136、現在 伝導
亜希たちが身を寄せる家は、今や世界から完全に隔離されていた。窓の外には何も見えない。ただ真っ白な霧のようなものが広がり、外界の存在を完全に遮断している。まるで、白紙の中に閉じ込められたようだった。
「電気や水道、ガスはそのまま使えるみたいだよ。それに食料も十二分にある」
松原洋が家の隅々まで確認し、安堵したように皆へ報告する。
侑斗はベッドから体を起こし、ぼんやりと窓の外を見つめた。
「零さん……今、ロッゾの魔女と戦ってるのかな?」
亜希が侑斗にぼそりとつぶやく。彼には想像もできなかった。教団との戦いとは違い、全地球を滅ぼせる存在との戦いがどれほどのものか。
「俺たちは言われた通り、待つしかないよ。零さんを信じよう。あの人が誰かに敗れるなんて、想像できない」
彰がそう言う。しかし、亜希は零の苦しみを知っている。彼女の「他我の種」が縛られた痛みを思い出すと、彰のように気楽には考えられなかった。
「……共鳴って言ってましたよね、零さん」
琳が静かに、か細い声を漏らした。
「侑斗さんが寝ていたベッドのシーツと枕カバーを変えた方がいいと思います。汗がにじんで汚いですから」
その場にいた四人がポカンと口を開ける。
「……今度は誰がここで寝るの?」亜希が琳に尋ねた。
「貴女ですよ、亜希さん。私が察するに、零さんの痛みが亜希さんに“伝導”するのではないかと思うんです。さて、誰かベッドメイキングできる人、お願いします」
「お前はできないのか? お嬢様」
「できません。では、彰さんは?」
些細なことで衝突を始める彰と琳。
「とにかく綺麗に敷けばいいんだろ? 僕がやるよ」
洋が新しいシーツを持ってくると、侑斗が手を挙げる。
「あの、俺ベッドメイキングできるから。前にバイトでやったことあるし」
手際よくシーツと枕カバーを交換し、わずか五分もかからなかった。
「へぇ、器用なもんだな」
彰が感心したように呟く。
「侑斗くん、結構なんでもできるよね」
洋も感嘆の息を吐いた。
「亜希さん、とりあえずベッドに腰かけててください」
「ええ、大丈夫だよ、私は」
亜希は笑顔で手を振る。
——その瞬間。
亜希の肩から衣服を突き破るようにして、鮮血が飛び散った。
⸻
灰色の空の下、荒れ果てた大地に、二つの影が対峙していた。
ヴェナは不気味に微笑み、身体を膨張させる。その右腕は炎に包まれ、やがて赤黒い剣の形を成した。そして、一気に振り下ろす。
零は即座に輝石を四つ展開し、前面にシールドを張った。だが、ヴェナの炎の剣は執拗に襲いかかる。弾かれた炎が軌道を変え、零の右肩を貫いた。
激痛とともに鮮血が迸る。しかし、零は知成力で瞬時に傷を塞いだ。
ヴェナはさらに身体を巨大化させると、まるで虫を追い払うようにスクエア・ウォールを振り下ろす。
零は三つの輝石を足場にし、残りの十一個を空中に展開した。一つの輝石から新たな二つの輝石が生まれ、それらがまた増殖していく。指数関数的に膨れ上がる輝石群が、ヴェナの巨大な身体を無数に貫いた。
「アクア・クライン——スクエア!」
輝石の雨がヴェナを打ち据える。ロッゾの魔女の巨大な身体が激しく揺れた。
「ぐ……っ!」
ヴェナは苦しみながらも、再び人の姿に戻る。
人の姿に戻った彼女は両腕の炎の剣を構え、零へと斬りかかった。
零もまた、アクア・クラインのボトルを細く伸ばし、輝石の糸で繋ぎ合わせた剣を生み出す。
——刃が交錯する。
剣戟のたびに火花が散り、戦場を焦がした。
ヴェナの炎の剣が零の頬をかすめ、衣服の一部を焼く。
しかし、零は笑っていた。
「何故だ? ロッゾの魔女よ。人の姿に戻ることで私たちに敗れたお前が、なぜ再び人の姿で戦う?」
ヴェナは炎の剣を構え直し、口元に笑みを浮かべた。
「分からないのか、ブルの女戦士。私は“人の姿に戻ったから”敗れたのではない。かつての私は、ただラナイ一族への憎しみに取り憑かれた化け物だった。そしてその憎しみに焼かれ、いずれ自らを滅ぼしていたことだろう。——だが、人としての感情は違う。人は感情の刃を振るう。だから私は、人として戦う」
ヴェナの炎の剣が閃き、零の長い黒髪を僅かに焦がした。
零は静かに瞳を閉じる。そして、再び剣を握り直した。
「なるほどな……私も、魔女だった頃のお前に密かに魅せられていた。お前の力が欲しいとさえ思っていた。だから、私はお前を真似て、一度は感情の刃でこの地球を滅ぼそうとしたのだ」
零の剣がヴェナの炎を切り裂く。
「だが——結局は同じだった。人として振るう感情の刃も、ささやかな幸福を踏みつけ、儚く美しいものを切り裂いていく。そして、大切なものを壊し、最後には己自身さえ焼き尽くす」
零は剣を構え、ゆっくりとヴェナを見据えた。
「だから——お前は倒さなくてはならない」
零がクライン・ブレイドを縦に振るうと、放たれた輝石の重積したエネルギーがヴェナの身体を次々に穿っていく。
アルファとの戦いとは違い、アクア・クラインが開けた傷は、ヴェナがどれだけ姿を変えても消えることはなかった。輝石は異なる次元にまたがるように存在し、ヴェナのいくつもの身体を同時に貫いていた。
「ブルの最後の女戦士……やるではないか。この、ただの安寧に満ちた偽りの世界で、血と殺戮とは無縁の場所で、なおも己の力を高めるとはな」
身体の至るところに風穴を開けられたヴェナは、苦しげに片膝をつく。だが、その瞳には未だ闘志の炎が燃えていた。
「小うるさいよ、魔女」
零は剣を肩に乗せ、冷たい目でヴェナを見下ろした。
「人はな、血と争いにまみれるだけで強くなるわけじゃないんだよ」
彼女の足元で輝石が静かに回転し、新たな戦いの幕開けを告げていた。
⸻
◇
侑斗が敷いたばかりの白いシーツは、一瞬にして鮮血に染まった。
「っ……!」
亜希の身体から血が噴き出し、そのたびに彼女は苦痛に顔を歪め、苦しげにうめいた。全身が痙攣し、暴れるようにベッドの上でのたうつ。
そのまま転げ落ちそうになる彼女を、侑斗、洋、彰が四方から支えた。
「見てられません……」
琳が涙を滲ませながら、血に染まった亜希の頬を優しく拭う。
「これ……今、零さんが戦って傷ついた痛みが伝わってきてるんですよね……?」
彼女の声は震えていた。
「……男って、無力なのか?」
彰が苦しげに呟く。
「無力だよ」
洋が拳を強く握りしめ、悔しそうに顔を伏せた。
「たぶん、男性は……女性のような、あんな強い意志を持つことができないんだ」
侑斗も同じだった。
目の前で苦しむ亜希をどうすることもできず、ただ見守るしかない。
やがて、亜希の身体から流れ出ていた血がピタリと止まった。
傷口が、まるで時間が巻き戻るかのように消えていく。
「……っ!」
息を呑む彼らの目の前で、亜希の身体が黒い光を帯び始めた。
「おい、これ……!」
彰が声を張り上げる。
「……あの時と同じだ」
洋と琳が息を呑み、硬直する。
侑斗の目にも、亜希を包み込む不吉な輝きが映っていた。
その黒い光は、まるで飢えた獣のように周囲の空間を侵食し、何かを喰らい尽くしていくかのようだった。