109、現在 運命の不在
虚無の神殿を遠くから見守るベルティーナの上空を、灰色の濃淡が脈動しながら西から東へと流れていく。まるで天が波打つように、静かに、しかし確実に。
ベルティーナは胸の奥にざわめく感覚を覚えた。これはトキヤがシニスのダークを倒す前、先代の枝の御子たちがシニスを具現化した時の前兆と同じだ。忌まわしい記憶が、複素演斬体を通じて身体中を駆け巡る。再び、あの悪夢がクァンタム・ワールドのすべての地球を覆うのか――。
彼女は静かに息を整えながら、秘めた存在力を解放する。赤のサイクル・リングが輝き、力が一層高まるのを感じた。
(史音の計画は完遂できないが、最悪、史音たち三人を除く虚無の神殿一帯を抹消するしかない……)
差時間の渦で包み込み、存在ごと消し去る。それで、ひとまずシニスの胎動を封じることはできる。しかし、発現したシニスがどのように他の地球を滅ぼすのか、その全容は未だに掴めていなかった。
史音と話し合った結果、このステッラの地球と他の地球をつなぐ存在を、成起創造まで巻き戻して初めから無かったことにするのではないか――そんな予測に至った。
そしてトキヤの言う宇宙果てからの叫びも気になる。
だが、時間がない。
ベルティーナは決断し、肉体から存在力と共に意識を飛ばす準備に入る。
「待つんだよ、ベル」
突然、背後から爽やかな風が吹き抜けるとともに、優香の声が響いた。
ベルティーナの右肩に、彼女の温かくも力強い手が置かれる。
「優香!来てくれたのですね。でも、状況は切迫しています。私はいつでも手を打てるよう準備をしなければ……」
ベルティーナは一旦、意識を肉体へ戻す。しかし、その瞬間、優香の手が彼女の肩を強く引き寄せた。
「今、セージから連絡が入った。史音たちがセージの最後の障壁を打ち破ったと」
ベルティーナは目を見開く。
「……セージが?」
有城龍斗のもとへ走った枝の御子の中でも、最強の力を持つセージ。
優香が彼と接触していたことは、驚きではなかった。だが、バランサーとしてすべてを俯瞰できるセージが、ここまでの事態を想定していたとすれば、優香との繋がりもまた必然だったのかもしれない。
「史音たちが自らの力で最終障壁を打ち破れたら、セージは手を引く。そう私に約束をした」
ベルティーナは眉をひそめる。
「ベル、君が荒城トキヤと知己だったのは幸運だった」
優香の声が少し低くなる。
「彼はトキヤから受け取ったクリアライン・ブレイドを世界に結合させることに成功したらしい。セージが手を引き、残った枝の神子たちの知成力では、世界との結合を強制的に外すクリアライン・ブレイドに対抗できない。今の状況では、レイが彼に与えたクリスタル・ソオドよりも、その力ははるかに有効で、圧倒的だ」
ベルティーナは無意識に手を握りしめる。
「フィーネの光層磁版図にとっても、ダークを倒したクリアライン・ブレイドの存在は脅威だろう。これは私にとっても、史音にとっても予測できなかった偶然が生んだ幸運だ」
そして、ダークと、それに連なるシニス、そしてそれを画策するフィーネにとっては、不運以外の何物でもない。
ベルティーナは天を仰ぐ。
灰色の脈動が、先ほどまでの禍々しい気配を薄れさせつつあった。
「私がトキヤと知己だったこと、彼がクリアライン・ブレイドを創ったこと……これは、そうなる運命だったのでしょうか?」
彼女は優香の瞳を覗き込む。
「何者かの意思が、この状況をあらかじめ画策していたのでしょうか?」
完全には納得できないベルティーナは、優香の秘められた思惑を探るように問いかけた。
しかし、優香は口元にわずかに笑みを浮かべるだけだった。
「ベル、運命なんて存在しない」
静かに、しかしはっきりとした口調だった。
「この揺れ動く不安定な世界では、シュレーディンガーの波動関数が、ハイゼンベルクの不確定性原理が、神にサイコロを振らせる。混沌の中から、己の望む確率を世界に連結させた者が、道を創るのさ」
ベルティーナは息をのむ。
「だが、偶然が私たちに味方をしたのは事実だ」
優香の言葉が終わると同時に、上空を覆っていたシニスの気配が、さらに薄くなっていくのが感じられた。
「まあ、後は史音と私が何とかする。ベルは現状の結界を張っていてくれればいい」
優香は、ふっと肩の力を抜いた。
「そして私は、自分の光層磁版図を完成させようとする龍斗を止める。だからベル、今は何もせず史音の指示待っていて。そして、今度こそ彼を私たちの元へ連れてこよう」
そう言うと、優香は軽やかに波頭を跳び、虚無の神殿へ向かっていく。
運命は存在しない。
ならば、ベルティーナと優香、史音との出会いも、ただの偶然だったのだろうか?
存在確率を操作できる優香の意志は、ベルティーナの想像を超えて強い。この地球に来てから――最初は葵瑠衣として、そして今は椿優香として、彼女はいつも傍にいた。
今まで考えようとしなかったが、椿優香の目的とは何なのか?
だが、そんな疑念を抱きながらも、彼女を信頼してしまう自分がいる。
そのことに、ベルティーナは自ら不思議に思った。