105、現在 突入
箔花月の森の砂漠を後にした史音たち三人は、徒歩で30kmの行程を進み、虚無の神殿の手前300メートルの岩陰に身を潜めた。
目の前に広がる虚無の神殿は、地下深くに築かれた巨大な遺構であり、地上に露出しているのはその入り口のみ。そこにそびえるのは、異様な存在感を放つ古びた石造りの門だ。かつては崩れかけた遺跡の一部だったのかもしれないが、今は新たに設置された巨大な鉄壁がその開口部を封じている。幅およそ200メートル。その圧倒的な規模は、まるで脈楼の谷にそびえるアルファの城を想起させるが、荒涼としたこの地にあって、その威圧感は段違いだった。
史音はデジタル双眼鏡のボタンを操作し、慎重に入り口を観察する。その視界の中で、傭兵と思しき者たちが、銃を縦に構え、警備にあたっているのが見えた。20人ほどの数。どこか緊張感を欠いた様子の彼らは、教団の信奉者ではなく、ただ金で雇われた戦闘員なのだろう。
「何の茶番だ……。こんな連中、ベルの庇護下にあるアタシらの相手になるわけがないだろう」
双眼鏡から目を離さぬまま、史音は忌々しげに吐き捨てた。
「人の盾、ってやつだろうな。女王が俺たちの目の前で一般人を殺すことが出来ないよう、抑止のつもりだろうな」
修一が低い声で呟く。だが史音は鼻で笑った。
「本気でそう思ってるなら、おめでたいな。すでに余剰次元の彼方、地球では数十億の人間が死んでるんだ。ベルは必要なら容赦しない」
そう言って、史音は双眼鏡を修一に渡す。修一はしばらく覗き込むと、無言で史音に返した。侑斗には回さなかった。渡しても無意味だと判断したのだろう。
内心、侑斗はここで待機するよう言われはしないかと期待していた。だが史音はそんな甘えた考えを見透かし、鋭い声を浴びせる。
「侑斗、楽したいとか考えてるんだろうが、お前にも神殿まで来てもらうぞ。ここから先、ベルの力を使うか、お前の剣を通した修一の姉さんの力を使うかは、アタシが判断する」
史音の声には迷いがない。その時、彼女の腰のスマートフォンが短く鳴った。
「ベル?……ああ、美沙か。いいよ、そのまま繋いでくれ……美沙か……そうか、分かった。・・・そうか。優香の奴の版図を解読できたんだな。あの女。まあ良い、今日中に教団は潰滅させる。後はその通りにする」
史音は一度ゆっくりと息を吸い、空を仰ぐ。その先には、白亜の呪いの帯が不吉な光をたたえていた。
「あれを今日中に消す。それから椿優香がこちらに向かったそうだ。だからアタシらの仕事は虚無の神殿で奴らの設備を破壊するところまでだ。神殿の下のプルームの岩戸では優香が直接、龍斗の奴と決着をつけるらしい。良かったな、侑斗。少しは楽ができるぞ。それから優香に会うこともない」
侑斗の脳裏に、泰然とした椿優香の冷たい表情が浮かぶ。相手を追い詰めるときの彼女は、いっそ残酷なほどに冷徹だ。その矛先となる在城龍斗に、一抹の同情を覚えた。
「さて、行くぞ」
史音が岩陰から身を翻す。修一がそれに続く。侑斗も渋々、あとに続いた。
その瞬間、傭兵たちが一斉に銃を構え、怒涛のような銃撃が降り注いだ。だが三人の周囲には、カーディナル・アイズの結界が張られている。凄まじい弾丸の嵐は、透明な障壁に阻まれ、虚しく弾け散る。
距離が縮まるにつれ、銃声は激しさを増し、耳をつんざくような金属音が響き渡る。思わず侑斗は耳を塞ぎながら史音に問いかけた。
「あいつら、この剣で薙ぎ払っていいか? でも女王のバリアの中だと、届かないのか?」
史音が横目で冷ややかに侑斗を見やる。
「ベルの真空の瞳の結界は、内側からなら簡単に破れる。でもな、お前、あの傭兵どもに何か恨みでもあるのか? あいつらはただの雇われ兵だ。己の信念だとか信仰だとかに取り憑かれて、人間をやめちまった教団の連中とは違う」
その言葉を合図にしたかのように、轟音が響き渡った。巨大な神殿の扉が、低い唸りとともに開き始めたのだ。背後の異変に、前方を警戒していた傭兵たちは慌てて後退する。しかし扉の近くにいた者たちは避けきれず、衝撃に弾き飛ばされ、地面に転がった。
「侑斗!」
史音の声を聞くより早く、侑斗は短剣を振るう。左右に二度。次の瞬間、扉は両端を残して粉々に崩れ落ちた。中心にいた傭兵たちは無残に押しつぶされ、残る者たちはその場にへたり込む。
「そうだよ、侑斗。美しく生きるとは、そういうことだ。正しさよりずっと大切なことだ」
剣の余韻を残す侑斗に、史音が静かに言葉をかけた。
砕かれた扉の向こうには、闇が口を開けていた。史音は一歩、踏み出す。
傭兵の一人が、それでもまだ銃口を向けた。しかし、引き金を絞るより速く、その弾丸は史音の指先で摘み取られ、地に落ちた。
「律儀なことだな。でもな、この中のものを放置すれば、お前らの稼いだ金を使う世界そのものが消えるぞ。今すぐ、全速力で逃げろ」
そう告げ、史音は闇へと足を踏み入れた。