108、現在 確率の保存則
修一とセージの戦いは、まるで果てしない闘争のように続いていた。天井と床の間で、二人の身体が無重力のように揺れ動く。どちらも一歩も引かず、まるで物理法則が無視されているかのようだった。
セージの冷徹な声が響く。「修一くん、流石ですね。僕の知成力は元々君より強いし、さらに壁の向こうから他の枝の御子たちの力を借りている。だけど、君は少しも後れを取らず、ここまで僕を追い詰めるとは。しかも、これだけ確率振幅を操作して最終障壁に流しても、君が残したマーキングを外せないとは…」
セージの一撃が修一の右肩を捉える。衝撃で修一の身体が一瞬で実在を入れ替えるが、その一撃の余波が肩に残り、顔に痛みを浮かべる。修一はわずかに後退し、押され始めた。その足元には、見えない力で揺れる地面の振動が感じられた。
侑斗はその戦闘を空中から見守りながら、四方から飛んでくる様々な物体を薙ぎ払っていた。鋭い風音が耳に届く中、彼の視線は背後で動く史音に向かう。
「史音、修一のマーキングって何だ?それに、修一が押されている。どうにかしなきゃ!」
史音はその声に応えず、ただ壁に向かって両手を動かし続けていた。その手の動きはまるで職人のように速く、精緻だ。細かく何かを流し込んでいるようだが、彼女の顔には集中の色が強く浮かんでいた。女王の瞳の力を使って壁を打破しようとしているのだろうか?
「おい、史音!」侑斗は声をかけたが、彼女は答えず、ただ無言で作業を続けていた。しかし、その動きからは確かな意図が感じ取れる。
「侑斗、アタシは今集中してるんだ。話しかけないで。だが、まぁ、少しだけ話すから聞いておけ。知成力は、あくまでも実在する可能性のあるものしかメゾ状態に創り出せない。世界と連結する可能性があるものしか、実現し得ないんだ。それはエネルギー保存則と同じだ。無から有は創り出せない。どれだけ確率を操作しようと、ユニタリティーの限界を超えて、確率の保存則は変わらない。修一が現実に付けたマーキング、その実在する可能性は、どんな方法でも否定されない。」
侑斗はその話に少し混乱しながらも、彼女の言葉を耳にし、心の中で反芻した。世界と連結する実在?シュレーディンガーの猫の生死が世界に連結された結果だということか?
「アタシはもうすぐ、この壁に穴をあけられる。でも、修一が世界に付けたマーキングを指し示してくれないと、あの先に進めない。向かうべきクァンタム・セルの窓を決める角度が定まらないんだ。あちら側に向かう微妙な角度がな。」史音の声が、冷徹に響く。
その瞬間、修一は後方に吹き飛ばされ、セージの蹴りが修一の腹部に命中する。衝撃が走り、修一はギリギリで実在を入れ替えるが、肉体には深いダメージが残り、顔に苦悶の表情が浮かぶ。修一はその痛みを抱えながらも、立ち上がり、セージを見据える。
「強いな、セージ。お前は本当に何事にもバランスを重んじる男だった。だが、何故、有城龍斗と組んだんだ?あの男は一方的な力で殺戮を繰り返す奴だ。それでもお前は、あんな浅い世界設計図に乗ったのか?」
セージは距離を置きながら、短く言った。「私はバランスをとっている。ただし、アオイの光層磁版図も、君達の女王ベルティーナの莫大な力も、そして史音の知力も、結局は偏っているんだ。それに、葛原零のように龍斗と敵対しないと約束した者もいるが、最終的には君達に味方した。それに、橘侑斗君…君という存在が、何よりも不公平だ。」
セージは静かに手を伸ばし、背後から白いリングを取り出した。リングは直径50cmほどで、その中を一筋の光が走っている。光の軌跡が、まるで時空の裂け目を引き裂くかのように細長く伸びる。
修一はそのリングを見て、戸惑いの表情を浮かべた。「セージ、それは一体何だ?」
セージはそのリングを掴むことなく、ただ宙に浮かべたままだ。「これはストレージ・リングです。太陽の鞘を破壊して回っているのと同じものですよ」
リングの周囲では、高速の素粒子がセージの意志に呼応して周囲の空間を歪ませていく。その歪みは目に見えないが、空気の流れが乱れ、まるで見えない壁が現れるようだった。
「特殊相対性理論による時空の操作です。今、周囲の現実の中心にこれを置きます。本来、短命な粒子に流れる時間を、世界の起点にするのです。」
修一はそれをじっと見つめ、疑念の表情を浮かべながら言った。「まやかしだ。時を認識しない素粒子が、時空に歪みを作れるものか。」
セージは微かに笑い、ストレージ・リングを頭上に持ち上げた。「時空に歪みを作ることはありません。確かに。しかし、君も私も、脳のシナプスを使って思考回路のパターンを創っています。高速の素粒子が作り出す電磁場は、君の思考に影響を与えるのです。」
その言葉が耳に届いた瞬間、侑斗の視線が修一の動きに集中する。突如、修一の動きが止まった。それに合わせて、セージの動きも静止した。
「史音、あの女みたいな奴が特殊相対性理論のローレンツ変換を使って、ストレージ・リングから周囲の空間に広げ、修一の思考パターンの流れを遅くしようとしてるみたいだ。」侑斗は冷静に言ったが、内心では疑問を抱えていた。相対性理論では、存在する個々のものが独立しているはずだ。そんなことが可能だろうか?
「だから、話しかけるなって言ってるだろ。修一がそんな戯言を真に受けるわけがないだろう。」史音は一瞬、修一の方を見てから冷たく言った。
「くそ…あれはセージの暗示だ。戦闘の隙間を突いて、アイツの知成力で修一の思考パターンを探り、その流れを止めたんだ。こんなことで間に合うわけがない…」史音の顔には焦りの色が浮かぶ。
「でも、もうすぐ作業は終わる。あとは、あの穴に飛び込むしかない。でも、壁の向こうに辿り着ける確率は限りなく低い…」
修一が動きを止めたまま、セージはゆっくりとその元へと近づいていく。その手のひらに浮かぶストレージ・リングが、光を放ちながら振り下ろされる運命を予感させる。
侑斗は、腰のクリスタル・ソオドをぎゅっと握りしめた。これでは修一を救うことはできない。万の可能性を切り裂くその剣は、全てを対消滅させる真空にする力を持っている。しかもこれは優斗しか使えない。しかし、そうだ…あの剣だ。
『お前の剣が使えなくなったら、これを使え』トキヤの言葉が脳裏をよぎる。箔花月の森を出た後、腰に差していたはずのあの剣は、もう消えていた。まるで存在しない確率の海に溶けて消えたかのように。
侑斗は一瞬だけ静止し、クリスタル・ソオドを左手に持ち代える。そして右腕で、眠っている青のサイクル・リングに声をかける。「いい加減に役に立て、そうしないと右腕ごとお前を切り落とすぞ」
「侑斗!敵の攻撃は終わっていない!剣を持ち換えて腕を切り落とすだなんて、馬鹿なこと言ってる場合じゃない!」史音が叫ぶ。その声が侑斗の耳を突き刺すが、彼の目はすでに決まっていた。
「このままじゃ、修一が死んじゃうだろう。修一には返しきれない恩があるんだ。」
たとえ、それが姉の零のためだとしても。
その瞬間、青のサイクル・リングが輝き始める。強烈なエネルギーが溢れ出し、確率振幅の海に溶けていたクリアライン・ブレイドが姿を現す。保存された確率が侑斗の知成力によって世界と連結される。
侑斗はその力を一気に引き出し、右手でクリアライン・ブレイドを掴む。そして、それを修一に向かって投げる。修一がそれを受け取る瞬間をイメージし、剣はまるで侑斗の思い通りに、修一の右手にぴたりと合った。
その瞬間、止まっていた修一が動き出す。そして、振り下ろされようとしていたストレージ・リングに向けて、クリアライン・ブレイドを強く打ちつけた。
リングは粉々に砕け、その切っ先が向かった空間を、シニスに覆われた激しい力で切り裂いていく。セージはその様子を目の当たりにし、驚愕の表情を浮かべる。大きく後退しながら呟いた。
「まさか、あの剣が…どうしてこんなものがここに…」
セージは敗北を悟り、肩を落とした。
作業を終えた史音が、侑斗に向かって言う。「侑斗、今お前が発現した剣は、もしかして?」
「トキヤさんから貰った、クリアライン・ブレイドだ。何とか俺の力で実在化させた。」
サイクル・リングの力を引き出しすぎたせいで、侑斗の体力は著しく消耗していた。しかし、クリアライン・ブレイドの力は、それを補うかのように修一の手の中で輝きを放っていた。
「そうか、あれが最初の地球の大樹を切り倒した、荒城トキヤのクリアライン・ブレイドか…」
侑斗もその剣の力を理解した。斗紀也から譲り受けたその剣は、強制的に対象物と世界との連結を切り離す力を持っていた。実在を切り裂く、伝説の剣。