史音は腕を組み、不敵に笑う。優香はゆっくりと顔を上げた。
「……そうか。フィーネは私からは出ていったけど、私の中の葵瑠衣には憑りついたままだったんだね」
彼女は右手で顔を押さえ、ひとつ深く息を吐く。
「なるほど、分かったよ。確かに幾つかの分岐点で、私は選択を間違えた。今の私には理解できない間違いもある。なるほど……そういうことか」
優香の瞳に、再び強い光が宿る。
「史音ちゃんの言う通り——私は全部間違えたんじゃないんだね」
雲の切れ間から、一筋の光が差し込む。彼女はその光を見つめながら、ふっと微笑んだ。
「私がやりたいことは、まだ全然できてないよ」
優香は、ゆっくりと立ち上がる。その姿は、もう迷いに満ちたものではなかった。