106、現在 道を捉える者
虚無の神殿は、静寂と暗闇に包まれていた。
石の冷たさが足元を重く感じさせる。湿気を含んだ石畳が微かに光を反射し、足音が静寂の中でひときわ響く。史音、修一、侑人の三人は慎重に歩を進めていた。天井は高く、まるで息を呑むように深く、無限に続くかのような感覚を与える。わずかなオレンジ色の光が古びた壁を淡く照らし、その光源は遠く、奥の方に見え隠れしている。そのため、天井に投げかけられた影は、まるで生き物のようにうねり、無意識に視線を引き寄せた。
空気は異様に重く、古びた黴と埃の混じった臭気が鼻腔を突き刺す。時間が止まったかのようなこの空間に、心の中で不安が芽生える。
突然、前方から湿った風が流れ込んできた。生温かく、湿った風が侑人の頬を撫で、思わず顔をしかめた。神殿に足を踏み入れてから、すでに二百メートルは進んだ。しかし、周囲の景色は一向に変わらない。淡い光が同じように石の壁を照らし続け、空間には変化の兆しが見えない。時間さえも止まっているかのようだ。
「修一……どうにもならないか?」
史音が小声で言葉を投げかける。その表情は薄明かりの中で判然としないが、声の奥に感じる不安は隠しきれない。修一はじっと前方を見据え、何かを探るように姿勢を正した。
「ギリギリ作れるのは、この道一本だ。ただし、奴らに気づかれたら、俺たちの行く手はさらに阻まれるだろう。」
侑人は二人の会話に耳を傾けながらも、何を言っているのか理解できなかった。じれったさを感じつつも、黙って前方に目を向ける。すると、ゆっくりと視界に異様なものが浮かび上がる。沼だ。巨大で、奥行きがまるで分からない。水面は静まり返り、不気味に鏡のように周囲を反射している。薄い波紋が立ち、その光が歪む様子が、まるで時間を歪めているかのように見えた。
なぜ地下神殿の奥深くに、こんなものが存在するのか。疑問が浮かぶ。
沼のほとりに小さな舟が浮かんでおり、その前に立っている人物が一人。長い髪を風に揺らし、細身のシルエットは女性のように見えるが、声を聞いた瞬間、その印象は一変する。
「セージ……お前が出てきたか。ようやく気づいたようだが、少し遅すぎたんじゃないか?」
史音の呼びかけに、その人物は静かに一歩前へと出た。
「遅すぎたのは確かですが、まだ手遅れというわけではありません。史音、あなたは私たちが修一くんの真の力に気づいたことを分かっているのでしょう?」
低く響く声。それは間違いなく男の声だった。
「バレちまったか。」
史音はセージと呼ばれる男に問いかける。二人のやり取りに、侑人はますます疎外感を覚える。
「史音、出来れば現状を説明してくれないか?」
侑人が声を上げると、史音は軽く息を吐きながら言った。
「お前をこの旅に組み込んだ意味。べルティーナが頼んだからだと思っていたが、そうじゃなかった。アタシも途中で気づいたけれど、それを認めたくなかった。もしそれを話すと、アンタが私たちと一緒に旅をするのをやめてしまうんじゃないかと思って……怖くて話せなかった。不思議だな。あんなに他人を偽るのが嫌だった私が、こんな風になるなんて。」
史音は視線を落とし、しばらく黙った後、声を小さくした。
「美沙からの連絡で理解した。おまえをこの旅に組み込んだ、全てを計画したのは椿優香だ。」
「史音。これから私はあなた方を最後の障壁の手前まで案内します。よろしければ、船の上で彼に話していなかったことを伝えなさい。彼がそれを知らないのは不公平です。」
セージは静かに、しかし決然とした口調で促した。
史音はセージを睨みつける。
「道を閉ざしておいてアタシたちをどこへ案内するつもりだ?」
「私はあなた達に最後のチャンスを与えます。物理的には、虚無の神殿内部の入口の手前です。」
穏やかな声が響く。侑人は、その声音に不意に驚く。枝の神子たちの中に、こんな表情をする者がいることに。
「どうせそこには無限回廊が待っているんだろう?セージ。だが、まあ……その最後の入り口の手前までは案内してもらおうか。」
史音が静かな笑みを浮かべながら言う。セージは一言も発せず、黙って頷いた。
史音は固く唇を結び、無言で舟へ乗り込む。修一もそれに続く。侑人は足を止め、セージをじっと見つめた。
「侑人、もう戻るべき道はない。そもそも修一の力が使えなきゃ私たちはどこにも行けない。お願いだから……私が知っていることは全部話すから、一緒に来てくれ。」
史音の真剣な声が、侑人の胸に響く。
侑人は肩をすくめると、無言で舟に乗り込む。
「悪いな、侑人。感謝する。」
史音の声には、どこか沈んだ響きがあった。
「史音はいつでも最良の選択をすることは分かっている。こんな俺でも役に立つなら、それに従う。史音が俺に求めることを、やれる範囲でやる……理由は求めない。」
彼女が教えてくれることで、自分の意思が揺らぐのが怖い。知らなくてもいいことなら、知らなくてもいい。
「侑人……私は嘘をつくのが嫌いだ。黙って誰かを利用するのも同じだ。でも、今回の旅の目的は、決して失敗の許されないものだ。だから、地上の極子連鎖機構を破壊した後、すべてを話すつもりだった。」
史音は修一を見た。修一は黙って頷く。
「侑人、今まで脈楼の谷やフライ・バーニア、百花月の森……いくつもの難所を乗り越えてきた。」
海上の幽霊船も……。
侑人はそれを口にせず、ただ史音の言葉に耳を傾けた。
「さて、今、この虚無の神殿で、アタシたちの目的地は残った枝の神子たちによって、振出に戻ったくらい遠のいた。」
史音は静かに息を吐き、ゆったりと舵を操るセージの姿を見つめた。船の微かな軋みが、虚無の静寂にかすかに響く。セージは口元に微笑を浮かべ、侑人と史音を順に見つめる。
「どういうことだ?」
侑人は不安を覚えた。言いようのない焦燥感が胸の奥でざわめき、皮膚を粟立たせる。理屈では説明できない未知の恐怖を、彼は必死に押し殺した。
史音は僅かに間を取り、ゆっくりと言葉を紡いだ。
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「アタシたち三人の役割は、それぞれ決まっていた。アタシは旅路における対抗法を考え、進むべき道を計算する役目。修一はアタシの盾として、敵の攻撃からアタシを守る戦闘要員。そして、侑人、お前はベルと修一の姉さんの急所——奴らの目を引き、予測不能な行動でかき乱す役割だ」
静かな沼のほとりで、史音の声がゆっくりと響いた。周囲は、ひんやりとした空気に包まれている。どこか冷たい風が枝を揺らし、その音が無機質に響いている。少しの間、彼女は黙って視線を下に落とし、言葉を待った。その背中には、決意の影が忍び寄っていた。
「だが今、アタシたちは残った枝の神子たちによって道を塞がれた。奴らは知成力を操り、実在すらも支配する。つまり、アタシたちの行く先を波動関数によって操作し、都合の悪い道を創り出して妨害できる。そして実際、奴らは今までもそうしてきた。でも——それでもアタシたちは迷うことなくここまで来ることができた。なぜか分かるか?」
修一は目の前の沼の反射をじっと見つめ、視線を逸らした。その拳が、ぎゅっと握りしめられ、微かな震えを感じ取れる。どこかで自分を奮い立たせるように。
「修一くんが特殊な力を持っているからですよ、橘侑人くん」
セージの穏やかな声が、無音の中でゆっくりと響いた。沼の静けさにその声が溶け込み、ひとしきりの間、侑人の耳に残る。セージの顔には変わらぬ微笑みが浮かんでいるが、その目にはどこか遠い場所を見つめるような色があった。
「修一くんは確かに枝の神子の一人ですが、葛原零の弟でもある。彼女に弟として選ばれた彼は、揺れ動く現実の中に道を捉える力、マーキング能力を持っている。最初に定めた初期状態を状態の崩壊から守り続ける。その力を使い、修一くんここまでの道を切り開いてきた。フライ・バーニアで紫苑が目覚めたのも、修一君の力です。彼には変化を巻き戻す力がある」
侑人はその言葉を聞きながら、フライ・バーニアでの出来事を思い返す。紫苑が突然改心した瞬間、あまりにも唐突で不自然だった。その時、何かが起こった気がしていた。それは——修一が他我の糸を断ち切ったからなのか。
「そして、侑人。フライ・バーニアでお前が見せた力に、奴らは注目せざるを得なかった。ベルとお前はサイクル・リングで繋がっている。そして、修一の姉——葛原零の力も、お前を器として引き出せる。つまり、お前の存在は予測不能な目隠しとして最適だった。優香の計画にとってな」
史音の言葉は、侑人の心の中に静かな波紋を広げていった。彼の存在が、計画において予測不可能な要素となり、それが何かしらの形で利用されているという事実。それが、彼にとっての重圧となり、同時に解放となっていった。
「教えてくれ、あの女、あの人はこの旅を本当はどういう風に計画したんだ?」
その問いかけが、沼の静けさを少し破った。セージも、修一も言葉を止めた。史音は、ゆっくりと深呼吸し、目を閉じると、改めて言葉を紡ぎ始めた。
「優香が画策したのはアタシが計画を立てさせ、実行させること。そして修一は敵の本拠までの道を拓くこと。侑人、お前の役目はアタシたちの盾だ。アタシたちを守ることだった。そして——それはアオイが……椿優香が、あの女の光層磁版図の中に組み込まれた計画の一部だった」
「光層磁版図?」
再び、耳慣れない言葉に、侑人は無意識に聞き返した。目の前に広がる陰影の中で、その言葉が浮かび上がる。
「光層磁版図は、有城龍斗やフィーネ、椿優香が創ろうとしている世界の配置図であり、世界の設計図だ。それは人間の知成力の配置であり、思考形態の操作だ。……悪いが、ここで簡単に説明できるような代物じゃない」
侑人は目を閉じ、史音の言葉を受け入れる。それが何を意味するのか、全てを理解するにはまだ遠すぎる。しかし、少なくとも彼は知っている。自分たちがただの駒ではなく、この計画の中で確かに役割を果たしていることを。
「それはどうでもいい。俺は史音たちの行動が綺麗で真面目だと思うから、史音に言われたことをやるだけだ。他人に利用されるのも、俺自身の選択だ。でも——知らないで利用されるより、知ってて利用されるほうが、幾分マシだな」
その時、舟の先に岸が見えてきた。揺れる水面に、薄暗い岸が映り込む。空気が湿り、気温がわずかに下がったように感じる。
「彼にはすべては伝わらなかったようですね。ここがあなたたちの旅の終着点です」
岸に到着した四人は、史音、侑人の順に舟を降りた。しかし、修一とセージは動かなかった。セージは、ゆっくりと舵から手を放し、修一の前に立った。
侑人は史音に視線を送り、無言で問いかける。どういうことだ?
「この旅の要が修一だったと分かった奴らは、自分たちの知成力を結集して修一の拓く道を閉ざした。そして、枝の神子の中でも最大級の力を持つセージには修一が再び道を拓くのを防ぐ事が出来る。ここまで連れてきたのは——奴らが知成力を結集するのに都合が良いからだろう」
その瞬間、侑人の胸に緊張が走る。すべてが繋がり、何かが崩れ落ちる音が聞こえたような気がした。
「それじゃあ盾として俺が闘う。修一を失うわけにはいかない」
優斗の声が響いた。しかし、セージはその声に答える。
「橘優斗くん、君の物騒な力で私たちの戦闘を邪魔しないでくれ。その代わり、修一くんが自らの力で私を倒せば、再び道を捉えることができる」
史音はその言葉を聞いて、冷たく笑った。
「それも優香の光層磁版図。優香との約束というわけか?セージ」
セージはそれを否定しなかった。