99、現在 巨視
史音が組み上げた装置は、光と共に消え去った。
残されたのは、ベルティーナとフィーネ。
砂の森に漂っていたフィーネの影が、一つに収束していく。黒い霧が身体を形成し、代位の範囲を拡張しながら思考をまとめた。だが、どれだけ考えを巡らせても、ベルティーナを打ち倒す確実な手段が見当たらない。
その間にも、ベルティーナはカーディナル・アイズの渦を絞り込み、砂の森の奥深くへと侵入させていく。その視線は、何かを探るように鋭かった。
「……やはり、この箔花月の森の実態には触れられないか」
ベルティーナは小さく呟いた。
「全体を吹き飛ばすことはできるが、それではコールド・プルームにも致命的な影響が及ぶ。——トキヤによって前の地球の大樹と共に倒された、先代の枝の神子たちが創ったシニスのダークの亡骸……」
彼女はフィーネに視線を向ける。その眼差しには、計算された冷静さがあった。
「フィーネよ。ここから生まれたお前の目的は何だ?」
ベルティーナの言葉は鋭く、彼女の意図を試すかのようだった。
フィーネは表情を変えず、ただ淡々とベルティーナの他我の種へと巨大な黄色い変数操作線を浴びせる。
「これが——レイ・バストーレを苦しめた呪いの狼煙の力か」
ベルティーナは目を細め、操作線に絡め取られた他我の種の写しを作り上げる。それを時空の彼方へと飛ばすと、表面だけの空っぽな影が操作線と共に消え去った。
「こんなものに心を縛られるとは、情けない女だ」
フィーネは呟くように言う。
「女王よ、なぜ世界中の瞳の結界を解いた?」
フィーネの声には、どこか愉悦すら滲んでいる。
「結界が緩められた事により、呪いの狼煙は、他の地球の断末魔によってさらに強固になる。人間たちは教団の力によって、ますます傀儡に近づく」
「それは私の知ったことではない」
ベルティーナは、笑いを押し殺したような声を漏らした。
「私は慈善のために、この地球の人々を守っているわけではない。自分の目的のために、必要なものを守っているだけだ」
彼女の言葉には、一切の迷いがなかった。
「だから——太陽の鞘を破壊する者などこの地球ごと滅ぼしても構わない」
ベルティーナは静かに続ける。
「その点では、葛原澪、レイ・バストーレと何も変わらないよ。この地球の人間が、その愚かさゆえに操られ、滅びていくというのなら——勝手に滅びればいい」
フィーネの周囲に、差時間の膜が幾重にも張り巡らされていく。
「女王よ、三日間の猶予があると言ったな?」
フィーネは問いかける。
「フライ・バーニアはともかく、虚無の神殿の仕掛けに、それほどの余裕があるとは思えん。なぜ、そんな虚言を吐いて史音たちを行かせた?」
その問いに、ベルティーナは静かに微笑した。
「史音なら、間に合うだろうよ」
そう言う彼女の目には、フィーネとは異なる確信があった。
「だが、今この瞬間——お前に話を聞くことこそ、私にとって重要なことだ」
フィーネの目が細められる。
「お前は、かつて組織にいたとき、私に機会を与えなかった」
ベルティーナは、右腕を掲げる。その手には、サイクル・リングの深紅の輝きが宿っていた。
「そもそも、私がこの世界で女王などやっているのは——お前を監視するため。それが真の目的」
フィーネは、ベルティーナの言葉を受け止めるように、わずかに表情を動かした。
「私に何を聞く? お前たち人間は、僅かな時の中で定められた状態に縛られている。我ら上位回路の思惑など、お前たちには意味を持たない」
ベルティーナは、無言のままフィーネの肩に手を置く。
フィーネの身体が、ビクッと震える。
「……私の知るフィーネの約百倍の存在力があるな」
ベルティーナの声が、低く響く。
「貴様は、一体では部分的な思考様式しか持たない。これでも足りないが……貴様たち、形を持ったシニスの目的を少しは知ることができるだろう」
フィーネは、その場に跪いた。
その目は大きく見開かれ、振唇を発することなく——声帯にあたる器官から、言葉が流れ出していく。
「……その部分は……取り除け……優先するのは……より平坦なもの……を逸した……」
ベルティーナは、膝を落とし、答えのない存在へと語りかける。
「フィーネよ……確かに在城龍斗たちによって、いくつもの地球が破壊された」
彼女の声が、空間に沁み込むように広がった。
「他の地球を守る使命を負った私には、許されざることだ。しかし今回は——太陽の鞘を破壊するという物理的な行動によるものだ」
ベルティーナは、フィーネの顔を見下ろした。
「だから、私も物理的に対応することができる」
フィーネの口から、か細い言葉が紡がれる。
「……範囲を間違えるな……掬ったものは……より上位に……掬えなかったものは……下位に沈めよ……この階層は全て.......」
ベルティーナは、彼女をじっと見つめる。
「トキヤが以前の地球の大樹を切り倒し、お前の主ダークを討つ前に——かつて242あった地球は、100以上が突然消え去った。ユウと私が励起導波戦争を終わらせる前のことだ」
その瞬間——フィーネの頭が、カクンと傾いた。
まるで、糸の切れた人形のように。
そして、その場に崩れ落ちる。
フィーネが、かつてダークの一部だったとき——聞いた言葉が、空間にこだました。
—何も選ぶ必要はない
すべての到達点は、最初から決められている。
与えられた時間も、限られている。—
静寂の中、フィーネは倒れたまま天を仰いでいた。
その目は大きく見開かれ、焦点を定めることなく宙を彷徨っている。口元がわずかに動いた。
「……女王よ」
微かな声が漏れる。
「私にも、わかったよ」
空気が微かに震えた。
「すべては、人の思考の重なりの中に答えがある。それが始まりだったからだ。
だから——今、この分岐点において、お前たちに行動の理由をもたらすもの……それは橘侑斗だ」
彼女の身体がゆっくりと崩れていく。
「——だから、我が主の中で消えてもらう」
最後の言葉とともに、フィーネの輪郭が揺らぐ。まるで、ぼろ布が風に溶けるように、彼女の存在は霧散していった。
ただ、消えた。
ベルティーナは、じっとその場に立ち尽くしていた。
乾いた空気が、彼女の髪をわずかに揺らす。
彼女は静かに目を閉じ、そして呟く。
「……私たちの真の敵」
音のない世界に、その言葉だけが落ちる。
「目的のわからない敵……」
ふと、思い出すように彼女は瞳を開いた。
遠い記憶の中にいる誰かへと、届かぬ願いを送るように——。
「侑斗……、トキヤ……どうか」
声は静かだった。
「あなたが、まだそこにいるのなら……どうか、彼を助けてください」
彼女の言葉は、どこかへ吸い込まれるように消えていった。