103、現在 揺れる虹
「久しぶりに会ったのに、すごい落ち込みようだね。あの冬樹さんのこと?」
手前のテーブルに突っ伏したまま、亜希は左目だけで眼球を動かし、凪を見る。
大勢の人が死んでから一週間が経っていた。零さんはあれ以来、自宅から出てこない。
琳や彰くん、松原さんの三人からも何の連絡もない。
一人でも生きていける。ずっとそう思ってきた。なのに、どうしてこんなに落ち込んでいるのだろう。自分の特殊な力を知られないように、他人とは一定の距離を保ち、慎重に生きてきた。だから、一人になることに慣れているはずだった。どんな事態が起こっても、何も思わない。そう覚悟して生きてきた。
いや、そう思い込もうとしていた。
彼や彼女たちと過ごした時間が、楽しかった。
いや、過ごす時間がなくてもよかった。
自分を知ってくれている彼らの存在そのものが、大切だった。
「ごめんね、凪。私も、自分をこんなに鬱陶しいと感じるのは初めてだよ」
個展が終わったばかりの凪の家に押しかけたのは、自分でも意外だった。
冬樹さんが凪を通じて私たちを探してくれていたことを、何となく電話した凪との会話で知った。冬樹さんは騒動の中で行方不明になったと報道されていた。身元不明の遺体が多く、その中に冬樹さんも含まれると考えられているのだろう。そして、沈みきった声の亜希に、凪は自宅に来るよう誘ってくれた。
以前の亜希なら、丁重に断っていただろう。だが今回は即答で了承し、飛んできた。
――そう、私は寂しかったのだ。
人が恋しかったのだ。
こんなとき、侑斗でもいれば、無理やり呼び出して一杯からかい、気を紛らわせることができただろう。だが、今、アイツは日本にいない。
それでも、亜希には凪がいた。
零さんには今、修一くんもいない。
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凪は実家を出て一人暮らしだった。
2LDKの慎ましい部屋。余計なものがなく、シンプルな機能美を備えた家具が整然と配置されている。どこを見ても清潔で、落ち着いた雰囲気があった。まさに凪らしい。
芸術家肌のはずなのに、絵画の類は飾られていない。そのことに、妙な安心感を覚えた。
それに、一人暮らしをやっているだけで、亜希はすごいと思う。
自分は、両親とのぎこちない関係を認識しながらも、いまだに同居している。無意識のうちに、非常識な才能を示す自分に、両親がどこか距離を置くようになったことも感じていた。
それでも、父や母と離れるという発想はなかった。
だが、今ならわかる。
自分を知り、受け入れてくれる人の大切さが。
私はずっと、寂しかったのだ。
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「凪……あんたはさあ、私のこと、変な女って思ったことある? その……いろんな意味で」
凪はふと視線を落とす。
頬杖をついたまま、じっと亜希を見つめる。コーヒーカップの取っ手から指を離し、言葉を選んでいる。
「そうだね。亜希は、私たちとは違う人間だとは、ずっと思ってたよ。」
静かに、けれどはっきりと言った。
「何でもできるし、美人だし。正直、学生時代は亜希を避けてた人も多かったよ。ちょっと怖いって」
言い始めると、結構ストレートだ。
「美人なのに、浮いた話の一つも聞かないし、あらゆる教科で満点を取ったり、かと思えば全教科補習だったり、運動神経もめちゃくちゃで……ウルトラファインプレーをしたかと思えば、私より運動音痴になったり……何考えてるのかわからないし、何も考えてないようにも見えるし……ええと、それから……」
「ああ、もういい、何も言わないで」
そう言って、亜希は顔をテーブルに押し付けた。
普通に生まれ、普通に生きたかった。
頭が悪くて、運動神経が鈍くて、もっと不細工に生まれてきたかった。
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「いいじゃん、それが亜希なんだから。完璧超人で困ること、あるの?」
ある。
困りまくっている。
生きるのに、苦労している。
どうせ信じないだろうから、全部話してしまえ。
「あのさ、凪。私は、ある人の分身らしいんだよ。私はその人のために、自分でもよくわからない能力を持たされたんだ……自由に生きていくことも、きっと許されてないんだよ。ただ、その人のために存在してるんだよ」
不自由なんだよ。
少しだけ顔を上げる。
そして、今は少しだけ、自分の意思でその力を使えるようになっている。
どんどん、人間離れしている。
自分が怖い。
凪は黙って考え込む。
カップに口をつけ、コーヒーをゆっくりと飲み込む。
「あのさ、亜希。偉そうなことを言わせてもらうと、人は皆、自由に生きられないんだよ。」
静かに、優しく言う。
「世の中の人間が、一斉に自由に生きたら、大変でしょ。人間って、ぶつかり合って、削り合って生きてるんだからさ。」
凪は微笑む。
「亜希は、私たちと違って、他人と関わることで、相手を削りすぎてしまうことが怖いの?」
静寂が落ちる。
「自分が全力を出したら、誰かを傷つける。それが嫌なんだよね。」
人々が好き勝手に生きだしたせいで、あの『地球を守る教団』が勢力を拡大し始めた。力のない者たちは、何かにすがることで自分の自由を行使する理由を求める。だが、私や零さんには、その必要がなかった。私たちは一人でも十分に生き抜く力を持っていた。だからこそ、誰に理由を求めることなく自由を行使できる。人間でいることを諦めれば。
「亜希はずっと自分を抑えて、不自由を抱え込んできたんだよね。普通の人間として周りから見てもらいたいんだよね。でも、本当にそれでいいの?」
凪の声が静かに響く。私は答えられず、ただ俯いた。私が良くても悪くても、もう誰も私をただの女としては見てくれない。じゃあ、私はどうしたらいい?
「私はもう、普通に生きていけそうにないよ」
力なく呟くと、喉の奥が詰まりそうになる。
「もう、あの人のためだけに生きていく。必要とされるまで、コソコソと隠れて、どこかにいるよ」
情けない声が自分のものとは思えなかった。けれど、その瞬間、鋭い音が空気を切り裂いた。凪が両手を叩いた音だった。
「ふざけんな!」
凪の声は、今まで聞いたことのないほど荒々しかった。
「あんたが私たちより優れた力を持つなら、あんたがそれを持つにふさわしい人間になればいい! 木乃実亜希は、自分の力に飲み込まれるほど弱い人間じゃないだろう」
私はゆっくりと顔を上げる。
「私は……とても……とても弱い人間だよ」
再び、凪は両手を叩いた。
「じゃあさ、亜希。もし自分の力を使うのが楽しいと感じたら、真っ先に私を殺しに来なよ」
息が止まりそうになった。
「私を殺したら、もうあんたは木乃実亜希じゃない。そんな世界に私は生きていたくないから、それでいい」
胸の奥が締めつけられる。言葉にならない感情が喉の奥に溜まっていく。頬に熱いものが伝い、テーブルの上に雫が落ちた。
「凪……私さ……私も、あんたのいない世界は嫌だよ」
震える声でそう言った途端、凪はそっと腕を伸ばし、私を抱きしめた。
「亜希、大丈夫だよ。それに、私だけじゃないよ。そう思ってるのは」
優しく頭を撫でられ、心の奥に張り詰めていた何かが、少しだけほどけるのを感じた。
そのとき、スマートフォンのメール着信音が響く。
私のスマートフォンに連絡を寄こせるのは、ごく限られた者たちだけ。
凪の腕の間から手を伸ばし、スマートフォンを手に取る。画面を見た瞬間、驚きと呆れが同時にこみ上げた。
『明日、この世の理不尽を夜空に向かって大声で叫ぶイベントを開催します! いかなる理由があっても欠席は認めません。来ないと私の怒りが爆発します。
かぐら平に19時集合!
開催主催者 小鳥谷琳
絶対来るんだぞ! 来ないと泣いちゃうぞ!』
唇が自然とほころぶ。
「やっぱり、不自由だな……」
けれど、この不自由さが愛おしい。琳を泣かせるわけにはいかない。
私はそっとスマートフォンを握りしめた。