120、現在 レゾンデートル
眠りの中で、いくつもの悪夢を見た。
内容は覚えていない。ただ、胸が締めつけられるような不快感が残る。
『君は私のマイナスだ』『君は不要だ』『君は全然駄目だ』
耳にこびりついた声が蘇る。
……知ってるよ。
自分が不要で、駄目な人間だってことくらい。
史音は慰めてくれたけれど、彼女の言葉がこの事実を否定してくれたわけじゃなかった。
侑斗は空腹に襲われ、深夜に目を覚ました。
枕元のスマホを手に取ると、時刻は午後10時30分を過ぎたところだった。ぼんやりとした頭でしばらく天井を見つめた後、侑斗はようやく起き上がり、財布を探す。何でもいい、とにかく軽くて安い食べ物を買いに行こう。
着の身着のまま外へ出ると、ひんやりとした夜風が肌を刺した。昼間の喧騒が嘘のように静まり返った街。街灯の明かりがまばらに灯る中、侑斗は徒歩10分ほどの距離にあるコンビニへと歩を進めた。
この店は午後11時半で閉まる。間に合うか、と気にしながら少し速足で進む。道を歩く人影はほとんどなく、遠くに酔っ払いが誰かと笑い合う声が響いていた。
コンビニの自動ドアが静かに開く。冷たい空気が店内から漏れ出し、僅かにアルコールと揚げ物の匂いが混じっていた。急いで300円程度で食べられるものを選び、レジを済ませると、袋を片手にアパートへと戻る。
——その途中だった。
人気のない狭い路地に差し掛かった時、ふと背筋に冷たいものが走る。誰かの視線を感じた。
足を止め、周囲を見回すと、暗がりの中からひとつの影が静かに現れる。黒いフードを目深に被った人物。その中から覗くのは、真っ白な髪に感情のない美しい顔。
——何度も見た顔だった。
フィーネは侑斗に視線を向けぬまま、淡々と口を開く。
「お前は史音と共に在城龍斗を倒した。それについては礼をしておこう」
侑斗は呆れたように鼻を鳴らす。
「……あんた、本当にどこにでもいるな。で、何の用だ?」
フィーネはストールを襟元まで引き下げ、今度はまっすぐ侑斗を見据えた。
「私はいつでも、どこにでもいる。今は在城龍斗も、女王ベルティーナの監視もない。だが——」
フードの奥で、彼女の瞳が冷たく光る。
「アオイが——いや、椿優香が私を追っている。だから見つかる前に、端倪すべからざるお前を排除しに来た」
その言葉とともに、フィーネの背後から漆黒の布の束が現れる。その一つが瞬時に侑斗の右腕を捉えた——が、次の瞬間、青のサイクル・リングが淡く発現し、布を焼き切る。
「……出来損ないの中途半端な力で、これ以上私の邪魔をするのなら、ただ苦しみが長くなるだけだ」
再び布が侑斗に襲いかかる。今度は何重にも重なり、右腕に巻き付いていく。包帯のように、蛇のように、じわじわと締め上げる。
フィーネの無機質な声が響く。
「お前のような出来損ないの、まがい物。偽物が、なぜのうのうと生きて我が主の復活を妨げる」
侑斗は無感情に彼女を見返した。
「……のうのうと生きているように見えるのか? それは問題だな。まるで俺に余裕があるみたいに褒められると、くすぐったいぞ」
挑発するような薄い笑みを浮かべる侑斗に、フィーネは一切表情を崩さない。
次の瞬間、黒い布の束が一斉に放たれ、侑斗の全身を包み込んだ。身体を覆う異質な繊維がじわじわと締まり、呼吸を奪っていく。
「……軽口を聞く気はない。お前は人に紛れたただの創作物だ。それ故に、常に私の計算を乱す」
布の締め付けがさらに強まる。酸素が薄れ、意識が遠のく。
「本来の自分の力でないものに支えられた偶然の産物が、世界に存在しているだけで害悪だ」
視界が暗くなっていく。
——ああ、ようやく楽になれる。
旅の果てで生き残ったのが奇跡だった。もしかしたら、これが本当の旅の終わりなのかもしれない。
侑斗が死を受け入れた、その瞬間。
蒼き輝石が闇を裂いた。
「——ただの創作物はお前だ」
鋭い声が響く。
「お前からは人の気配を感じない。化け物が侑斗の身体も心も傷つけることを、私は一切許さない」
黒い布を切り裂いたのは、蒼く輝く輝石。
零の瞳が、それと同じ光を湛えていた。
「葛原零……いや、レイ・バストーレ!」
フィーネの声が夜の静寂を裂く。
「何故お前ほどの女が、こんな偽物にこだわる? 本来なら、お前の大切なものを真似ただけのこの偽物を最も憎んでいるはずだろう!」
闇の中、零は静かに前へと歩を進める。彼女の前方で、蒼く輝くアクア・クラインが螺旋を描きながら宙に浮かび、その光が夜の暗闇を切り裂くように揺らめいた。
「人でない貴様に……私の何が分かる!」
凛とした声とともに、螺旋の先端がフィーネを貫こうとする。
しかし、その瞬間、フィーネの姿は風に散る塵のように消え去った。
静寂が戻る。
蒼い輝石の光がゆっくりと薄れ、零の髪が夜風に揺れた。
——侑斗。
零はすぐに地面に倒れている彼へと駆け寄り、そっと体を支え起こす。
「……零さん、ありがとうって言わなきゃいけないんだろうけど、正直、もうこんなことはしなくていい」
侑斗のかすれた声が夜に溶ける。
零は少し首を傾げ、侑斗を見つめた。
「今の奴が言ってたように、俺は貴女の大切な人の偽物だ。貴女の大切な人は……きっと優しくて、頭が良くて、強くて、貴女を守れるくらいの人だったんだろう。でも……もうその人はいない」
零の瞳がわずかに揺れる。
彼女は侑斗からそっと距離を取り、夜の闇を見つめるように立ち尽くした。
「……でもね。聞こえるんだ」
侑斗は右手のリングを握りしめる。
「身体の奥から、右手のリングから……『お前は偽物だ。許されない存在なんだ。早くいなくなれ』って……」
お前は不要だ。
お前はマイナスだ。
その声は、まるで世界が自分を拒絶するように響く。
「ユウは……そんなことは言わない」
零は息を詰まらせるように言った。
「……なら、きっと世界が俺にそう囁いてるんだ」
侑斗はふっと笑う。
「零さん……貴女は凄い人だ。もう存在しない者に縛られて生きるような人じゃない。貴女は……俺なんかに構うべきじゃない」
——やっと言えた。
そう思った。
なのに、何故だろう。
言葉を吐き出した途端、胸が締めつけられるように痛んだ。何も求めていないはずのこの世界で、自分は何に拘っている?
気づけば、侑斗の頬を涙が伝っていた。
——何故、泣いている?
次の瞬間——零が侑斗に抱きすがる。
「橘侑斗……」
声が震えていた。
「貴方は確かにユウじゃない……彼女が創った偽物……そんなことは、初めて会う前から分かっていた。でも……」
零の腕が、侑斗の背に回る。
「でも私は……この葛原零は……貴方がいない世界では生きられない」
侑斗は息を呑んだ。
「貴方は……私がユウに求めたものを、全部持っている」
——レイは悪くない。
——レイ、君を傷つけてごめん。
——君を悲しませてごめん。
かつてそう言ってくれたのは、間違いなく目の前にいる彼だった。
偽物なんかじゃない。
「……侑斗、明日、修一と三人で琉双の丘に出掛けましょう」
零の声が優しく響く。
「あなた達の旅のことを教えて……だから、今はゆっくり休みなさい」
零の左手が、そっと侑斗の瞳を覆う。
——視界が闇に沈む。
そして、侑斗の記憶は途絶えた。