132、現在 臨戦
全身の体力を奪われ、侑斗は三日間、寝込んだ。うだるような暑さの中、悪意と愛情が交錯する悪夢に苛まれる。その底で、誰かが彼を強く否定していた。呪いは続いている。
まず意識が先に目覚めた。だが身体はまったく動かない。辛うじて指先をわずかに動かせる程度だった。重たい瞼を開いた侑斗の視界に広がったのは、自分のアパートの天井ではなかった。
「ああ、ようやく目が開いたね。あんたはさあ、誰かを心配させることがそんなに楽しいの?」
亜希の声がした。彼女の可愛らしくも凛とした顔が、侑斗の方を覗き込んでいる。
「零さん、侑斗の奴、帰ってきたみたい」
亜希が侑斗の足元の方に向かって声をかける。視界の端に零の姿が映るが、頭を動かすことすらできない。
「私のサイクル・リングから力を与えた。それでも、貴方が回復するまでにこんなに時間がかかった。スクエア・リムを放つのは、侑斗にはほとんど命がけだったみたいだね」
零の左腕には金色に輝くサイクル・リングがはめられている。旅を経て、自らの青のサイクル・リングを使えるようになった侑斗には、その存在がはっきりと感じ取れた。
朦朧とした意識の中、記憶をたどる。零と修一と共に琉双の丘に行った。そして、強大な力に心が圧倒され、支配された。巨大な弧の刃を放った――何故そんなことをしたのかは全く分からない。ただ、それを自分がやったという記憶だけが確かにあった。
「……ここは? 俺は、一体……?」
かすれた声で尋ねる侑斗に、澪からコップを受け取った亜希が、それを彼の口元にそっと近づける。乾ききった喉に、冷たい水が染み込んでいく。すると、ゆっくりと身体の感覚が戻り始めた。
「私は病院に連れて行った方がいいって言ったんだけどね、零さんが『病院じゃ侑斗は治せない』って言うから、あんたはここにいるんだよ。ここは零さんの家」
零の家。零と修一が親元を離れ、二人で暮らしている借家だろうか? それにしても、どうしてこんなことになっているのか……。
「ああ、侑斗くん、目覚めたんだね? 心配したよ」
松原洋の穏やかな声が、亜希の後ろから聞こえてきた。だが、その直後――
「おまえさあ、何やってんだよ? 長旅から帰ってきて、ようやく安心させてくれたと思ったら、三日も寝込んで。他人に迷惑かけなきゃ生きてけないなら、もう死ね。そして帰ってくるな」
うんざりした声で彰が投げかけてくる。この人、亜希さんより容赦ないな……。帰ってきたくて戻ったわけじゃないのに。
「こら!」
亜希が彰の頭を軽く小突く。
「彰くんは悪態でしか感情表現ができないからね。でも、すごくあんたのこと心配してたんだぞ」
「その通りだ。感謝しろ。今まで以上に俺を敬え」
……ここは「そんなことねえよ!」って顔を赤くするところじゃないのかな。死ねとか言った挙句に感謝を求められるのは、理不尽すぎる。
しばらくすると、キュッ、キュッと耳障りな靴音と共に、琳の姿が現れた。
「ああ、侑斗さん、目覚めたんですね? 良かったです。ちなみに外の報告です。相変わらず空は真っ赤です。黒ずんだ血の色みたいですよ」
その言葉を聞いた途端、零も亜希も洋も彰も、誰もが言葉を失った。
「え、また空に何か異常が?」
侑斗が誰ともなく尋ねる。
「うん、この前みたいに、太陽の見かけ上の位置に白い線が引かれてるんじゃなくてね……。そこだけ普通の青空で、他は空全体が真っ赤なんだよ。外ではね。しかも、世界中で太陽が沈むまで、その状態が続いている」
結局、洋が答えてくれた。
「しかもですね。世界中で人体発火や人体破裂、家族ごと人体蒸発が起きてるんですよ」
琳が眉間にしわを寄せて補足する。
わけが分からない……。何でそんなことが連続して起こる? 教団事件は終わったはずだろう?
「今のところ『地球を守る教団』に関係した者が犯人として睨まれている。でも、あの魔女の狙いはこの地球の全人類の拭消。最終的にはこの星そのものを破壊するつもりだと思う」
まるで雪が舞い落ちるような冷やかな声で、零は恐ろしいことを告げた。
「零さん、その魔女ってさあ、いったいどこから来たの?何が目的なの?」
何かを怖れるように、しかし気持ちを抜いた声で亜希が問いかけた。
「ロッゾの魔女は、かつて七つの地球を消し去った。その後、一度私たちで倒した。しかし何者かがそれを復活させた。教団関係者が最初に狙われているのは、これが復讐だから。教団に世界を壊された者達の復讐、憤怒の連鎖」
零の言葉を前に、何も言えない。何かが、見えない鏡の向こう側にある。だが、それが真実だということだけは、実感できた。零は理由もなく嘘をつく人ではない。
「お、橘。目が覚めたか」
黒い服を着た修一が、全員の後ろからつまらなさそうに言い放つ。
「修一、また世界が狂ってるって本当か?史音には相談したのか?」
自然と問いかけるが、修一は首を揺り、否定した。
「アイツには相談してないし、今回はアイツでもどうにもならない。そもそもアイツがどこにいるかも分からない」
「そうか」
あの真っ直ぐな少女ならどんな事でも解決してくれる気がしていた。何かが壊れる音がするようだった。そんなニュースを聞かせられるのは、心が折れそうだった。
「みんな、聞いて」
零が鋭い口調でその場の全員に訴えかけた。室内の空気がぴんと張り詰める。零の目は冷静に光を湛え、決意に満ちていた。
「私と修一は、これからあの魔女を迎え撃つ準備に入る。私がこの場所の位相をずらし、あの魔女に捉えられないようにする。だから、ここから絶対に出ないで」
彼女の言葉に、侑斗をはじめとする全員が息を呑んだ。
「修一が一週間分の食料を用意してくれた。私があの魔女を倒すまで、この家から一歩も外に出ないで」
零の声には、一切の迷いがなかった。しかし、その裏にある緊張がかすかに滲んでいるように感じられた。
一呼吸置いた後、零はゆっくりと侑斗と亜希の方を向く。その目が深く侑斗を見据える。
「侑斗、あなたは亜希さんを守って。教団の事件の影響で、私と亜希さんの間に共鳴作用が働くようになった。もし私が傷つけば、亜希さんも同じ傷を負う。それだけじゃない。彼女の未知の力が目覚める可能性もある」
侑斗は息を詰まらせ、無言で零を見返した。その隣で、亜希は不安げに唇を噛みしめている。
「だから、侑斗。あなたが亜希さんを、そしてみんなを守るの。これはあなたの役目」
零の真剣な眼差しに、侑斗はただ頷くことしかできなかった。
重苦しい沈黙が流れる中、零は背筋を伸ばし、静かに言った。
「それじゃあ、行ってくる」
その一言に、亜希が思わず声をあげる。
「零さん、大丈夫なんだよね?ちゃんと帰ってくるんだよね?」
彼女の声は震えていた。零はふっと柔らかく微笑み、優しく答える。
「ちゃんと帰ってくる。だから亜希さん、侑斗、みんな――どうか待っていて」
先に進んでいた修一が玄関の扉を開いた。その隙間から、赤く霞んだ異質な光景が広がる。そこには日常の景色はなく、まるで世界そのものが塗りつぶされたかのような真っ赤な空間が広がっていた。
家の外の現実は、すでに別の次元へと押し流されていたのだ。
零は最後にもう一度、残された者たちを見つめる。
そして、視界を塞ぐようにそっと扉を閉じ、静かに外へと消えていった。