114、現在 女王の強い力
侑斗の腕を引っ張る史音の手は、小さくても強かった。
「何やってんだ、極子連鎖機構の制御室へ行くぞ、時間がない」
彼女の言葉には焦りがにじんでいるのに、侑斗の足は動かなかった。
史音が深く溜息をつき、修一に声をかける。
「修一、悪いが先に行って、奴らが仕掛けた時限装置を外してくれ」
修一は史音と侑斗を不安げに見つめたが、すぐに軽く頷き、位相を跳んで消えた。
「なあ、侑斗。お前、あの女に連れて行かれるのが嫌なんだろ?」
史音の声が静かに問いかける。
「……わからない……でも、俺がそういう存在なら。そのためだけの存在なら……仕方ないじゃないか」
侑斗は伏し目がちに呟いた。
「史音は修一と一緒に、任務を全うしてくれ……俺のことは、もういい」
次の瞬間、史音の細い指が彼の頬を包み込んだ。さっき、優香がそうしたように。
だが、史音の手は冷たいのに温かかった。
「侑斗、よく聞け。まだ話していなかったことがある。アオイ……いや、椿優香とお前を結ぶ糸だ」
史音の赤い瞳がまっすぐに侑斗を射抜く。
「お前はもう本能で悟っている。そうだ、お前は椿優香が誕生したとき、切り離された一部だ」
侑斗の呼吸が止まる。
「アイツは不要として切り離した自分の一部が、未だ醜態を晒しているのが我慢できないんだ」
それは、突き刺さるような言葉だった。
「……不要……だから、俺が生きて呼吸してることさえ許せない。俺が、いつまで経っても消えないから……あの人は俺を憎むんだな」
思考が途切れそうになる。
そのとき、史音がスッと顔を近づけてきた。
唇が重なる。
一瞬、侑斗の意識が揺さぶられた。
「ははは、どうだ、目が覚めたか?」
史音は唇を離しながら、微かに笑う。
「アタシも一応、女だからな」
彼女の目は、冗談めかしながらも真剣だった。
「ベルにも言ったよな。アタシにはお前が必要だって。だから一緒に行こうぜ」
「……史音……」
「お前はアイツの一部じゃない。切り離されたお前は、もう十分に人として強い自我を持っている。お前の道は、お前が拓いてきたんだ」
史音は侑斗の胸を軽く拳で叩いた。
「積み重ねた記憶と、お前を想う人の意思。それは、お前だけのものだ」
侑斗は、自分が一歩を踏み出したことに気づいた。
二人が制御室へ着くと、修一は既に操作パネルを分解し、ケーブルを引き出していた。
「史音、琉菜たちが取り付けた時限装置は外したぞ。でも、ストレージ・リングの近接信管の外し方はわからない」
修一は床に仰向けになったまま、コードの間から顔を覗かせる。
「十分だ、修一。じゃあ、フィーネが言ってたエキシマーの籠の位置を調べるぞ」
史音は操作パネルを睨みつけるように見つめ、指を滑らせる。
「……この極子連鎖機構、すぐ破壊しなくていいのか?」
侑斗が問う。
「破壊するけどな。ただ破壊するだけじゃ空の白亜の呪いの狼煙は消えない」
史音は操作パネルを素早く操作し、中央のモニターを睨む。
「……見つけたぞ。奴ら、発射台をわざわざ地下に設置してる。ベルの力で外から破壊されるのを防ぐためだったんだろうが……さて、それじゃあストレージ・リングとアタシのグルーオン・ボックスを入れ替えよう」
史音が取り出したグルーオン・ボックスは、一瞬溶けたように小さくなり、灰色の靄がそれを包み込む。やがて、それはストレージ・リングと同じ形に変わった。
「ベルの力で、ストレージ・リングとアタシのグルーオン・ボックスの存在確立を同列にした」
史音はそれを持ち上げ、エキシマーの籠へと慎重にセットする。
床に転がるストレージ・リングを見下ろしながら、史音が侑斗を振り返る。
「侑斗、クリアライン・ブレイドでそいつを破壊しろ」
侑斗は剣を握り、ためらいながらも振り下ろした。
クリアライン・ブレイドは、優香の残り香を感じさせるようで、気味が悪い。
「史音、外した時限装置のケーブルを繋げば、そのまま発射できるぞ」
修一が手にしたケーブルを掲げる。
「ほう」
史音の唇がわずかに弧を描く。
「さて、それじゃあ……」
ボタンを押すと、轟音が鳴り響き、エキシマーの籠が空へ向かって打ち上げられた。
同時に、地上でそれを待っていたベルティーナが、カーディナル・アイズの力でそれを包み込む。
青い空に、強大な力が収束していく。
「史音、よくやってくれました。あとは私が引き受けます」
ベルティーナの冷静な声が響く。高度まで上昇したエキシマーの籠は、フィーネの意思により幻無碍捜索を開始した。数分のうちにその標的を捉え、グルーオン・ボックスを開放する。
「強い力を生み出すグルーオンは、クオークを結びつけるボーズ粒子。その結びつきは、物質の質量のほとんどを形成するほど強力だ。核子の内部ではクオークは自由に動けるが、強い力の届く範囲を超えて離れようとすればするほど、力は逆に増大する」
ベルティーナの視線が鋭さを増す。彼女の意識と共鳴するように、空間が歪み始める。
「その特性を利用し、ベルの差時間でクオークをプランク時間単位まで切り分け、極限まで引き離す。そして、差時間を解かれた瞬間、クオーク同士が強い力で引き寄せられ、結びハドロンを構成する。その連鎖が、空間にある全てのものへと波及し、やがて不存在を駆逐する。強い力の存在力の名残は何万年に渡って残る。これでもう幻無碍捜索は無効だ。シニスが作り出した空の呪いの狼煙の転写システムも、完全に消える」
ベルティーナがグルーオン・ボックスに封じられた差時間の膜を解いた瞬間、空に小さな光が灯る。その光は点滅を繰り返し、徐々に広がっていった。やがて、空の呪いの狼煙の帯の中心にぽっかりと穴が開く。それはゆっくりと、しかし確実に、全てを飲み込むように消滅していく。
地上では、世界中の人々が空を見上げていた。目の前で起こる異変を、誰もが固唾を呑んで見守る。そして――
見えない糸が、ふっと途切れた。
世界中の人々を縛りつけていた”他我の種”を操る呪縛が、完全に断ち切られたのだ。