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115、現在 空洞

世界中の空が正常に戻り、人々は長い悪夢からようやく目を覚まそうとしていた。

都市のビル群を照らす陽の光は柔らかく、空には青が戻っている。鳥たちは自由に羽ばたき、街の喧騒も、どこか穏やかなものへと変わっていた。


一方、荒廃した施設の中、侑斗と修一は極子連鎖機構と制御装置を残らず破壊し終えた。煙が立ち上る残骸の間を歩く二人に、史音が声を掛ける。


「修一、あの貧乳が戻ってくる前に侑斗を姉さんのいる日本に連れて帰れ」


「そりゃあ帰るが、お前はどうするんだ?」


修一が問いかけると、史音は無造作に左手を持ち上げ、人差し指で下を示した。


「まだアタシにはやることがあるからな」


史音の指し示す先には、椿優香がいた。


侑斗は思わず史音に声を掛ける。


「史音、お前も俺たちと一緒に日本に行かないか? 一応母国なんだろ?」


史音は小さく微笑んで、哀しそうに首を横に振る。その瞳は赤く潤んでいた。


「何だ、侑斗、アタシにキスされたから惚れちゃったか? アタシがいないと寂しいのか?」


その軽口に、侑斗は一瞬言葉を詰まらせる。


……そうでもない。


亜希さんには、「ちょっと話の参考にしたいから今から接吻するぞ。このことに特別な意味はないからね。私、男女の恋愛ってのがよく分からなくてさ」と言われて、照れもせず何度もされたし、澪さんには自殺を止めた後、いつもいきなり唇を重ねられた。


でも——史音の唇はとても暖かかった。


「侑斗、嬉しいけどアタシは一緒に行けない。でもな……アタシも、本当はお前たちと離れるのがすげえ寂しいんだよ」


史音はふっと息を吐き、遠くを見つめるように目を細める。


「でも、いつかきっとまた会えるさ」


そう言って、史音は侑斗の目を真っ直ぐに見た。その表情には、決意と別れの覚悟が滲んでいる。


「で、最後に頼みがある。今度出会う時まで、アタシにクリアライン・ブレイドを貸してくれ」


静かに吹き抜ける風が、瓦礫の間を流れていった——。




石段を降りるごとに、神殿の空気は次第に重く、湿り気を帯びていった。苔むした壁には古代の紋様が刻まれ、揺らぐ燭光が長い年月を経た彫刻を浮かび上がらせる。


優香は慎重に歩を進めた。地球のコアが近いためか、干渉波が多く、移送の波頭を跳ぶことはできない。

彼女の目的地、プルームの岩戸はもうすぐそこだった。


狭い入り口の奥、探していた男の姿が現れる。壁一面に絡みつく巨大な木の根、その隙間に埋もれるようにして、有城龍斗が立っていた。

彼は深い地下の暗闇にありながら、高流電子版の光を浴びて浮かび上がっていた。


「やあ、優香。やっと来てくれたね。ずっと待っていたよ」


穏やかな口調で龍斗は微笑む。


「ようやく追い詰めたよ、龍斗」


優香は冷え切った声で言い放つ。


「さあ、私から奪ったものを返しなさい」


彼女の鋭い視線が、龍斗を貫く。


「僕が奪った?」


龍斗は高電子パネルから指を離し、優香をまっすぐに見つめた。


「そんな記憶はないけどね。でも、君が欲しいもの……君の空洞を埋めるものは、確かに僕が預かっている」


次の瞬間、龍斗は右手を掲げ、指先から変数操作線を放つ。それはまるで生き物のようにしなりながら、優香へと伸びる。


「龍斗、知っているだろう? 私には他我の種はない」


「知っているよ、優香。君のことは全部知っている。君以上に」


振線が優香の胸を貫いた。

そのまま後ろの壁に絡みついた木の根へと繋がり、優香の身体を縛り上げる。


動こうとした瞬間、振線の糸が胸の穴に絡みつき、激痛とともに自由を奪った。


「やはりね、優香」


龍斗は憐れむような眼差しで彼女を見つめる。


「君はその胸の空洞を、心の穴を埋めたいと今でも強く思っている。自分に足りないものがあると強く自覚しているからこそ、その空洞ははっきりとした輪郭を持ち、君自身をそうやって封じるんだ」


「龍斗、私に返せ! それは私のものだ!」


優香は睨みつけるが、龍斗は微笑んだまま首を振る。


「もちろん返すさ。そして君には、椿優香をやめてもらう。アオイに戻るんだ」


「私のルーツ……なぜお前がそれを知っている?」


初めて優香の表情に焦りが滲む。


「知っているさ。すべてを見ていた地球自身から聞いた。地球の大樹と話ができるのは、君だけじゃない」


その言葉とともに、木の根が脈打つように震え、狭い部屋は呼び出された地球の大樹に繋がっていった。


「君が最後に僕の元へ訪れた時、君は僕がシニスのフィーネと手を組んで光層磁版図を創ろうとしていることを知った」


龍斗は静かに語り続ける。


「そして、それを知った君は僕の元を、そして女王の元も離れた。でも不思議だったよ、優香。僕の光層磁版図は、椿優香になる前に君が創ったものだ。君はそれをまるで覚えていないように振る舞い、自らが創ったはずの光層磁版図を忌み嫌い、僕と敵対した」


優香は大樹の根に貼り付けられたまま、激しく首を振る。


「龍斗? 何を言っている? 私がお前の愚かしい光層磁版図を創った? そんなはずはない!」


「やっぱり……」


龍斗は小さく息をついた。


「ここにいるのは、僕の知っているアオイじゃない。でも、僕なら君をアオイに戻せる」


優香の胸の空洞を見つめながら、彼はそう断言した。


「優香、君は最初の崩壊の時、橘侑斗に出会った。そして長時間地球の枝に触れたことにより、君を創った者の意志と繋がった。その時、その意思が君の中にある非情な合理性を否定し、それを引き剥がした」


「私を創ったものと、私は全く関係ない!」


優香は叫ぶ。


「私は自らの意志でここにいるんだよ!」


その強い否定の言葉は、ただ龍斗の聴覚をすり抜けていくだけだった——。


暗闇に包まれた地下の空間で、龍斗の声が静かに響く。


「君は自分の名前と同じように、いくつもの人格を使い分けていた。だから女王を含め、誰も君が椿優香に変わったことに気づかなかった」


木の根が絡みつく壁の向こうから、龍斗は淡々と語る。


「けれど、あの時以来――君を創った者が嫌悪したいくつかの人格が、君の中から完全に消えた。そして、自分が創った光層磁版図のことも忘れてしまった」


優香は微動だにせず、じっと龍斗を見据えていた。


「そもそも、椿優香になる前の君は、女王や葛原零のために女としての同情を示すことすらなかった。フィーネのような存在を利用し、アローンを生かしておくことにも一切躊躇しなかった。どこまでも冷静で、毅然とした人だった」


龍斗の目が優香を射抜く。


「そんな君に、僕は強く惹かれた」


その言葉に、優香の思考の隙間に微かな恐怖が芽生える。

この男は、自分の知らない自分のことを知っている。

それが、気持ち悪くて仕方がない。


「そして君は、やはり失ったものを求めてここへたどり着いた。否定され、消されたものを――君自身がここまで強く求めていた」


龍斗は、まるで愛おしむように言った。


「僕は今、とても嬉しいよ」


優香は何も言わず、唇を噛んだ。

もし龍斗の言葉が本当なら、自分はそれを受け入れるべきなのだろうか?


「これは、君が切り離した過去の人格だ」


龍斗は掌を掲げる。そこには、淡い光を宿した小さな結晶があった。


「君の人格の一部は、地球が記憶していた。そして僕はフィーネに頼み、この思考パターンをエキシマーの籠に保存した」


まるで大切な宝物を扱うかのように、龍斗はそれを指先で転がす。


「さあ、これを君に返そう。そしてアオイ――君が僕の代わりに、この光層磁版図を完成させるんだ」


木の根が脈動し、大樹の気配が部屋全体に満ちていく。


「僕はこれから地球の大樹から滅びの声を呼び起こす。そして地下のコールド・プルームを操作し、再び地上の人々に恐怖を与える。そして、君の手助けをする」


龍斗は微笑む。


「大丈夫だよ。すべて上手くいく」


その手には、優香――いや、アオイの失われた記憶があった。


「君はこれを受け入れるしかない」


龍斗の言葉は、静かで、揺るぎない。


「それとも、君の心の空洞に彼を――橘くんを取り込む方がいいのか? もう一人の君を」


その問いに、優香の目が揺れる。


「要らない! あんなもの、私は要らない!」


彼女は叫んだ。


「ベルやレイを苦しめたあんなもの! あんな小さくて、醜いものなど!」


その言葉を吐き出した瞬間、優香の意識がふらついた。


(違う……私は彼が欲しい)


どこか遠くから、かつての声が聞こえた。


「これは葵瑠衣の意志だ」


龍斗は静かに頷いた。


「なら、選択の余地を消そう」


その言葉とともに、木の根がゆっくりと蠢き始める。


「ここから虚無の神殿の壁に向かって、地球の枝を伸ばし、その槍で彼を貫いて殺すんだ」


木の根が絡みつき、鋭い槍の形を作り出す。


「君が醜いと思う、あの小さな存在を――君の手で消し去ってくれ。そして、君はアオイに戻り、僕と共に光層磁版図を完成させるんだ」


龍斗は右手にアオイの記憶、左手に地球の枝――それを、侑斗の胸へと向ける。


その時――


龍斗の左手を、一筋の細い線が貫いた。


瞬間、鋭い光が奔り、空間に亀裂が走る。


「悪いが、邪魔しに来たぞ」


その声が響いた。


「地球の大樹と話ができるのは、お前たちだけじゃない」


岩戸の向こうから、一人の少女が踏み込んできた。


手にはクリアライン・ブレイド――世界との結合を強制解除する剣。


史音が、プルームの岩戸に現れた。

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