115、現在 空洞
世界中の空が正常に戻り、人々は長い悪夢からようやく目を覚まそうとしていた。
都市のビル群を照らす陽の光は柔らかく、空には青が戻っている。鳥たちは自由に羽ばたき、街の喧騒も、どこか穏やかなものへと変わっていた。
一方、荒廃した施設の中、侑斗と修一は極子連鎖機構と制御装置を残らず破壊し終えた。煙が立ち上る残骸の間を歩く二人に、史音が声を掛ける。
「修一、あの貧乳が戻ってくる前に侑斗を姉さんのいる日本に連れて帰れ」
「そりゃあ帰るが、お前はどうするんだ?」
修一が問いかけると、史音は無造作に左手を持ち上げ、人差し指で下を示した。
「まだアタシにはやることがあるからな」
史音の指し示す先には、椿優香がいた。
侑斗は思わず史音に声を掛ける。
「史音、お前も俺たちと一緒に日本に行かないか? 一応母国なんだろ?」
史音は小さく微笑んで、哀しそうに首を横に振る。その瞳は赤く潤んでいた。
「何だ、侑斗、アタシにキスされたから惚れちゃったか? アタシがいないと寂しいのか?」
その軽口に、侑斗は一瞬言葉を詰まらせる。
……そうでもない。
亜希さんには、「ちょっと話の参考にしたいから今から接吻するぞ。このことに特別な意味はないからね。私、男女の恋愛ってのがよく分からなくてさ」と言われて、照れもせず何度もされたし、澪さんには自殺を止めた後、いつもいきなり唇を重ねられた。
でも——史音の唇はとても暖かかった。
「侑斗、嬉しいけどアタシは一緒に行けない。でもな……アタシも、本当はお前たちと離れるのがすげえ寂しいんだよ」
史音はふっと息を吐き、遠くを見つめるように目を細める。
「でも、いつかきっとまた会えるさ」
そう言って、史音は侑斗の目を真っ直ぐに見た。その表情には、決意と別れの覚悟が滲んでいる。
「で、最後に頼みがある。今度出会う時まで、アタシにクリアライン・ブレイドを貸してくれ」
静かに吹き抜ける風が、瓦礫の間を流れていった——。
◇
石段を降りるごとに、神殿の空気は次第に重く、湿り気を帯びていった。苔むした壁には古代の紋様が刻まれ、揺らぐ燭光が長い年月を経た彫刻を浮かび上がらせる。
優香は慎重に歩を進めた。地球のコアが近いためか、干渉波が多く、移送の波頭を跳ぶことはできない。
彼女の目的地、プルームの岩戸はもうすぐそこだった。
狭い入り口の奥、探していた男の姿が現れる。壁一面に絡みつく巨大な木の根、その隙間に埋もれるようにして、有城龍斗が立っていた。
彼は深い地下の暗闇にありながら、高流電子版の光を浴びて浮かび上がっていた。
「やあ、優香。やっと来てくれたね。ずっと待っていたよ」
穏やかな口調で龍斗は微笑む。
「ようやく追い詰めたよ、龍斗」
優香は冷え切った声で言い放つ。
「さあ、私から奪ったものを返しなさい」
彼女の鋭い視線が、龍斗を貫く。
「僕が奪った?」
龍斗は高電子パネルから指を離し、優香をまっすぐに見つめた。
「そんな記憶はないけどね。でも、君が欲しいもの……君の空洞を埋めるものは、確かに僕が預かっている」
次の瞬間、龍斗は右手を掲げ、指先から変数操作線を放つ。それはまるで生き物のようにしなりながら、優香へと伸びる。
「龍斗、知っているだろう? 私には他我の種はない」
「知っているよ、優香。君のことは全部知っている。君以上に」
振線が優香の胸を貫いた。
そのまま後ろの壁に絡みついた木の根へと繋がり、優香の身体を縛り上げる。
動こうとした瞬間、振線の糸が胸の穴に絡みつき、激痛とともに自由を奪った。
「やはりね、優香」
龍斗は憐れむような眼差しで彼女を見つめる。
「君はその胸の空洞を、心の穴を埋めたいと今でも強く思っている。自分に足りないものがあると強く自覚しているからこそ、その空洞ははっきりとした輪郭を持ち、君自身をそうやって封じるんだ」
「龍斗、私に返せ! それは私のものだ!」
優香は睨みつけるが、龍斗は微笑んだまま首を振る。
「もちろん返すさ。そして君には、椿優香をやめてもらう。アオイに戻るんだ」
「私のルーツ……なぜお前がそれを知っている?」
初めて優香の表情に焦りが滲む。
「知っているさ。すべてを見ていた地球自身から聞いた。地球の大樹と話ができるのは、君だけじゃない」
その言葉とともに、木の根が脈打つように震え、狭い部屋は呼び出された地球の大樹に繋がっていった。
「君が最後に僕の元へ訪れた時、君は僕がシニスのフィーネと手を組んで光層磁版図を創ろうとしていることを知った」
龍斗は静かに語り続ける。
「そして、それを知った君は僕の元を、そして女王の元も離れた。でも不思議だったよ、優香。僕の光層磁版図は、椿優香になる前に君が創ったものだ。君はそれをまるで覚えていないように振る舞い、自らが創ったはずの光層磁版図を忌み嫌い、僕と敵対した」
優香は大樹の根に貼り付けられたまま、激しく首を振る。
「龍斗? 何を言っている? 私がお前の愚かしい光層磁版図を創った? そんなはずはない!」
「やっぱり……」
龍斗は小さく息をついた。
「ここにいるのは、僕の知っているアオイじゃない。でも、僕なら君をアオイに戻せる」
優香の胸の空洞を見つめながら、彼はそう断言した。
「優香、君は最初の崩壊の時、橘侑斗に出会った。そして長時間地球の枝に触れたことにより、君を創った者の意志と繋がった。その時、その意思が君の中にある非情な合理性を否定し、それを引き剥がした」
「私を創ったものと、私は全く関係ない!」
優香は叫ぶ。
「私は自らの意志でここにいるんだよ!」
その強い否定の言葉は、ただ龍斗の聴覚をすり抜けていくだけだった——。
暗闇に包まれた地下の空間で、龍斗の声が静かに響く。
「君は自分の名前と同じように、いくつもの人格を使い分けていた。だから女王を含め、誰も君が椿優香に変わったことに気づかなかった」
木の根が絡みつく壁の向こうから、龍斗は淡々と語る。
「けれど、あの時以来――君を創った者が嫌悪したいくつかの人格が、君の中から完全に消えた。そして、自分が創った光層磁版図のことも忘れてしまった」
優香は微動だにせず、じっと龍斗を見据えていた。
「そもそも、椿優香になる前の君は、女王や葛原零のために女としての同情を示すことすらなかった。フィーネのような存在を利用し、アローンを生かしておくことにも一切躊躇しなかった。どこまでも冷静で、毅然とした人だった」
龍斗の目が優香を射抜く。
「そんな君に、僕は強く惹かれた」
その言葉に、優香の思考の隙間に微かな恐怖が芽生える。
この男は、自分の知らない自分のことを知っている。
それが、気持ち悪くて仕方がない。
「そして君は、やはり失ったものを求めてここへたどり着いた。否定され、消されたものを――君自身がここまで強く求めていた」
龍斗は、まるで愛おしむように言った。
「僕は今、とても嬉しいよ」
優香は何も言わず、唇を噛んだ。
もし龍斗の言葉が本当なら、自分はそれを受け入れるべきなのだろうか?
「これは、君が切り離した過去の人格だ」
龍斗は掌を掲げる。そこには、淡い光を宿した小さな結晶があった。
「君の人格の一部は、地球が記憶していた。そして僕はフィーネに頼み、この思考パターンをエキシマーの籠に保存した」
まるで大切な宝物を扱うかのように、龍斗はそれを指先で転がす。
「さあ、これを君に返そう。そしてアオイ――君が僕の代わりに、この光層磁版図を完成させるんだ」
木の根が脈動し、大樹の気配が部屋全体に満ちていく。
「僕はこれから地球の大樹から滅びの声を呼び起こす。そして地下のコールド・プルームを操作し、再び地上の人々に恐怖を与える。そして、君の手助けをする」
龍斗は微笑む。
「大丈夫だよ。すべて上手くいく」
その手には、優香――いや、アオイの失われた記憶があった。
「君はこれを受け入れるしかない」
龍斗の言葉は、静かで、揺るぎない。
「それとも、君の心の空洞に彼を――橘くんを取り込む方がいいのか? もう一人の君を」
その問いに、優香の目が揺れる。
「要らない! あんなもの、私は要らない!」
彼女は叫んだ。
「ベルやレイを苦しめたあんなもの! あんな小さくて、醜いものなど!」
その言葉を吐き出した瞬間、優香の意識がふらついた。
(違う……私は彼が欲しい)
どこか遠くから、かつての声が聞こえた。
「これは葵瑠衣の意志だ」
龍斗は静かに頷いた。
「なら、選択の余地を消そう」
その言葉とともに、木の根がゆっくりと蠢き始める。
「ここから虚無の神殿の壁に向かって、地球の枝を伸ばし、その槍で彼を貫いて殺すんだ」
木の根が絡みつき、鋭い槍の形を作り出す。
「君が醜いと思う、あの小さな存在を――君の手で消し去ってくれ。そして、君はアオイに戻り、僕と共に光層磁版図を完成させるんだ」
龍斗は右手にアオイの記憶、左手に地球の枝――それを、侑斗の胸へと向ける。
その時――
龍斗の左手を、一筋の細い線が貫いた。
瞬間、鋭い光が奔り、空間に亀裂が走る。
「悪いが、邪魔しに来たぞ」
その声が響いた。
「地球の大樹と話ができるのは、お前たちだけじゃない」
岩戸の向こうから、一人の少女が踏み込んできた。
手にはクリアライン・ブレイド――世界との結合を強制解除する剣。
史音が、プルームの岩戸に現れた。