107、現在 遠い障壁
舟を降りた岸辺の反対側には、分厚い石壁がそそり立っていた。堅牢なその壁は、まるで古代の遺跡のように冷たく、どこにも入り口らしきものは見当たらない。厚さがどれほどか、目で測ることさえできないその壁が、ただただ視界を遮っていた。
史音は無言で歩き出す。彼女の足音が岸辺の静寂を破るたびに、空気が微かに揺れるように感じる。彼女は壁を端から端まで、まるで何かを探し出すかのようにゆっくりと歩き、その冷たい石に手を触れる。手のひらが壁に接するたび、微かな振動が伝わり、空気が張り詰めていく。
「修一くん、私と同じ力を持つ君は、もう自分が勝てない事を、その先を見ているでしょう?」
その言葉に、修一は静かに目を伏せる。その目の奥に、過去の闘いと重なる記憶が浮かんでいるのだろうか。
「…セージ、お前にはそれが見えているのか。俺に何も見えていないものが」
その時、侑人はふと視線を上げる。いつの間にか、修一とセージの身体は舟の上から浮かび上がり、空中で静止していた。彼らの姿はまるで幽霊船のように不安定で、空間に溶け込んでいく。彼らの動きが小刻みに揺れ、まるで空間そのものが歪んでいるかのように感じる。
侑人は再び意識を集中させ、目を細める。その視線の先で、二人はまるでボクシングのように殴り合っていた。一見、相手の拳が顔を捉え、吹き飛ばしたように見えるが、次の瞬間、二人は涼しい顔をしてその隣に現れる。まるで二人の分身がその度に入れ替わっているようだ。あたかもその戦闘が、実在の枠を超えた異次元で行われているかのようだった。
「あれが枝の御子同士の純粋な戦闘だ。相撃といって、相手の実在を砕く闘いだ。普通の人間なら、あの一撃を浴びただけで消え去っている。修一もセージも受けたダメージを、存在しない現実に置き換えて、新たに実在を創り直す。枝の神子の中でも戦闘については筆頭と言われるあの二人の闘いは、果てが無い。」
史音が背後の壁に触れながら語るその声は、空気の密度を一層重くする。
「だが、セージは背後から他の枝の神子の知成力を取り込んでいる。修一は不利だ。そして修一が居なければ、アタシたちは先へ進めない」
史音の言葉に、侑人は胸の中で思いを巡らせる。修一を助けるために自分ができることは何か。だが、その思考を打ち砕くように、彼女は静かに続けた。
「史音、俺が修一をこの剣で援護しようか?」
侑人が声をかけると、史音は無表情で答える。
「お前の剣は万の可能性を切り裂く。あの二人の闘いに介入したら、どんな結果になるか見当もつかない。それにお前が手出ししなければセージは約束を守るだろう。あちらはとりあえず修一に任せておけ。お前には別にやってもらいたい事がある」
史音が何かを探し続けている様子を見守りながら、侑人は空中で繰り広げられる修一とセージの戦闘に目を向けた。修一が少し押され気味であることが、彼の表情から窺える。その度に侑人の胸は高鳴り、何もできないことに焦燥を感じていた。
「侑人、この壁の厚さはほんの1メートルほどだが、教団の枝の御子達によって進んだ瞬間に、別の可能性の外側に飛ばされてしまう。下手すりゃ月の裏側に飛ばされるかもしれない。すぐそこに完成間近の極子連鎖機構があるんだがな……ああ、お前の剣を使ってもダメだ。奴らはそれさえ別の可能性に飛ばしてしまう。切り裂く対象を飛ばしてしまう。対策済みという訳だ」
背を向けたまま、史音は百花月の森で作成した位相移動装置を取り出し、分解を始める。その手の動きが早く、見ている侑人は思わず息を呑む。10分ほどで装置が組み直される。
「さて、アタシは今からベルの差時間の結界を解く。そして真空の瞳の力で、この壁の中に強制的に存在力を流し込んで道を拓く。それでも、最後は修一の力が無いとこの1メートルの壁は超えられない。目的地は修一に定めてもらうしかない」
その言葉が終わるや否や、突然、空から黒い物体、刃が幾つも降ってきた。侑人はそれに気づくと、すぐさま短剣を抜き、素早く薙ぎ払う。鋭い刃が空中で閃き、物体が粉々に砕け散る。
「ベルの結界が外されたらこういう事になるんだ。虚無の神殿に入った時からずっと奴らはアタシ達を攻撃していたんだよ。侑人、カーディナル・アイズの結界が無かったらアタシ達は、この世からいろんな意味で存在を消される。だからアンタには、アタシが作業している間、盾としてアタシを守って欲しい。全部終わって上手くいったら、何でも言う事を聞いてやるよ。ベルや修一の姉さん、アオイ、面倒臭い強敵がいるが、アタシが一生アンタの面倒を見てやる」
侑人はその言葉に内心、複雑な気持ちを抱きながらも、降り注ぐ敵の攻撃に短剣を振るい続けた。鋭い刃が次々と物体を切り裂き、戦場の中で彼の動きは止まることを知らなかった。