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117、現在 哀情

べルティーナの前には、灰のように舞うセピア色の霧が渦巻いていた。どこまでも沈んだ色合いの世界。重く垂れ込めた霧が、微かな風に流されながらゆっくりと形を変えていく。その隙間から、光の筋がこぼれ落ちる。空のどこかに太陽はあるのだろう。けれど、その光はぼんやりとした輪郭しか持たず、世界を照らすにはあまりにも頼りなかった。


 べルティーナは、胸の上で両手を組み、そっと祈る。

 ——今度こそ。


 濁った霧の向こうに、やがて人影が浮かび上がる。ひとつ、またひとつと輪郭がはっきりしていき、その姿が彼女の目の前に現れた。


「優香……」


 優香は、いつものように背筋を伸ばし、確かな歩調で近づいてくる。けれど、その表情には普段の自信も強さもなく、固く引き結ばれた唇の奥に、苦悩を押し殺しているのが見えた。


「ベル、ごめん。全て終わったけど、貴女の元に戻ったのは私だけだ」


 静かな声だった。


「そう……ですか……ご苦労様でした」


 べルティーナは、瞳を伏せる。言葉が霞む。胸の奥が鈍く痛んだ。


「それで……橘……侑斗さんは? 史音は?」


 彼女の問いに、優香は一瞬、息を詰まらせた。


「史音は、少し旅に出てくると……そして彼は日本へ……レイの元へ帰った」


 べルティーナは衝撃を受けた。まるで足元から地面が消えたような感覚だった。


「また……私は、自分の創ったユウの分身の、傍らにいることができないのですね?」


 侑斗を地球に転送して以来、彼はずっとべルティーナの保護下にあった。けれど、葛原零のいる日本へ転送された彼に再び会うことを、優香は許さなかった。当時のべルティーナの姿は幼く、零には太刀打ちできない。そして、最初の崩壊の時——優香の判断によって、侑斗は葛原零、レイ・バストーレの保護下に入ったのだった。


「ごめん、べルティーナ。今回も全部私の責任だ。それに、私は何もできなかった。長い旅を終えて、世界をとりあえず正常に戻したのは史音たちの力だ。貴女が選んだ彼も、私よりずっと役に立った」


 霧の中で、優香の声が淡く消えていく。


 ——四年間、自分は何をしていたのだろう。


 失われた人格と記憶を探してさまよった。あの時間は何だったのか。自分は、なんて愚かだったのだろう。


「良いのです……貴女は十分、史音たちをサポートしてくれたのは解っています」


「良くないよ、ベル」


 優香が、静かに言った。


「どうして貴女は、私を無条件に肯定してくれるのかな? 分かっているだろうけど、私は葵瑠衣の人格を失った今でも、まだ計画を実行するためなら無慈悲で冷淡になれる。たぶん、本当は今でも、人の心が理解できない。史音の目指す美しい世界が分からない。それに、私は彼にずっと酷い仕打ちをし続けた。レイを抑えるために彼を利用し、ベルに忍耐を強いた。恨んでくれて当然だ」


 べルティーナは、初めて聞く優香の苦悩に満ちた声に、息を呑んだ。


「私は……ユウとレイの間を引き裂いた。その罪を考えれば、今の私の境遇は当然です。でも……今回は会えたから……少しだけど彼と……会えたら……十分です……」


 べルティーナの声が震える。嗚咽が混じる。


「私は……一体何のために、この世界に居るのでしょうか……私が本当に欲しいものは、ただ一つなのに……本当は、量子の海を渡る時、あのまま吹き飛ばされてしまえばよかった……私の犯した罪は、きっと永遠に消えないんです。私に許しの朝が来ることは……もう、無い……」


 べルティーナは、自らの身体を抱き締めるように震え出した。


「もう……女王は嫌です……私は、この黄昏の世界で静かに生きて……その最後の瞬間に、私の創ったユウの形見と一緒に居たい……他には何もいらないのに……」


 崩れるように倒れるべルティーナの身体を、優香が抱きしめた。以前の彼女なら、ためらいなくべルティーナの頬を殴っていただろう。


「べルティーナ、貴女は有城龍斗から、この世界の人々を救った。たくさんの地球の人々を救ったんだ。それを否定するものは私は許さない。例え貴女自身でも」


 優香の腕の中で、べルティーナが泣く。


「優香……私はもう限界なのです……今回のことで、自分の非力を感じました……私は、他人を司る資格などない、哀れで情けない女です……」


「ベル」


 優香はそっとべルティーナの頭を撫でる。


「これからは、私がずっと貴女の側に居る。史音や彼の代わりに、私が貴女を守るよ」


 べルティーナの嗚咽が、声にならない声を紡ぐ。


「お願い……優香……もうどこにも行かないで……ずっと側に居て……私を助けて……」


「ああ……私はいつだって貴女の味方だ。貴女を傷つけるものを排除するのが私の役割だよ」


 二人は、渦巻く霧の中で強く抱きしめ合った。


「今回の出来事で、世界はたくさんのものを失いました。それに見合うものを、私達は得ることができたのでしょうか?」


「失ったものを探すのは、もうやめよう。きっと、何かを得ることより、どうやって得るかの方が、大切なことなんだよ」


 優香の中に、史音からもらった言葉が浮かぶ。


——『世界の為とか、誰かの為とか……なんでもいいけど、人の想いがそんなものの犠牲になる世界は、滅びても良いんじゃないのか』


 その想いを、自分の分身の言葉を、理解できるようになりたい——優香は、静かに決意した。

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