134、現在 パウリの排他原理
それから、ヴェナのいる中空で、果てしないアルファとの戦いが続いた。天空を引き裂くような閃光と爆発音が響き渡る。その間、ヴェナの地上への攻撃は途絶えたままだった。
地上に立つ優香は、ただそれを見上げるしかない。激しい戦いの光が彼女の瞳に映り込み、目を細めながら呟く。
「アルファ……貴女は」
ヴェナの前に立つアルファは、まるで尽きることのない幻影のように、倒されてもなお次々と新しい姿で襲いかかる。
「凄まじいですね、ロッゾの魔女とやらの力は。一向に底が見えません」
ヴェナは鼻を鳴らす。「お前の脆弱な力もな。個々の力は希薄なのに、いくら倒してもきりがない。空気を相手にしているようだ」
その言葉を受けて、アルファの瞳が鋭く光る。彼女は地の底から巨大なマグマを呼び起こし、赤黒い溶岩が波のようにヴェナへ押し寄せた。
「私は、貴女たちが“ステッラの地球”と呼ぶこの星の守護者。すべての守護者が人間を守るわけではないですが、私はこの星の人々を守ると決めました」
マグマがヴェナの身体を焼き焦がす。しかし、ヴェナは怯むことなく、焦げた皮膚を剥ぎ取りながら新たな皮膚を再生する。そして、その灼熱の塊をアルファへと弾き返した。
「私が殺した者たちは、余剰次元の彼方の大地で平和に暮らしていた者たちを、何の慈悲もなく消し去った連中だ。私の手にかかった者など、太陽の鞘を破壊されて死んでいった人々の1%にも満たない」
アルファは目を細め、ヴェナを見つめる。「ほう、まるで人間の感情があるような言い方ですね、ロッゾの魔女」
「私は人間だよ。お前と違ってな。人ではないお前が人を守る理由はなんだ?」
ヴェナの言葉が突き刺さる。アルファの身体がわずかに震え、凍りつく。
「違う、私は人だ。人になるために多くの女たちをこの身に取り込んできた」
その言葉とともに、アルファは上層の太陽風によって電離されたプラズマを操る。稲妻のような凄まじい電雷がヴェナを直撃し、一瞬にして彼女の身体を蒸発させた。
しかし、その蒸発した身体はすぐさま霧のように再構築される。
ヴェナは目を細め、アルファをじっと見据えた。「なるほどな……。お前が自分の中に果てしない特殊な人間の力を溜めてきた。だが、実在する一つの条件と状態の中で存在できるのは、一つだけのはず。つまり、お前は本来“空っぽ”の存在……シニスではないか?」
アルファの身体が微かに揺らいだ。
「……そうです。お前の言う通り、私は初めて外から形を与えられた人造シニスです」
優香は、二人の対決を見つめながら、アルファの正体を見抜いたヴェナに驚嘆した。アルファの身体の中には、パウリの排他原理の影響を受けるフェルミ粒子が存在しない。不存在の中から質量を持ったフェルミ粒子の対であるボーズ粒子のみで構成されている。彼女の中の女たちは、アルファに同化された時、すべて同じ構造を持つようになったのだ。
「私は人に近づくために、より多くの情報が必要だった。だから、私と同化できる女たちを取り込んでいった。彼女たちは、永遠の命と美しさを与えるという条件で私を受け入れたのです」
アルファはヴェナから少し距離を置き、静かに続ける。
「それで、あのフィーネとかいう人型シニスとお前はどう違うのだ?」
ヴェナの巨大な手がアルファを掴み、圧力をかけながら問い詰めた。
「フィーネは原初から存在する塵楳。中身がなく、存在理由を外に求め、人の感情に憑りつく。人の精神を操るための虚無の存在……。だが、最初の枝の神子がシニスの王・ダークを創ったことによって、彼女は形を持つシニスとなった」
ヴェナは鋭く目を光らせた。「つまり、お前とフィーネは同じような存在だが、中身がまるで違うというわけか?」
アルファの身体がわずかに震え、やがて彼女自身もヴェナと同じほどの巨体へと膨れ上がった。
「そうか……そして、お前はあの小娘を更に取り込もうとしたわけだな?」
ヴェナの言葉に対し、アルファは静かに首を振る。
「ええ。瑠衣の力は相転移結晶能力……。分子レベルで高分子を結晶化させ、物質の強度や柔軟性を自在に操ることができる能力。状況に応じて最適な物質を作り出すことができる。私は自分の力をすべて彼女に渡し、地球の守護者を託すつもりだった。私はもう・・・」
ヴェナは嘲るように笑う。「そうか、結局、お前は人にはなれなかったな」
アルファは目を伏せる。「ええ……。私は、この星を護ることで、人の役に立つことで、人として認められたかった。それが、私の自己欺瞞だったのです」
戦場に沈黙が訪れ、優香はただその場に立ち尽くしていた。
優香の上空、二人の巨大な女が激しく対峙している。彼女たちの手は互いに強く握られ、一歩も譲らずに争い合っている。空気が張り詰め、周囲の景色はまるで震えているかのようだ。
「アルファ、貴女はそうやって戦い続けてヴェナの時を止めるつもりなんだね?永遠に。」
暫くの沈黙が続いた後、ヴェナはついにアルファとの対峙を止める。ゆっくりと、しかし決然とした足取りで地面に降りる準備をする。彼女は身体を縮め、元の人の姿へと戻り始めた。周囲の空気がひんやりと変わり、ヴェナレート・クレア・ラナイの姿が現れた。
その変化に戸惑ったアルファは、思わず自身の身体も小さくし、人間サイズへと戻して地面に降り立つ。目の前に立つヴェナレートに一歩も引かず、厳しく視線を交わす。
「どういうつもりですか?ロッゾの魔女。」
アルファの姿は、果てしなく変わり続けた末、最初の形へと戻っていた。
「無限の女達をシニスである空洞に押し込めて、おまえの姿がここにあるというわけだな。」
ヴェナは、何の前触れもなく右腕を真っ直ぐにアルファの胸に押し当てる。アルファはその冷たい感触に一瞬たじろぐが、ヴェナの右腕はそのままアルファの中に消えていく。
「それではな、私も仲間に入れてもらおうか?私もお前の中に同化してもらおうか。」
その言葉と共に、ヴェナの身体はアルファの内部へと侵入していった。身体が融合していく感覚は、まるで冷たい波が押し寄せるようだ。
「ロッゾの魔女、何という事を…」
アルファの声は小さく、震えていた。
「さて、私を同化した後、お前の身体を支配してるのは、私とお前、どちらだろうな?」
二人の身体は完全に重なり、激しい変化の中でアルファの内部に潜む女たちの悲鳴が響く。紅い炎が立ち上り、その炎に触れた女たちの意識はすぐに飲み込まれていく。炎は鮮烈な色合いで、まるで命の燃え尽きる音が聞こえてくるようだった。
しばらくして、赤い陽炎はゆっくりと消え去り、ただ一人の女が放り出される。その姿は、ボロボロの衣装をまとい、かつての輝きを失った若い女だった。無残な姿が、静かに地面に横たわる。
「力の数は凄かったが、個々の力が弱すぎる。全てを合わせても私には遠く及ばぬよ。」
ヴェナの声は冷たく、何の躊躇もなく言い放たれた。彼女は、その女の下へ足を進める。
その時、優香が空間を跳び越え、ヴェナの前に立ちはだかる。ヴェナは一瞬、驚いたように首を傾げる。
「何だ、おまえは?」
ヴェナは、優香をじっと観察する。やがて、突然、口元に不敵な笑みを浮かべる。
「クク、ハ、ハハハハハハハハハハ…」
その笑い声は次第に大きくなり、止まることを知らなかった。
「なんだお前は?その姿はかつて私の一部となりながら抗い続けた小娘と、あの尊敬すべきブルの戦士が合わさって、こんな姿になったのか?なんと醜い、見ていられぬ。」
ヴェナは指をひと振りし、優香の身体を無慈悲に吹き飛ばす。
「どけ、邪魔だ。」
ヴェナは倒れているアルファを再び見つめる。絶望とともにすべてを失った彼女に向かって、ゆっくりと歩み寄る。
「アルファとやら、お前の望みは叶ったようだぞ。最後に残った今のお前の姿は紛れもなく人の姿だ。外も内も、紛れもなく人間だ。だから、この星の残り少ない寿命と共に、人として生きるが良い。」
ヴェナは冷たく言い放ち、今度は膝をついている優香に目を向ける。
「不快だ、おまえは蔑む価値すら無い。あの精悍で優しさを湛えた者の成れの果て、薄っぺらい自尊心の塊となったおまえは、見るに耐えない。この場で、私が引導を渡してやろう。」
ヴェナは深紅に燃える右腕を優香に向かって振り下ろす。その瞬間、ヴェナの背後から四つの輝く輝石が飛び出し、彼女の腕を完全に消し飛ばす。
「そうはさせぬよ、ロッゾの魔女。」
冷徹な声が響き渡る。
「お前が来いと言うから、わざわざやって来たのだ。お前の相手は、私だろう?」
澪は全身にアクア・クラインを回転させ、四方からエネルギーを結集させる。その力を爆発させるように放つと、ヴェナートに言葉の刃を放った。