104、現在 葵瑠衣
人気のない暗い塔を、落合美沙と氷鉋一矢は静かに上っていく。窓のほとんどないその建物は、周囲のわずかな光すらも拒絶し、ひたすら黒くそびえ立っていた。まるで何者にも譲らぬ意志を持った塔の主、椿優香そのもののように思えた。
前を行く美沙の手元に、小さなライトの光が揺れる。その後ろを、一矢が無言で警戒しながらついていく。薄暗い回廊を進み、やがて屋上へとたどり着いた。そこには一室があり、椿優香の研究施設として使われていた。彼女の行方不明後、誰一人として足を踏み入れていない場所だった。
部屋の外には広大なバルコニーが広がり、そこからは女王の城、ベルティーナの邸宅が一望できる。冷たい夜風が吹きつけ、二人の頬を切るように撫でていった。
美沙は研究施設に入り、端末の電源を入れる。起動音とともにモニターが明るく光り、無数のアークが浮かび上がる。しかし、それらはすぐに画面を埋め尽くし、やがて真っ白になったかと思うと、端末の電源が落ちた。
何度試しても同じだった。
「さすがね……あの女。この塔に入るよりも、はるかに厳重な障壁が仕掛けられている」
美沙は苦笑しながら、起動の際にキーボードを螺旋状に何度か打鍵する。すると、画面上のアークがバラバラに砕け、代わりに宇宙の大規模構造を思わせる光点の集合体が現れた。コンソールを操作すると、それは立体となり、さらに高次元へと広がっていく。
「史音から聞いた光層磁版図ですね。優香と龍斗、そしてフィーネが創ろうとしているもの……」
一矢もモニターに見入る。混乱を隠せない表情で、呟いた。
「……世界の配置図だと? 本当にそんなものが存在するのか? 一体何を操って、これを創ろうとしているんだ……?」
彼は周囲の机をあさり、プリントアウトされた膨大な資料の束を手に取る。そこにはびっしりと数式が書かれ、大量の統計データが並んでいた。その中には、赤い×印が大きく付けられたものもある。「要修正」「要抹消」の文字が無造作に記されていた。
「有城龍斗も優香もフィーネも、それぞれ別の形でこれを創ろうとしているんだな……?」
美沙は慎重に資料の一部を抜き出し、目を走らせながら考察を始める。枝の神子の中でも、史音やアローンに次ぐ知性を持つ彼女は、素早く類推を組み立てた。
「……これは、人の知成力の配置ですね。知成力は、それを持つ者の間で否定し合い、また相関し合う性質がある。それをどのように配置するかで、人の思考電磁波の繋がりを再構築しようとしている……」
一矢は腕を組み、視線を落とした。
「有城龍斗の狙いは、人の知成力を操ることで世界の実在を固定すること……そして、シニスを表から押さえ込むことだろう? フィーネや優香も、結局は同じことをやろうとしているのか?」
美沙はゆっくりと端末の電源を落とし、散らばった資料を整えた。
「一矢、私は優香のことを信じています。ですが……彼女が私たちや女王すら欺き、何かを成そうとしているのは、得心できません」
一矢は美沙の整理した資料を受け取り、部屋の隅の机へと運ぶ。
「落合さん、アローンの騒動で『地球を守る教団』は崩壊し、教団内の枝の神子はもう数十人しかいない。有城の光層磁版図が知成力の思考パターンの制御だとするなら、奴の計画はすでに破綻しているんじゃないのか?」
美沙はやせた身体をテーブルに預けながら、静かに答えた。
「空にはまだ、白亜の呪いの狼煙が残っています。それに……龍斗は、今の状況をすでに予測していたでしょう」
「つまり、史音や修一が奴らの虚無の神殿を破壊しなければ、状況は変わらないってことか?」
美沙は一矢の問いに、微かな笑みを返す。
「女王が史音たちの直接援護に赴いた以上、彼らが役目を果たせない可能性は極めて低い。となると……今や私たちにとって未知の脅威は、葵瑠衣、椿優香だけです。アローンは消え、有城龍斗もいずれは消滅する。女王ベルティーナも、葛原澪も目的が明確になった今、枝の神子にとっての大きな障害はほぼなくなりました」
一矢は不満げな表情を浮かべた。
「……史音はどうなんだ?」
美沙は額の髪をかき上げ、言葉を継ぐ。
「あの子は純粋です。常に目の前の問題に最善を尽くし、全力で取り組む。信頼していい。……けれど葵瑠衣、椿優香は、謎が多すぎる。彼女は女王すら欺き、何かを実行しようとしている。それが私たちにとって望ましい未来へつながる保証は、どこにもありません」
美沙がテーブルから身を離したのに合わせ、一矢も身体の向きを変える。
「なら行こうぜ。その張本人に会いに。女王が留守の今、無人の城の幇室で何かを企んでいる椿優香のところへ……」
美沙は少し不安げに、それでも確かな意思を持って頷いた。
美沙と一也は、上の城の警備をしていた枝の神子たちとの打ち合わせを終え、椿優香のいる女王の幇室へと向かっていた。
女王ベルティーナの幇室は、女王の城の中央階、それもさらに奥深く、ほとんど光の届かない場所にあった。優香の塔ですらまだ日の名残が差し込むが、ここは違う。ベルティーナがその瞳で世界を覆うとき、微細な電磁波の揺らぎすらも遮断されるよう、幾重もの重厚な壁面が囲っていた。
一也は幇室の扉に手をかける。分厚く無骨な扉は、異様な静寂を内包しているかのように、開く瞬間すら音を立てない。
中は、眩い光に満ち溢れていた。
広間の中央はわずかに盛り上がり、普段は横に傾斜しているベルティーナの玉座が直立している。その上には、ひとりの人影が浮かんでいた。
「やあ、思ったより早かったね。二人とも、悪いけどもうちょっと待ってもらえるかな」
いつものように、よく通る優香の声が部屋に響く。
天井から降り注ぐ光があまりに強すぎて、美沙と一也は思わず目を細めた。光を背負った優香の顔は影となり、その表情を窺い知ることはできない。
「優香、貴女は何をしているのですか?」
美沙は静かに、しかし確かな威圧を込めた声音で問うた。
「女王が史音たちの援護に回り、教団壊滅の最終段階に入ったというのに、貴女はここで何を?」
美沙の言葉に、一也は一歩前に出る。万が一に備え、美沙を守る体勢に入った。
「失礼だね、美沙。まるで私がベルのいない隙を狙って、何か悪巧みでもしているみたいじゃないか」
優香の声音には、微塵の焦りもない。
「私はもう数えきれないほど、この部屋を使わせてもらっているよ。ベルには断っていないけど、彼女は知っていて何も言わない。つまり、黙認されているってことだろう?」
「落合さんは、あんたがここで何をしているのかと聞いているんだ。答えろよ!」
一也が声を荒げる。しかし優香はすぐに答えなかった。代わりに、なにか端末を操作する音が響く。
「これと、これはダメだな……うん、こちらは偏りすぎだ。あとは……まあ、とりあえずこんなものか」
優香は独り言のように呟く。その声音は、状況とは無関係に淡々としていた。
「優香!」
美沙の声が一段と鋭くなる。
「ああ、私がここでやっているのは、ベルがカーディナル・アイズで世界を包んだ記録の確認さ」
天井の光が一段階落ちた。
「いろいろ試したけど、これを辿るのが一番効率がいい」
「それは貴女の光層磁版図の製作状況の確認ですか?」
美沙の問いに、優香は沈黙した。
やがて操作の手を止め、端末から視線を外す。そしてそのしなやかな肢体をスラリと宙に浮かせると、美沙と一也の前に静かに降り立った。
「私の光層磁版図のことを知っているとは……さすがだね、美沙。それとも史音から聞いたのかな?」
優香の声には、僅かな緊張が混じっていた。
「そんなことはどうでもいいでしょう」
美沙は静かに言葉を紡ぐ。
「私たちが知りたいのは、貴女の最終目的が有城龍斗やフィーネと同じではないのかということ。ただ、それだけです」
「不愉快だね、美沙」
優香は、短くそう言った。
「違うのなら、そう言えばいいだけだろう?」
一也が鋭く詰め寄る。しかし美沙はその腕を押し止める。
「優香、私は貴女を信じたい」
美沙の言葉に、優香の目が細まる。
「けれど、貴女の口から直接聞くまでは、それはできない」
二人の視線が交錯する。そして、最初に足を踏み出したのは優香だった。
「私は、自分の行動に誰の承認も必要としない」
彼女の言葉には、揺るぎない確信があった。
「けれど、誰にも理解されないということが、想像していたよりも嫌なものだと……今、貴女のおかげで気づいたよ」
優香はふっと力を抜く。そして、深い溜息を漏らした。
「光層磁版図は、世界の中間層の大枠だ。外見が似ていても、完成した姿はまるで異なる。だから私の創ろうとしているものは、フィーネとは全く違う」
その語調には、迷いはなかった。
「龍斗のものに似ていなくもないけど、辿り着く手段がまるで違う。だから私は、まったく別のものを創ろうとしていると思っているよ」
美沙は、じれったさを覚えた。
「葵瑠衣が長い眠りから目覚めたあと、本来救える人々、犠牲になった人々に対して何の感慨も抱かなかった……」
美沙の言葉に、優香は笑いを噛み殺した。
「フッ……その通りの女だったよ。葵瑠衣は」
彼女の声には、どこか哀愁が混じっていた。
「私は葵瑠衣に飲み込まれたのか、それとも葵瑠衣を私が飲み込んだのか?それは私自身にもわからない」
優香は美沙に背を向け、幇室を出ようとする。
「邪魔だよ、一也。私の邪魔は許さないと言ったよね?」
その言葉には、鋭い刃のような迫力があった。
「行かせなさい、一也」
美沙が静かに告げる。
「優香、私は貴女が葵瑠衣ではなく、椿優香だと信じます」
優香は振り向かずに片手を挙げ、幇室を後にした。