124、 現在から過去 遠い赤の記憶
ベルティーナは倒れている見知らぬ女にそっと近づく。
女の身体はひどく傷ついているようには見えなかったが、荒い息遣いが彼女の苦痛を物語っていた。一瞬だけ苦しそうに息を吐いた後、彼女はゆっくりと瞳を開く。その瞳には微かに安堵の色が浮かんだ。
「ああ、ベル、ちゃんと戻ってこれたのね。安心した」
ベルティーナは警戒を解かず、慎重なまなざしを向けた。
「貴女は誰ですか?」
女は頭を抱えながら、ふらつく足取りで立ち上がる。彼女の姿が不安定に揺れた。
「何を言ってるの、ベル。私は……私は……私は誰!?」
その声も、言葉遣いも、優香とは違った。優香ならこんな風に混乱しない。ベルティーナの知る彼女ではない。
次の瞬間、女の姿が流れる線のように揺らぎ、霞み、そしてベルティーナのよく知る優香の姿へと変わった。
「く……参ったな。こんな無茶はもう御免だよ。身体は切り離したから何ともないけど、意識だけを外すのがこんなに疲れるとは思わなかった」
優香は頭を押さえ、乱れた髪を手で整えながら、深く息をつく。
ベルティーナは、その転写移動を見た記憶があった。
「優香、今のは共振転創……疑似重点による非局所転創……何故貴女が?」
優香は髪をかき分けながら、ベルティーナを見つめる。
「そうか……共振転創を復活して使っていたのは貴女の姉のヴェナレートだけだったね。よく気づいたよ、ベル。けどゴメン。隠し事をする気は無いんだよ。ただ、全ての事情を貴女に上手く話せる自信が無い。私もあらゆることを自分の意志でできるわけじゃないんだ」
優香はそう言い残し、少し横になると言って部屋を出て行った。
姉であったものは、すでにこの地球に解き放たれてしまった。
「ヴェナ姉さん……どうして貴女がこの地球に来てしまったの?」
ベルティーナは、初めて共振転創が目の前で起きた時のことを思い出す。
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ラナイの城から離れ、一人。
ベルティーナは、己の体細胞に存在力を書き込んでいく鍛錬を続けていた。ラナイの力──複製と増殖を繰り返すその本質に、近づくために。
「量子世界のエネルギーを特定して、位置と時間に自由度を与える差時間を生み出す……使いこなせれば、あんたは私よりラナイの本質に近づく」
ヴェナレートは、そう言っていた。
しかし、その集中を乱す声が耳に届いた。
「この小娘がラナイ王家の第二王女だって?」
ベルティーナは背筋に冷たい悪意を感じ、ゆっくりと顔を上げた。五人の戦士たちが、自分を囲んでいた。
「そうだ。まだ幼いが、早いうちに始末した方がいい。もし今の第一王女並みの力を持ったら、我らに勝機は永遠にない」
三人、いや、五人。
彼らはジャッロの戦士たちか?
「どうする?」
一人が問う。
「ラナイの一族は細切れにしても死なない。少しずつ痛みを与え、精神を殺していく方法が有効だろう」
次の瞬間、閃光のような刃が振り下ろされた。
ベルティーナの左足首が、鋭く切り裂かれる。
激痛が駆け抜け、彼女は泣き叫んだ。
姉から教わった刻奏音で、ラナイの城にいる母と兄バーナティーに自分の危機を伝えようとする。
しかし、別の男が冷酷に剣を振り下ろし、今度は右手首が切り落とされた。
痛みと悲しみで、ベルティーナはただ泣くことしかできなかった。
「姉上……ヴェナ姉さん、助けて……」幼いべルティーナは今はラナイの国にいない姉に助けを求めていた。
男の剣が彼女の右肩を貫く。
視界が暗転し、意識が遠のく。
『ベルティーナ!』
朦朧とする意識の中で、姉の刻奏音が響いた。この地球にいないはずのヴェナレートから、どうして声が聞こえる?
『今私は動けない。だから共振できる世界から、お前を助けてくれそうな奴を転創する』
四人の男たちに囲まれ、ベルティーナは成す術もなかった。
「さて、次は足かな、それとも手かな。達磨になっても、お前の身体を裂くのは止めない」
短剣が振り上げられた瞬間──
男の首から、鮮血が噴き出した。
「何でこんな事になってるか、全く分からないが……子供を寄ってたかっていたぶる奴は、何をされても仕方ないよな」
静かな声と共に、細い流線が空間を裂く。
目の前に現れた男は、透明に光る剣を手にしていた。
ベルティーナが初めて共振転創の瞬間を目にした、その時だった。
剣を構えた男は、残った四人のジャッロの戦士たちに冷徹な眼差しを向けた。
「分かるか?手を切られると、凄く痛いんだぞ」
言葉と同時に、一人の男の手首が宙を舞う。悲鳴が響き渡る。
「分かるか?足を切断されると、痛いんだぞ」
次の一撃が、もう一人の男の足首を斬り裂いた。
更に、一撃。
「冷静に残忍な所業をするなら、まず本気で相手の痛みを知れ。手段を目的とするな」
その男──甲城トキヤが放つクリアライン・ブレイドが、次々と敵を斬り裂いていった。
やがて、四人全員が世界から追放された。
斗紀也は静かに幼いベルティーナへと歩み寄った。
地面に横たわる彼女の手足は、鮮やかなラナイの血に染まりながらも、瞬く間に細胞が活性化し、みるみるうちに再生していく。傷口が塞がり、白磁のような肌が元の形を取り戻すのを見届けると、斗紀也は感嘆の声を漏らした。
「へえ、すごいな、お前。俺、要らなかったんじゃないか?」
彼は軽く肩をすくめながら言ったが、ベルティーナは静かに首を横に振る。
確かに身体は元通りになった。だが、もし彼が助けに来なければ、心の方は壊れていたかもしれない。絶望の中で精神が引き裂かれ、取り返しのつかない傷が刻まれていたことだろう。
トキヤは遠くの空を見上げ、小さく息をついた。
「……しかし、参ったな。俺もちょっと立て込んでるんだ。枝の神子の九割が敵に回ってる。早いとこ帰らないとまずい」
彼の言葉の意味を、ベルティーナはすぐには理解できなかった。ただ、彼が別の戦いの渦中にあることだけは察することができた。
その後ヴェナによってステッラの地球に共振転送されたべルティーナは、トキヤ達の最後の戦いに加わることになる。
後に彼女は複素演斬体から聞かされることになる。
このときトキヤが戦っていた敵こそ、励起導破戦争の末期において百を超える地球の消滅に関与した存在だったと。
ラナイの国に戻った後も、彼の剣が切り裂いた運命の傷跡は、ベルティーナの心に深く刻まれていた。