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118、現在 帰還

飛行機のエンジン音が静かに響く機内で、侑斗は窓の外をぼんやりと見つめていた。雲海の上を滑るように進む飛行機は、まるで長い旅の終わりを象徴するようだった。フライト時間は驚くほど短く感じられた。あれほど長く思えた船旅や果てしなく続く大陸の道のりが、まるで幻だったかのように。


虚無の神殿を後にした後、修一の知り合いらしき男女に案内され、何の問題もなく空港へと辿り着いた。旅の間ずっと張り詰めていた緊張が、少しずつ解けていくのを感じる。


「修一、大変だったな。お前の役回りは」


精悍な顔つきの若い男が、軽く顎をしゃくりながら声をかけてきた。


「一矢、お前の方がよっぽど大変だったろう? 人心を操るなんて器用なことは俺には無理だ」


修一は淡々と答えながら、差し出された航空券と高級そうなクレジットカードを受け取る。その様子はまるで、長年の付き合いがある相手との何気ないやり取りのようだった。


「史音は行方不明ということですね?」


修一に「落合さん」と呼ばれた年上の女性が、静かに尋ねる。


「アイツはいつも行方不明みたいなもんだろう? 非常事態になれば、またどこからともなく現れるさ」


一矢の言葉に、侑斗はふと別れ際の史音の寂しげな表情を思い出す。彼女はいつも、正しさの先にさらに正しさを求めていた。その旅路が終わることは、果たしてあるのだろうか? 彼女はどこまでも進み続けるのではないか? そんな予感が侑斗の胸を締めつけた。


「それじゃあな」


修一は短く別れの言葉を告げる。侑斗も特に何も言うことがなかったので、そのまま修一についていく。


「橘侑斗さん」


落合が呼び止める。


「貴方は自覚がないでしょうが、貴方は私たちの期待以上に働き、いくつもの世界と大勢の人々を救ったのです。どうか胸を張ってください」


その言葉に、侑斗は苦笑する。自覚もなく、偶然でそれを成し遂げた自分に、胸を張れというのか? それはあまりにも滑稽だった。しかし、彼女のまっすぐな視線を前に否定するのも違う気がして、侑斗はわずかに振り返り、軽く会釈を返した。


飛行機が日本に着陸した後、侑斗と修一はそのまま電車を乗り継いだ。新幹線から特急、さらに各駅停車へと乗り換え、ようやく見慣れた故郷の風景が窓の外に広がる。出発から28日が経過していた。


死と隣り合わせの旅を続け、数えきれないほどの異変と戦い抜いた日々。だが、こうして日常へと戻ってくると、それらがまるで夢の出来事のように感じられる。駅の構内に漂うコーヒーの香り、行き交う人々の穏やかな表情――それらは旅の間、遠ざかっていた現実の温もりを思い出させた。


改札を抜けると、修一が突然立ち止まり、侑斗に手を差し出した。


「キャッシュカードを貸せ」


何の説明もなく言われ、侑斗は訝しみながらも財布からカードを取り出す。修一はそれを受け取ると、近くの銀行のATMへと向かい、何やら手続きを始めた。


数分後、修一はカードと利用明細を侑斗に返した。


「確認しろ」


受け取った明細に目を落とした侑斗は、思わず息を呑む。出発前、生活費の残高はわずかだった。それが今、200万円以上の額が振り込まれている。しかも、振込依頼人の欄には「葛原修一」と記されていた。


「……これは?」


「少ないか?」


修一は軽く肩をすくめる。


侑斗は首を横に振った。


「まあ、もっとやってもいいんだがな。正直、金銭で測れるようなことじゃないしな」


修一はポケットに手を突っ込みながら、少し真剣な表情になる。


「とりあえず、食いたいもんを食って、欲しいもんでも買え。少しは物欲に浸れ。お前、精神がボロボロなのが傍から見ても分かる」


修一の言葉に、侑斗はふっと息を吐いた。確かに、今の自分には休息が必要だろう。まずはアパートに帰り、心を落ち着けることから始めよう。


――そういえば、来月の家賃の支払いがまだだったな。


だが、それも今はどうにでもなるだろう。


舗装された街道を歩く二人の前に、思いがけない人物が立っていた。


「よう、世界とやらはちゃんと整えられたのか?」


原色のシャツにジーンズというラフな格好の男――牟礼彰だった。夕暮れの光を背にして立つ彼の姿は、どこかいつもより厳つく見える。


「修一、お前は必ず出発した場所に戻ってくると思ってたよ。いなくなったときと同じ電車で帰ってくるのは想像できた。で、教団の阿呆共を壊滅させたのはお前らか?」


彼の問いに、修一はしばらくの間を置いてから口を開く。


「まあ、橘が結構働いてくれたからな。教団は壊滅して、次の教祖が出てくることもないだろう。それから……俺ごときの力じゃ世界はどうにもならなかった。せいぜい、先延ばしが精一杯だったよ」


修一の声音には、どこか疲労が滲んでいた。それからふっと表情を和らげ、


「……それより、姉貴たちのことで苦労をかけたようだな」


と、彰に目を向ける。修一は侑斗と同じ歳のはずなのに、彰に対してため口を使っているのが不思議だった。


「まあ、こちらもそれなりに大変だったよ」


彰は肩をすくめ、ふっと遠くを見つめるように目を細める。


「だがな、俺は亜希さんの声を浴びた時から、この世界の真実が、本当の姿が見えるようになってきた。本当に、こんなものどうにかなるのか?」


修一はその言葉に、ぎゅっと口を結ぶ。侑斗は眉をひそめた。

修一は彰が昔、零によって救われる以前から強い知成力を持っていた事を知っていた。そして亜希の声を浴びたと、今まで以上に注意しなければならない。


「この世界の真実って何なんですか? それに、亜希さんの声を浴びたってどういうことですか?」


訝しげに問いかけると、修一がすぐに遮るように言った。


「橘、お前は知らなくていい」


「修一の言うとおりだ、侑斗。お前は何も知らなくていい」


彰もまた、同じ答えを返す。その冷たい拒絶に、侑斗は肩を落とし、何も言えなくなった。自分だけが知らない世界が広がっているようで、思わず死にたくなるほどの疎外感を覚えた。


「さて、疲れてるだろうが、みんなお前たちを待ってるぞ。あの角のファミレスでな」


彰が顎で示した方向には、見慣れたチェーン店の看板が光っていた。


「俺はパスだ」


修一はきっぱりと断ったが、なぜか侑斗には「お前は絶対行け」と強く勧めてきた。勝手な話だな……。


ファミレスの奥の禁煙席に、見知った顔ぶれが揃っていた。洋、琳、亜希、そして零――彼らはすでに飲み物やデザートを注文し、談笑していた。


「お帰り、侑斗くん」


最初に声をかけてきたのは松原洋だった。


「とりあえず無事で何よりだ。旅の詳細はきっと話せないだろうから、侑斗くんの楽しかったことだけ教えてよ」


いつもの穏やかな笑顔で言う。


気づけば、侑斗は六人掛けのテーブルの窓側の席に座らされていた。向かいには亜希がいる。中央には彰、その正面に零が座り、その隣に琳、向かいに洋。まるで帰還の宴のように、侑斗を除く五人はすでに飲み物やデザートを楽しんでいた。


「何か頼みなさい。顔が半分以上死んでるから、甘いものがいいよ、きっと」


亜希の容赦のない一言に、侑斗は小さく息を吐き、適当に甘そうなデザートとブラックコーヒーを注文した。


侑斗は旅の話を日常に関連づけられる範囲で語った。船酔いがひどかったこと。深い谷で霧に巻かれ、五里霧中になったこと。高い山で絶壁を歩かされ、怖かったこと。砂嵐の中で遭難しかけたこと。古い遺跡でいくつも不気味な墓を見たこと……。


零がふっと微笑む。


「侑斗、あなたが話してくれたことは、きっと旅のほんの一部分。それでも……私は、あなたが無事にここへ戻ってきてくれて嬉しい」


彼女の穏やかな声が、ふわりと心に染みた。


だが、亜希はそんな雰囲気をぶち壊すように、ズバリと切り込んできた。


「あんたさ、ひと月近くも私のカウンセリングを受けないで、よく死ななかったね。私はあんたがいつ自分で命を絶つか心配で仕方なかったよ」


帰ってこなかった方が良かったんだろうか? 悪意のない亜希の言葉が、容赦なく胸に突き刺さる。


「まあ、史音がずっと一緒にいてくれたから、どうにか精神は保ったんだ。アイツがいなきゃヤバかったなあ」


そう言うと、亜希の目が細くなる。


「ほう、あの胸の大きい小さい娘と一緒だったんだ? じゃあ、私がいなくても寂しくなかったんだね。あんたはてっきり、歳上の胸の小さい人が好みだと思ってたよ」


……何を言ってるんだ、この人は


思わず頭を抱えたくなった。そもそも、自分に女性の好みなどあるはずがない。史音と亜希、それにこの場にいる四人が顔を合わせたことがあるのは知っているが、それがどうしてそんな話になるのだろう。


そのとき、テーブルの上でぎゅっと両拳を握りしめていた侑斗の手を、亜希がそっと包み込んだ。


「私はなぁ……」


彼女の声が震える。


「とても、とても寂しかったんだぞ。アンタがいなくて、心が死にそうだったんだぞ」


冗談をそんな真顔で言わないでほしい。


けれど、その温もりを感じた瞬間、旅の間に張り詰めていた心の糸が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。

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