111、現在 虚無の神殿
壁を通り抜けた三人の前には、広大な地下神殿が広がっていた。天井と床一面に、無数の黒い点がまるで虫の群れのように蠢いている。長い回廊が、さらに深淵へと続いている。
三人が足を進めると、羽虫のような黒い霧が彼らに襲いかかってきた。修一に抱えられた侑斗は、その様子を黙って見つめている。黒い霧は史音の手前まで迫ると、勢いを失い、ボロボロと床に落ちていった。
「これは、私たちの動きを止めるための量子虫だ。波動関数で記述される世界から無限に湧き出し、触れた物質の性質をエネルギー順位の低いものに変える。こんなものまで造っていたとはな」
もし、こんなものが世界中に撒かれたら、対処のしようがなかっただろう。史音が壁に穴を開けたことにより、三人の周りには神殿の外から位置を捉えた、ベルティーナの真空の瞳で囲まれている。しかし、量子虫の何匹かは、そのカーテンを乗り越えて侵入してくる。
「トンネル効果か。ベルの結界でも、通り抜ける確率がゼロではないからな。修一、頼む」
修一は侑斗を抱えたまま、クリアライン・ブレイドの刀身を発現させ、量子虫を切り裂く。クリアライン・ブレイドによって世界との接続を断たれた量子虫は、一瞬で消えていく。それを繰り返しながら、三人はさらに奥へと進んでいった。
神殿の回廊は、巨大な部屋の外周に沿って下へと続いている。史音は下方にいくつもの人工物が配置されているのを視認した。その階の床に三人は降り立つ。そこには高さが3メートルほどの球体が、数メートル間隔で並んでいた。教団によって作られた人工物であることは、そのメカニカルな外観から明らかだった。表面には複数の操作パネルや巨大なモニターが取り付けられているが、稼働している様子はない。
「それらはもう用済みの機械だからね。今はただの墓標として置かれているのよ」
真っ白な着衣を纏った少女が、球体と球体の間から姿を現した。
「琉菜か。他の教団の奴らは?枝の神子たちは?信者たちはどこにいる?」
その幼い顔立ちの少女は顎をしゃくって合図を送る。すると、さらに球体の間から真っ白な衣装をまとった男女が姿を現す。年齢も性別もまちまちで、それは10人ほどの枝の神子たちだった。
「クルンにボルテ、マーサ、浅香、蝶理、リビモ……どいつもアローン並みの無分別な奴らばかりだな。もう分かっているだろうが、お前たちの中で最強だったセージは手を引いた。お前たちに勝ち目はない。その後ろにある極子連鎖機構まで行かせてもらうぞ」
史音は枝の神子たちを睨み据えて言い放つ。
「セージが時間を稼いでくれたおかげで、極子連鎖機構はもう起動を始めているわ。この球体の背後にそれはある。ストレージ・リングは私たちの誰かが起動スイッチを入れれば、すぐに空の太陽の鞘に向かって発射される。最低でも10の地球が破壊されるわ。それで在城龍斗の光層磁版図はほぼ完成するの。あなたたちは間に合わなかったのよ」
琉菜と呼ばれた少女が史音を嘲笑するように言い切る。どうにか意識を保っている侑斗には、その姿が酷く醜く見えた。
「琉菜、ここに大量にいたはずの信者たちはどうした?それから、この墓標とお前が言う球体は何だ?」
低く冷たい声で史音が尋ねる。
「どうしたの?史音、天才少女なんだから分かるでしょう?これは滅んでいった地球の墓標よ。それぞれの球体の中央にあるモニターには、滅んでいく地球の断末魔が可視化されて映し出されたの。他の地球の人々が苦しんで死んでいく。それを見た教団の信者たちは狂喜した。圧倒的な力で世界を破滅させる教団の力に酔いしれ、己がその力を行使したかのように教団に入信し、この地球の世界中で信者を増やした。だからあの愚か者たちはもうここにはいない。まあ、中にはその光景から目を背ける軟弱者もいたけど、そいつらは私が量子虫で殺した。こうやって私のこの手に纏わりつかせた黒い霧で胸を貫いて殺したのよ」
琉菜は自らの腕に量子虫を纏わせる。
「最低だな、お前も。他人の苦しみを喜びとして世界に教団の教義を広めていった糞信者も。修一、この墓標とやらの球体をクリアライン・ブレイドでこの世界から消せ!そして、もう人でないここにいる枝の御子たちも世界から退場させろ!」
修一はクリアライン・ブレイドをまず球体に向ける。光が真一文字に走り、まずその中心に亀裂が走ると、その中に吸い込まれるように球体が萎んでいく。
その力に琉菜と他の枝の御子たちが頬を歪める。
そして、少し間をおいて琉菜が指図すると、周囲にいた枝の御子たちが波頭を跳ぶように散らばった。
「今、ストレージ・リングの起動スイッチを持った仲間たちが全員、地球の墓標に散ったわ。修一の剣が一度に複数の対象を切り裂けないことは、セージとの戦いを見て知っているの。史音、まずあなたが女王の力を切り離しなさい。修一はその剣を捨てるのよ。そうすれば、私が極子連鎖機構を止めてあげる。さっさとしなさい。早くしないと、在城龍斗の光層磁版図が完成してしまうわよ」
衰えた意識の中で、侑斗は思った。もしクリスタル・ソオドが使えたなら、一瞬でこの部屋の地球の墓標と枝の御子たちを消し去ることができる。セージはああ言ったが、やはり偶然は不平等で理不尽だ。
「……」
史音は押し黙り、カーディナル・アイズの結界を解いた。修一もそれに倣い、刀身を収めたクリアライン・ブレイドを床に捨てる。
「さすがは史音、決断が早くて助かるわ。さあ、こちらにいらっしゃい。ようやくこの時が来た。私はね、ずっと待っていたの。この手であなたの胸を貫く瞬間を、ずっとね」
史音は一瞬だけ瞳を閉じ、ゆっくりと琉菜の方へ歩き出す。
「……史音……」
修一が言葉をかける。侑斗も残っている力を振り絞ってクリスタル・ソオドに呼びかけるが、失ったエネルギーは戻らない。
「琉菜、一応忠告しておいてやる。侑斗を殺したら、ベルも葛原澪もこの地球ごとお前を殺すぞ」
ここで自分が死んでも、アオイ、椿優香が状況を覆す可能性に賭けるしかない。史音はそう判断した。
琉菜は蹲った侑斗を見つめ、明るく高い声を出す。
「もちろん、彼の利用価値は計り知れない。ずっと大切にしてあげる」
侑斗のぼやけた視界に、琉菜の表情が見えてくる。可愛らしくて無邪気で純粋な顔だ。氷のように冷たく、炎のように周囲を焼き尽くす美しい顔だ。
「さよなら、史音。私はあなたが大嫌いだった。だから今、とても嬉しい」
「光栄だな。私もお前がアローンと同じくらい大嫌いだったよ」
量子虫を纏った琉菜の手刀が史音の胸に突き刺さろうとする瞬間、苦悶の叫びをあげたのは琉菜の方だった。琉菜の胸が背後から突き破られ、貫いた者の腕が史音の眼前に姿を現した。
「……は……あ……何で?」
白目をむいて琉菜が絶命する。史音はまず優香の仕業を疑った。だが、あの女はこんなやり方を好まない。
「待っていたのはお前だけではないよ。哀れな傀儡。自分自身の傀儡。今、お前の大きくて醜い他我の種ごと心臓を貫いた。お前たちが私に向ける監視を緩める時をずっと待っていた。在城龍斗の光層磁版図は創らせないよ」
無表情のフィーネは、琉菜の血に染まった自分の左手を払った。