3 はるかのスイートメモリー
その夜、はるかは自分の部屋の勉強机で両肘をついて、昼間の麻子との会話を思い返していた。クラス表を見た時、あずみたちと別れたことに不安がよぎったが、麻子に声をかけて良かったと思った。
あの子なら大丈夫。綾乃が同じクラスにいたって、ひとりになることはないわ。
はるかは1人でつぶやいて、ハッとした。
でも変ね。わたしって、あんな体験するまでは、男の子たちとも一緒になって遊んで、結構勝ち気だったはずなのに。今では孤独になることにビクビクしているんだ。当たり前よね。孤独を感じて嫌な思いをしない人なんていないもん。
「江波ってすごいな。ちびなのにさ……」
突然、はるかの脳裏にその言葉がエコーがかかったカラオケの歌声のように、鳴り響いた。ちょっぴり憎らしいが、温かい響きだった。
はるかは、不意に、小六の秋の地区対抗陸上競技会を思い出した。はるかは走り高飛びの選手だった。
「はるか、いったい、これはどういうことなの? あんた、まさか……」
はるかの母親が、ナイフのようなもので切り刻まれて、ドロドロの体操服を広げて、驚きと心配の色を瞳に浮かべていた。
「どうして、母さんが……」
はるかは、綾乃たちにズタズタにされた体操服をベッドの下に隠していたのだ。
「あんたの部屋を掃除していたら、見つかったのよ」
「そんなこと、頼んでないわ。自分の部屋は自分で掃除するからいいって、いっているのに……」
「最近のあんた、少し変だったからよ」
「わたしが変?」
「そうよ。あんまり笑わなくなったし、ずっと何か考え込んでいるという感じでね。母親なら、気になって当然でしょ。あんた、いじめに遭っているんだろう? どうして、言わなかったんだい?」
「いったって、しょうがないからよ」
「学校に言ったら、先生がこの子たちに、こんなことはやめるように注意してくれるだろう?」
「だから、母さんにいうのは嫌だったのよ。先生にいったら、チクったっていわれて、ますます恨まれて酷いことをされるわ。母さんが出て行ったって、余計に悪くなるだけで、解決なんてしないの。それに、わたしが悪くていじめられている訳じゃないし。心配しないで」
「でも……」
「エスカレートするようだったら、その時はまた考えるわ」
そういうと、はるかは、自分の部屋のドアを閉めた。
はるかは、体操服を手にして思った。
でも、まだ、するのかな? こんなことが続くのだったら、何とかしなきゃ。うちは、体操服を買い替えられるほど、裕福じゃないし……。
はるかの疑問は、やはり、悪い解答となって表れた。はるかの家が裕福でないことを知った綾乃たちは、体操服をズタズタにしたように、持ち物を壊すことで、はるかによりダメージを与えようとにらみ、筆箱、ノート、ランドセルまで使えないようにした。
はるかは、いじめられていた子をかばっただけなのに、どうしてここまで憎まれなければいけないのか、さっぱり分からなかったが、こんなことは、何とかやめさせなければと思った。
ある日、はるかは取っ組み合いのケンカをする覚悟で、綾乃に、こんなことをやめるように直談判した。
「結構よ。でも、江波さんが1位を取れたらね……」
綾乃は冷めた笑みを浮かべた。
それは、はるかが、港町小学校、海原小学校、桜ヶ丘小学校の地区対抗陸上競技会の走り高飛びで、1位になったら、嫌がらせはやめるという取引だった。
綾乃は、走り高飛びが得意だったので、そういう条件を出した。はるかも運動神経は抜群だったが、背が低かったため、走り高飛びは、不利になるが、がんばるしかなかった。
そして、陸上競技会の日がやってきた。はるかと綾乃は並んで、海原小学校から、2人、予選を難なく通過し、上位5人の中に入った。
110cmのバーの時、はるかは何とかクリアーできたが、綾乃は越えることができなかった。綾乃は土をつかみ、悔しいというより、悲しそうな目で地面に投げつけた。
あの目は何? どうして、そんなに悲しそうな目をするの? わたしに負けたことが、そんなに悲しいの?
はるかはその時、綾乃がどうして、そんな表情を見せたのか、理解できなかった。綾乃は無表情に、はるかの前を通り過ぎた。西野利香たちが綾乃に近寄って励ましていたが、その時の綾乃は、集団の中にいるのに、なぜか、ひとりぼっちに見えた。
「いい気にならないで! あんたが、この大会で1位を摂らなければやめないわよ」
ボーッと綾乃を眺めていたはるかに、利香たちは、綾乃を中心にして、薄ら笑いを浮かべて冷たく言い放ち、去って行った。
はるかの心に、利香たちの視線がグサッと刺さり、さっき、少しでも綾乃を心配した自分なんか、どこかへ吹き飛んでしまった。
後ろで、利香たちが綾乃を励ます温かい声が、はるかに虚しく響いた。
わたしは何なの?
いい記録を残しても、喜んでくれる人は誰もいない。嫌われるとはこういうことなんだ。はるかの心の中に、100㎏の巨大なおもりがズシッと入ってきて、そのままどん底まで沈んで、穴が空いてしまいそうだった。
はるかは、中庭の洗い場に着くと、水道の栓をおもいっきりひねった。この重苦しい心を洗い流してしまおうと、勢いよく落ちてくる水の中に頭を入れた。
10月の冷たい水に混じり、目から生ぬるい水がしたたってくるのが分かった。いい記録を取れば取るほど、綾乃や他校の児童たちには歓声が上がるのに、はるかの番になると、海原小学校の応援席からは、拍手もまばらで、特に女子たちの冷たい視線は嫌なものだった。
女子たちは、気持ちをあからさまに表すのはさすがにはばかられたのか、はるかがバーを落とすと、ひそかに笑みを浮かべ、悔しいのかヒソヒソ話をした。はるかが1位を取ってしまうと、おもしろいゲームができなくなるからだ。
この時、はるかは思った。集団になると、人は、人をコマにして、ゲームを楽しむのだろうか?と。
このまま水をかぶり続けていても、涙が止まらないので、はるかはフェイスタオルを顔にあてた。その時だった。
「江波ってすごいな。ちびなのにさ……」
この言葉を聞いたのは……。
はるかの涙がピタッと止まった。
明るくてかん高い男の子の声。
誰だろう?
しかし、はるかは泣き腫らした顔を見られたくなかったので、フェイスタオルでじっと顔を隠していた。男の子は、
「次もがんばれよ」
と、言い残し、すぐにどこかへ行ってしまった。
はるかの胸に温かいものがジーンと染み込んできて、急に元気が出てきた。まるで、魔法にかけられたようだった。
その男の子の言葉のおかげで、はるかはがんばれて、地区新記録の125cmで1位になれた。そして、相変わらず、クラスの女子たちから無視されたが、綾乃たちの嫌がらせもなくなった。
あ~あ、ちゃんと、あの男の子の顔を見ていたら良かったな~。
今思えば、はるかはそれが残念でならなかった。
はるかは、勉強机から、読みかけの少女小説を取り出した。




