139、現在 願いと祈り
世界は、偽りの姿を映すことをやめた。
限りなく可能性の少ない虚構ではなく、最も可能性の高い現実を映し始める。
——それは、凄惨な光景だった。
人々は、まず目の前に広がる世界に驚愕した。
突然に崩れていく街並み。
大地は赤茶け、空気は淀み、沈黙の中で全てが瓦解していく。
それでも空だけは変わらず、深紅に染まっていた。
やがて、人々の思考も、存在そのものも、真実の世界に取り込まれていく。
この世界にそぐわない者は、そのまま消え去った。
——己のルーツが書き換えられた瞬間、どれほど強い知成力や存在力を持っていようとも、抗うことはできない。
世界の人口は、すでに半分以下になっていた。
生き残った人々は絶望し、その絶望が更なる偏向を生み出す。人の思考のみが捉えられる存在する為の力。エネルギー。
負の思考は集まり、シニスのダークが群となって形を成していった。
⸻
◇
「……いつこうなってもおかしくなかったが」
黄昏の大地を見下ろし、ヴェナは両腕の炎をゆっくりと消した。
「私たちの闘いの余波で、あっという間に真実の姿を晒したな」
沈みゆく世界を見渡し、彼女は深く息を吐く。
「こうなるともはや、私の憎しみによる復讐も意味がない……それにしても、なんと惨たらしいものだ」
崩壊していく大地、影を落とす建物の残骸、人がいた痕跡すら霧散していく光景。
これが創造主の望んだ世界なのか?
つい先ほどまで憎しみの感情に身を焦がしていたはずだった。
だが今、ヴェナの心にはただ哀れさだけが残る。
「複素演算体も、これで十分満足しただろう……」
その瞬間——
ヴェナの背後から、光を纏う輝石が閃く。
鋭い軌道を描き、彼女の首筋を切り裂いた。
「どこを見ている、ロッゾの魔女!」
怒号が響き渡る。
驚きに目を見開きながら、ヴェナは傷口を押さえ、振り返る。
そこに立つのは、クライン・ブレイドを構えた零だった。
「ブルの女戦士……」
ヴェナは歯を食いしばりながら言葉を紡ぐ。
「お前は、この星の真の姿が曝け出されたのに何も感じないのか? 人が絶望していく様を見て、眉一つ動かさず戦い続けるのか?」
思わず問わずにはいられなかった。
だが零は、まったく表情を変えずに応じる。
「当たり前だ!」
彼女の声は、荒れ果てた世界に鋭く響いた。
「それと私たちの闘いに、何の関係がある! 気を散らすな、戦士として私に応じろ!」
その言葉に、ヴェナの中で眠っていた戦士の本能が目を覚ます。
「……良いだろう、レイ・バストーレ」
ヴェナレート・クレア・ラナイの両手に、再び炎の剣が灯る。
「闘おう、決着がつくまで」
そして、戦いは再び始まる——
⸻
◇
窓の向こうには、荒廃した世界が広がっている。
閉ざされた部屋の中で、侑斗、亜希、彰、琳、洋——五人はただ一つのスクリーンを見つめていた。
そこから聞こえてくるのは、優香の声だった。
『ついにパンドラの箱が開いてしまった。もう猶予はない』
淡々とした声が、冷たく響く。
『この滅びかけた世界を元に戻す方法は、ただ一つ。前回の崩壊を覆した彼女の力、木乃美亜希の力を使うしかない』
亜希の力——
侑斗は無意識に、隣で息を殺している彼女へ視線を向けた。
『声の力を解放してやることが、彼女を救う方法に繋がる。けれど、彼女はまだ自分の力をコントロールできない』
スクリーンの向こうで、優香の声は続ける。
『だから、誰かが緻密な計算をして、彼女の力をコントロールするしかない。それを実行できるのは……私たちしかいない』
次の瞬間——
窓の中から、細くしなやかな腕が伸びてきた。
椿優香の右手が、ゆっくりと侑斗へ差し出される。
「……あんたの手を掴むと、俺はどうなるんだ?」
侑斗は、一歩後ずさりながら問いかけた。
『君はすぐにその存在が消え、初めから私の中にあったものとして、取り込まれる』
優香の声は、静かだった。
『もう君は、何も考えなくてよくなる。だって、君は最初からいなかったことになるのだから』
侑斗の心に、冷たい感触が広がる。
自分が消える——それは仕方がない。
もともと自分の存在に、価値などないのは分かっている。
——けれど、彼女の一部になることが……嫌だ。
ただの生理的嫌悪だと分かっている。
それでも、胸の奥で何かが引き裂かれるような感覚があった。
『もう時間がない。このままの状態が続けば、あとわずかな時間で、この地球の全てが崩れ去る』
優香の手の向こうに映るのは、破滅した世界の本当の姿。
『その前に、コントロールされない彼女の力が、この世界をリセットしてしまう。君も、私も、君の周りにいる全てのものが、消えてしまうんだ』
——選ばなくてはならない。
侑斗は、一歩前に出る。
右手はまだ、亜希の肩に触れたままだった。
左手をそっと伸ばす。
優香の腕へ——
迷いながら、ためらいながら——
それでも、距離を縮めていく。