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喉からラグビーボール

作者: 羽賀 匠

妻が妊娠した。俺に子種はない。



 22歳の夏、その事実は発覚した。その日は暑くはあったが、風があり、比較的過ごしやすかった。当時、女遊びに注力していたせいか、性器に違和感を覚え、性病検査を受ける目的で泌尿器科に向かった。看護師さん達は、若い男の人がきても特段反応せずにいてくれた。当時の林 空は、それがありがたかった。看護師さんたちに、あの人、性病になったんだわと白い目を向けられる可能性を案じていたからだ。林はそれが杞憂であったことに、少し安堵した。名前を呼ばれ、問診票を記載する。こちらもお願いしますねと紙コップを渡された。これはなんですかと口に出る前に、検尿していただきます。と説明が追加された。待合室にはトイレがあり、そこで尿を取り、トイレの中の小さな小窓から、提出するようだった。林は小窓の存在に気付かず、これをどうやって看護師さんの元に預けるのかと思考した。が結局、トイレを出て、頭にペットボトルを乗せて歩くパリコレモデルのように、慎重に、かつ堂々と歩いた。受付の女性に紙コップを手渡す。少々戸惑った様子で、紙コップを受け取ってくれた。周りの患者からもみられている気がするが気にしないふりをした。座ってお待ちください。と言う言葉を最後まで聞く前に、椅子に向かった。          

次のかたー。そう言って林の名が呼ばれた。片方だけつけたエアポッツを外す。ケースに戻す動作、バックを持ち上げる動作と立ち上げる動作が入り乱れ、何も完了していない状態で診察室に入っていく。今日はどうされました?体だけはこちらをむき、顔はパソコンに向けたまま、医者がいった。ニュースで性病が流行っていると言うことを知って検査しにきました。嘘は言っていない。検査をするだけでもえらいのだと自分に言い聞かせ、少し胸を張る。気を抜くと背中が丸まって、いかにも恥ずかしがっている青年といった感じであるからだ。

えらいですね。と興味ないことがバレてしまっても構わないと言った声色で医者が返事をした。

検査はすぐに終わった。医者は「精液のチェックもしてきますか?ついでに」と、こたつから抜け出した母に、父が「ついでにビールも取ってきて」と言うように軽くいった。どちらでも良かったが、やっておいて損はないだろうと思い、それも受けてみることにした。

 非常にいいにくいのですが、無精子病ですね。

何を言っているのかわからなかった。俺の精子には精子がない。つまりは精子ではない?とつまらない自己問答を続けていた。頭が回っていなかった。そこからの記憶は曖昧で、気がついたら、お金を払い終えていた。ついでにビールをとってきてもらうはずが、ビールサーバーから噴射されたものを口に直接ぶち込まれてしまったとでもいうのか。俺は子孫を残すことができないのだと悟った。死ぬときにも子供や孫の姿がないことを意味していた。それに子供が欲しい女性は多い。俺の精子が精子じゃないことで結婚というのも急にハードルが高く見えた。林は何かの間違いだとそう信じることにした。だって、ヤブ医者っぽかったから、そう言い聞かせた。自分に子種がないことを知るには、少々早すぎる気がした。大抵、結婚して何年後かに妻の方から言い出すものだとイメージがあった。不妊治療行ってみようよ!検査だけでも!何もなかったらなかったでいいし、早くいくに越したことないでしょ!と自分達がしている話題のシビアさを打ち消そうとするように妙に明るく溌剌といい出すものだと思っていた。三、四十代で気付くことが一般的だと思っていた問題に二十代前半に気付かされる辛さ、まだ子供を持つ夢を見せてくれたっていいではないかと林は本気で思った。

ちなみに性病でもあった。


このことは誰にも言わないでおこうとそう心に決めたのも程なくしてからだった。もちろん性病のことではない。

友達と飲みにいくときや、キャンプなどのアウトドアをしている時、よく子供の話題が上がった。お前の子供ができたら、俺はお前よりも喜ぶぞ。だとか、なんでも買ってあげるわ!などとふざけ合っている。この年齢になると少しずつ現実味を帯びてきてはいるが、実際にはそこまで近くはないので恐怖はないのだろう。みんながみんないつかは実現すると信じて疑わない未来について想像して、喋っていた。林は、友達の子供を想像することはあっても、自分の子供を想像することはなかった。実際にできる可能性のない事柄だからであろう。誰も自分がペガサスそのものになる想像をしないように、林もしなかった。友達には何度も言おうと試みたが、言えない訳があった。林の友達はみんないいやつだ。だが、林に子供ができない、作る能力がないと知ると、最初はまぁしょうがない、俺の子供と一緒に暮らそうだとか、子供を作ることだけが結婚ではないだとか慰めてくれるだろう。逆に、よかったじゃん、これからは中出しし放題だなと身内でしか言えないような下品な笑い話にしてくれる可能性もある。むしろその確率の方が高かった。長い時間一緒にいた仲間だからこそ分かっていた。こんなふうに隣にいてくれる仲間を持つことができて林はうれしかった。しかし、噂というのは、ひどく早く回るということも今までの人生で学んでいた。特に、意外性、希少性のある話題は、勝手な憶測や、誤解、誤認を含んだソニックブームを出しながら空をかける。林はそのソニックブームを嫌がった。好きな子がいたからだ。はやしはかれこれ10年弱片想いをしている女性がいた。同じ中学ということもあり、比較的、生活圏は近い。この彼女にその衝撃波が届くことを嫌った。彼女は手が届くか届かないかという所にふわふわと漂っているイメージを林はいつも持っていた。いつも林が想像する未来の妻は彼女であった。それ以外に考えられなかったのだろう。もしも彼女に噂が廻ってしまったら、彼女への挑戦権が失われてしまうことが1番の恐怖であった。不戦敗になるくらいならば、慰められずに、笑い話にもせず、一人で現実を受け止める方がよっぽど有意義に思えた。はやしは彼女を神格化していたのだろう。それにもかかわらず、もしもう一度、チャンスが回ってきたならば、それを掴めるという自信すらあった。それに、つかめなくとも、何度だって打席にたつつもりでいた。いつかホームランを打てればそれでいい。一回だけでも、ボールが客席に入ればその時点で俺の勝ちだとそう思って日々を過ごしていた。実際、林は二度ほどバッターボックスに立ったことがある。一度目は高校2年生の時だ。それまで中学校の男女数人のグループで遊ぶことが多かったのだが、高校に入ってからはあまりあわなくなっていた時、勇気を出して、デートに誘ったことがある。


デートは映画を見にいくという鉄板中の鉄板を企画した。メールでやりとりを済ませ、明日の朝、9時に駅で!と林はねた。次の日朝起きると彼女から、ラインが数件きていた。大丈夫?おーい。今日なし?と林が時計を見るともうすぐ10時になりかけていた。すぐに飛び起き、今すぐいくからちょっと待ってて!と連絡した。髪もボサボサで目脂だってついていたかもしれない。自転車に飛び乗り、下り坂にもかかわらず、立ち漕ぎをする。、太ももが熱く、痛くなり、重くなる。しかし、今、ここで足がちぎれたっていいと本気で林はおもっていた。好きなことのデートに遅刻するなんてことは、考えられなかった。駅の前の柵に自転車を乗り捨て、もちろん鍵なんてかけている時間はない。今一番大事なのは、いかに早く会えるか、いかに彼女の待ち時間を減らせるかだと考えていた。

 肩で息をしながら、彼女にあった。

ごめん!!!ほんまに寝坊してもうた。まじでごめん!そういう僕に彼女は、びっくりしたー!ドタキャンかと思った!と優しく笑いかけている。友達にもブッチされたかもしれないと相談していたようだった。林は怒っている様子を見せない彼女に何度も、何度も謝った。映画は時間をずらしてみた。とても面白かった。特に映画以外のデートプランを考えていなかった林は、どうしようと彼女に話しかけ、苦し紛れにショッピングモールをぶらついた後、帰宅することになった。あぁ今回のデートは失敗だったなとそう思い、せめてもの思い出に彼女の家まで送っていくことにした。幸いにも乗り捨てた自転車はその場に置いてあった。僕は自転車を押しながら歩いており、彼女は歩いていた、僕の左に歩いていた彼女が信号で、自転車のオレンジのハンドルを握り、ちょっとどこかに寄って行こうよと誘ってくれた。僕は思いがけない提案に、ぎこちなく、うんと返す。二人は、ある公園で三時間ほどおしゃべりした。授業がわからないだとか、数学が苦手だとかありふれた話をした。その中で、数学の三角関数がわからないんだよねという話になり、当時の僕は、数学は苦手であるけれど、教えてあげるよと去勢を張った。いいの?と話がとんとん拍子に進み、今度教えることになった。その日はそこで解散をした。林は彼女からは脈がないと思っていたので、嘘だろ、もしかしたらあるのかもしれないと気分が高まっていた。それから、林は学校が終わると塾に駆け込み、三角関数を徹底的にやり込む、一度目のデートの挽回をしようと、どこを聞かれても、スムーズに答えれるようにしようと頑張った。そして、約束の日が来た。場所は駅前のミスタードーナツ僕は先に入り、彼女から、ついたよの連絡を待つ、しかし、待てど、暮らせど、ミスド、食えど、彼女はこなかった。連絡を何通しても彼女からの返信は来なかった。一度目の打席は、一球目、ファールの後に、ピッチャーがマウンドから降りたようだった、そこでゲームセットだった。彼女が来なかったときに、林は、みっともなくおいラインをしてしまった。おーい、どこおるんー?ミスドで待ってるよなどだ。そして、その時から、二週間後に彼女から、ごめん、これ以上無視することはできなかった。と返信がきた。その時から、林は、今もこの返信を意図を読みてれていない。しかし、時間が経って少し冷静になったのか、軽く、わかった!というような返信をして、追いかけるのをやめていた。脈がない女の子を必要に追いかけるのは、嫌われる行動であると肌で感じたからだ。そこからしばらくは、その女性からは姿を隠した。姿を隠している途中ではあれど、林はその子を諦めることができずに、密かに狙っていたのだ。虎視眈々と。まさに虎のように息を潜めて、チャンスを待った、そして、そのチャンスは巡ってきた。二十歳の成人式で、再会するのだ。ここで林が、ずるいのが、SNSで彼女に連絡を取り、成人式に来るのか、来るなら写真を取ろうなどと、唾をつけていたことだ。結果、1番に彼女を見つけて、写真を撮りにいった。ありがとう!かわいい!なんて軽く言い、別の友達と写真を撮りに向かった。林はここでは彼女を追いかけるつもりはなかった。一度成人式の現場で会うことで、そうじゃない日にも誘いやすくすることが目的であった。当初の目的が達成され、意気揚々と懐かしい友達とはしゃぐ、中学校行こうと誰がともなく言い出して、向かうことになった。その様子をS N Sに乗せると、先程の彼女から、私も行きたかったと反応があった。林はすぐにおいでよと返した。本当の気持ちは、今すぐにでも迎えにいくから来て欲しいであったが、林は、慎重に、かつ余裕のある男性に見えるように、返事をすることを心がけていた。もう振袖は脱いじゃったから、いけないという彼女に、それなら、夜行こうよと提案する。それが功を奏し、成人式の夜、好きなこと夜の散歩デートが決定した。成人したことよりも喜んだ林は、同じくその子をかわいいと宣う大泉に話してしまう。すると大泉がついてきてしまった。なんでお前着いてくんねん!いいやん、幸せはシェアしようや!と言われ、確かにと少し納得し、自分がこのこと遊ぶ約束を取り付けたんだぞと大泉に誇示したいという欲もあり、許してしまった。結局3人の散歩デートになった。林はなんて馬鹿なんだと自分で自分を呪う。しかし、彼女のかわいさは衰えることなく、むしろ、おしゃれにもなって、一段と魅力的に見えた。月夜に照らされて、笑う彼女の目を見るたびに、林の視力は良くなっていき、笑い声を聞くたびに、聴力は研ぎ澄まされていった気がした。

数字日後、散歩に彼女を誘うと来てくれた。今度は誰にも伝えず、決行しようと心に決め、雰囲気次第では、告白することだって考えていた。彼女と恋愛の話をした。私は、蛙化するんだよねー。帰るか現象のことだ。好きな人が自分のことを好きなことがわかると、途端に気持ち悪く感じたり、嫌いになってしまう現象のことだ。最近では、少し冷める行動をしたときに、その人の全てが気持ち悪く感じたりすることを帰るか現象と呼ぶ若者が増えていると聞くが、そんなバカみたいなもののことではない。彼女は、高校生の時に一度、付き合ったことがあるそうで、ずっと好きだった人に告白されて、嬉しくて、付き合ったそうだ。そして家に帰った途端、気持ち悪く感じて、連絡も返さなかったという。しばらくして、そのまま別れたそうだ。これは困ったな、そう感じた林は、恋愛向いてないな!といじったりして、なんとか場を和ませようとしていた。また一度目と同じ公園で、チャンスを伺った。

どんな人がタイプなん?

優しい人がタイプかな

例えば?

声とか話し方かな

それから林は普通の話し声から、急に優しい声に変えたんだと気付かれないように、徐々に声を落ち着かせ、話しかけた。しかし、チャンスは訪れなかったように林はかんじ、告白するのはやめておいた。二度目の打席は、ファーボールのようなものだろうか、ストライクゾーンに入らないと告白というバットを振れない自分に嫌気がさしていたが、ボール玉をスタンドまで持っていける気はしない。ホームランでなくては意味がないのだ。そして林はまた姿を消した。彼女というピッチャーから、ホームランを打てるようになるため、修行をしにいくように、戻ってきてやると誓いを立てて、バッターボックスを後にした。




 お前まだ好きなん?と釣りに向かう車の中で、信号機の光が反射した顔で上原が言ってきた。あの日から、4回目の秋が来ていた。

当たり前、俺は一生好きやし、結婚するまで諦めへんっていうてるやんと少しニヤけながら返す。このニヤけはふざけているからではなく、少しでも軽くいことで本気度を伝わりづらくし、惹かれることを避け流ためのものだ。

留学前の彼女とはどうなったん?質問が続く。林は、一度戦力的撤退をしてから別の女性と恋愛をしていた。彼女とは、一年と10ヶ月ほど付き合った。とてもいい子であったが、留学という物理的距離は、全てを破壊した。結果、あっけなく終わってしまった。しかし、林は別れが決まった瞬間に悲しみよりも、先に小さな期待がきたことがわかっていた。これで、また打席に立てるかもしれないと。しかしそこからはなにも行動を起こさずに静観していた。林は、これは戦略であると思っている。彼女と別れた瞬間に連絡をしてくるような軽い男だと思われるのを嫌った。自分は軽い男であると思っている故の行動である。

前の彼女は別れてから、時々連絡くるけど、会ってないなと上原に正直に返した。会ってしまうと、なし崩し的に体の関係を持ってしまったり、元のカップルという関係に戻ってしまう恐れがあったからだ。今はクールタイムであることをアピールする期間なのだ。あの子が見ることができる林と彼女との投稿は全て消しているし、消してからずいぶん時間も経っている。彼女も林のことを気にしているのなら、今は独身であり、フリーであることは伝わっているはずであった。これらをかいつまんで話すと、

いつまで言うてんねん!と上原は笑う。

これまで何度も聞いてきたツッコミであった。

いつまでもと何食わぬ顔で答えた。

逆に、もし結婚したらカッコ良すぎやろ!一途すぎ!などとふざけたりした。

どこがそんなにいいん?

まず顔がドストライク。何度も聞かれた

いや、そんなかわいないって!

世間的には可愛くないかもやけど、俺はむっちゃ好きやねんもん!かっこいいことを言う。

顔だけ?

そんなわけない、声がいいし、笑かたがくそかわいい、ミステリアス。ほんとは全部好きだ。だがそれを言ったところで気持ち悪いし、伝わらない、否定されるのは目にみえている。俺の好きな人を否定されるのは、自分自身や、家族を否定されるよりも堪えてしまう。ましてや、まだ手に入れているわけでもない。俺は俺の中のあの子を守りたかった。

性格は?そう質問された。

んーわからんけど、多分いいやろ!とにやけながらいう。性格が悪かったとしても、俺に対して良ければそれでいいと思っていた体。

嫌いなタイプはなんなん、逆に。そう聞く上原にすこし考えて、男遊びしてるのに、清純ぶってるやつとかかな。なんか嘘つかれてるの腹立つし、なんとなくわかるし。遊んでるって。大体あんまりもの考えてないタイプやからアホみたいな顔してるねん。

言いすぎちゃう?と突っ込まれて、ほんまやと気がついた。自分ではそんなつもりはなかったがどうやら相当アホな顔している女性が好きではないらしい。


 釣り場に着いた僕たちは、早速車を降りて、荷物を持つ。竿を3本に、釣具が入ったリュックサック、大きなバケツのようなものに入った集魚剤、ヘッドライトをつけて堤防の先端まで歩く。二人で自分の荷物と、集魚剤を交代でもつ。集魚剤には、オキアミ3キロ、米糠、キラキラと光る主成分の分からない粉を海水をつなぎとして混ぜ合わせる。軽く見積もっても0キロはあるだろうか。それを片手で持つのは、なかなかにきつい。それも持って歩いてる時はトボトボとかわいこぶっている女の子のような歩き方になる。腕を伸ばして、肩と首の間の筋肉が伸び切り、熱さを感じると限界が近い合図であった。

朝の薄暗い堤防は、水色と紫の間のような空と暗い色の海が天地が逆転しているようで好きだ。

その日は、比較的釣れた日であった。ますは小さな針で、アジなどの小さな魚を狙う。それの背中に違う竿に準備した大きな針をかけ、遠くに投げ込む。大きな魚が食いつく可能性が高い仕掛けだ。もう一本の竿で先程の集魚剤を使うフカセ釣りをして、それに飽きると、俺たちはタバコを吸って休憩だ。これがいつものルーティーンであった。結果だけを言うと、鰤が一匹、チヌと呼ばれる黒鯛が二匹、あとは雑魚だ。俺のあたりは、鰤とチヌ一匹だった。その二つは持って帰って食べることにする。鰤を釣り上げた時、上原に網に入れてもらった。

針が網に引っかかり、それを解いている間に、上原がすぐに鰤を締めようとしていた。俺は、あっ、俺の! と言いかけてやめた。ところどころ赤茶色の錆がついたナイフで、勢いよく脳天に突き刺していた。鰤は痙攣し、体をよがらせる。動かなくなるまで何度も腕を振り下ろす。数度目で完全に動きが止まった。すぐにエラに傷をつける。真っ赤な血が流れ出して堤防に広がる。赤に混じって濃い紫も滲み出ていた。鰤の目は底が見えなかった。にもかかわらず、表面は水分で溢れそうであった。泣いているみたいだった。泣いている理由は痛かったのだろうか、死にたくなかったからだろうか。わからなかった。

帰りの車で眠くならないように会話をした。

お前、結婚しやんの?と結婚して2年目の上原が言う。

俺はしたいなぁ。したいのは本当だった。しかしその後に待ち受けるであろう問題に対処できる気概はなかった。

収入のいいし、すぐ見つかるやろと楽観視する上原を横目に、俺がすることを無意識に拒んでるんやと思った。口には出さなかったが。俺は、あの子のお眼鏡に叶わなかった時から、自分を磨くことにシフトした。就職も大企業と呼ばれるところには就職したし、できるように勉学にも励んだ。どこかが欠落しているから、あの子が選ばないと言うことは避けたかった。彼女に対しては完璧主義でいたかった。例え見えているところだけであってもそうありたかった。

じゃあ、今度合コンしようや!と俺がセッティングするからと半分ニヤけ顔で提案してきた。あの子はそんなんこやんやろ。と少々反対の意を示したが、彼はそこには触れず、きたら参加しろよと強引に話を進める。

えー、と答えを渋る。あの子が僕のことを合コンなどといううわついたものに参加するという偏見を持たれたくなかった。

ちんたらちんたらすんなよと少し強い口調で上原がいう。僕は、そうやけどと思い、彼を見ると、高速道路で右車線をゆっくり走っている車に対して怒っていたそうだ。左車線の車と目の前の車、その位置関係が斜めになった瞬間、アクセルが鳴る。早めにカッチカッチ、ウインカーを出す、グインと左にハンドルを切るやいなや、カッチカッチ、ウインカーを出す。グインと右にハンドルを切る。目の前の車線には、真っ直ぐ視界が伸びていた。女が運転なんかすんなよと時代錯誤的であり、的をかすっている発言には触れなかった。

と言いながら追い越した瞬間にハザードランプを二度を押す彼を、微笑ましく思った。




飲みにいこーと1ヶ月ぶりに上原に誘われた。特に予定もなかったので、了承すると、6時に集合することになった。上原と駅で合流して、いつもの居酒屋に向かおうとすると、あ、今日はそこちゃうねん。と言う。気分でも変えたいん、いいやん、ここが近場でいっちゃん安いやん! と詰め寄ると、これから前に言ってた合コンだという。しかもあの子が来ていると。なんで言わんねん、いや、言われていたら、緊張してしまっていたはずだ。さすが、俺のことをわかっているなと感心した。言うん忘れてたんや!と含み笑みを浮かべながらその後言われた。

なんだこいつと思った。なんやお前と言った。

個室の居酒屋についた。彼女はそこにいた。久しぶりだと言った。久しぶりだねと返された。

しゃべった。飲んだ。しゃべった。飲んだ。しゃべった。飲んだ。今度ランチに誘った。いいよと聞こえた。飲んだ。飲んだ。飲んだ。解散した。吐いた。ねた。吐いた。


朝起きると二通の連絡が来ていた。一つは上原からで、大丈夫かー?お前飲みすぎてたで笑

浮かれとったなぁ!どうなった?

もう一つは、あの子からで、大丈夫?しんどくない?とかわいかった。

俺は、一つ目の駄文に目もくれず、二つ目の、短歌に答える返し歌を考える。ここからだ。ここからはミスれないと覚悟を決めた。より、自然な時間で、返事を考えていることなど悟られず、それでいて、ほんのりユーモアのかおる、余裕ある返事を返す。頭をフル回転させる。まだアルコールが残っているのか、軸の崩れた独楽が回っていた。頭の中にいいい!

というか、昨日、ランチオッケーされてたくね?まじ?とテンションが上がる。よし!よし!よし!と小さい中では、大きいガッツポーズをして、切り替えて、返事を考える。この時のために、俺は自分を磨いてきた。異性に対する連絡もあの子に向けるように考えてきた。そこに特化した筋肉は鍛えられているはずだ。本番は練習のようにと言う格言を始めて意識して、かついい緊張感でラインをしていた。

勘違いしないでもらいたいのだが、彼女のラインは短歌であった。こちらに気を持たせるような、同時にこれ以上はダメだと結界を張るような絶妙なラインは美しく、まさに短歌であった。それを読むと、そのうまさに感心し、ゾクゾクする。まさにそれであった。



それから二ヶ月後、僕たちは付き合うことになった。これまでの対策が功を奏しにそうしまくった。バイオリンやチェロなどの弦楽器であったならば、掻き鳴らしていると言うほどだ。

告白は僕からで、じゃあ、俺ら付き合ってみる?と真剣な眼差しで伝えた。以前の蛙化現象にも最大限配慮を加えて、重すぎる告白では駄目で、付き合っちゃう?でもだめだ。特にちゃう?が。軽くも思われないように、かつ重すぎないところを狙った。無事に付き合えたからといって、安心はできなかった。家に帰らせて、冷静にしてはダメだ。と思い、策は売っていた。告白の返事を受け、そのまま僕の家に向かう。多少強引ではあったが、恋人という関係ならば許される程度であった。彼女の会社にも僕の会社にも通いやすい立地を選んで引っ越しておいた。彼女の職場を知った時からだ。つまり合コンのすぐ後だ。彼女の居心地をよくするために至ることをした。そして、彼女の様子でもう蛙化は、しないだろうタイミングで、それを緩める。それが最善であった。それは彼女という試験にハマった。傾向と対策の大切さを再認識した。

 そこから二人は幸せに暮らしましたとさ。特に僕は最上級の幸せを手にしたような感覚であった。どのくらい幸せかと言われれば、二度寝の数段上だと俺は答えただろう。寝てみる夢よりも、長年夢見た女性が隣にいる現実を生きたかった。


交際期間が一年を過ぎた頃、彼女がベッドに裸で寝ながら、隣にいる僕に聞いた。ねぇ、子供は何人欲しい? 熱気を体に纏わせているのに、冷たい汗がでた。んー。と考えているふりをしながら、ベッドからはいでる。換気扇の下までいき、換気扇をつける。ゴォぉぉと低音が響く。あれですか?ガンジータイムですか? にやけながら彼女が聞く。大半の男が経験したことがあるであろう。世界平和について考える時間、いや、むしろ世界平和以外に関心が向かない時間なのかもしれない。それを彼女はそう呼ぶ。笑って返事をする。

で?何人―?話は流れてはいなかったのかと落胆する。同じ質問を彼女に返す。私はー一人かな!お腹痛いの辛そうだし!と可愛く返事をする。俺は、出来たら出来た人数育てようと茶化す。どうせできへんし。という声は、煙と一緒に換気扇が吸い込んだ。

それもありだね!なんて彼女は笑う。俺は上手く笑えているのか気になって手で顔を覆うようにして触った。

爪の切られた人差し指と中指は臭かった。



付き合ってから一年間は、結婚しようと多くのペースで言っていた。まだ早いよーと言われることがわかっていたし、それくらい好きだと伝えるためでもあった。しかし、三年をこえルトその言葉が妙な現実味を帯びて、迫ってきている気がした。何か不気味なものが俺のすぐ後ろにピッタリと張り付いて、結婚しようと口にした瞬間とって食べられてしまうような恐怖があった。結婚をするとはこういうことか。と理解をする。それをするということは、今まで秘密にしていたことを暴露せねばならないということでもある。自分には子供を作る能力がないこと。生物として正しいことが不可能なこと、君に子供や孫の姿が見せてあげられないこと。それらを伝えなければならない。伝えた上で、一緒になってくれるのか判断を相手に託さなければならない。俺はこの子のことが好きでたまらなくて、死ぬまで隣にいて欲しいのだ。僕たちはもう二九歳になろうとしていた。いや、彼女はすでになっていた。収入も安定している。家事だってどちらも得意であった。同棲期間も長い。不満はない。いまだに好き。愛している。これだけの条件が揃い結婚に踏み切らないのは、不自然ですらあった。覚悟を決めよう。彼女を俺のものにしよう。




春の、息吹が、感じられる、今日。俺は、あの子に、プロポーズを、する。俺の頭の中で、卒業式を迎えた中学生がひとりずつ大きく、短く発音し、長い時間をかけて文にした。

プロポーズのお決まりといえば、高級レストランでディナーをしてからだ。とか、ディズニーランドのシンデレラ城の前でだとか。そう言ったものを彼女は嫌がるだろうし、嫌だと言っていた記憶もある。頭を悩ませる。これまでの傾向で言えば、大掛かりなもの、人の目が多いところ、キザすぎることなどがNGであるはずだ。しかし、平々凡々な面白みもないプロポーズをしてしまうと、ガッカリとまではいかないが普通だねと思われるという予想もついている。好きな女につまんない男と思われていいわけがない。いつまでだって掴ませない面白い男でいたいのだ。

週末、二人の趣味にしたキャンプに出かけることになった。同じ趣味がある方がいいじゃんねと彼女が言ったからだ。それにキャンプというのは、僕の肌に合っていた。自然が好きで、ゆっくりとした時間が流れているあの環境は日々の仕事の疲れを癒やし、面倒な人間関係を一時的忘れさせてくれる。そこが好きなだ。冒険的なことが好きな彼女のおかげで僕たちは、キャンプ場には行かなかった。Googleマップの衛生写真を使って、キャンプができそうなところを探していく。そして、誰もいない自然の中で食事をする。それが彼女は好きだった。私たちの独り占めだよ! 二人占めかなんて笑っている彼女は、美しいと感じさせた。壮大な自然の中でも一際輝いていた。

 その日も彼女が探してきた山の中の湖に向かった。湖の辺りで飲むコーヒー、タバコ、想像しただけで幸せホルモンが出た。車は山道の少し広くなっている道路に止めた。車も来ないだろう。少しそこから歩くが良さそうだと彼女は張り切っている。山道を通る。獣道を歩く。荷物が木に当たる。小川を超える。また歩く。しばらくすると目の前に光に反射して、白く光る水面が合った。僕たちは、すぐその水面をピントの合ってない無数の木々なしで見たくなる。早足になる。パキパキ枯れ枝を折る音がする。目の前が開く頃には僕たちは肩で息をしていた。だがついた。しばらく無言で湖を眺めた。やっとついたね! 彼女がキラキラと眩しく笑った。早速、設営を始めた。設営といっても、椅子を二つ向かい合わせて、真ん中にキャンプ用のガスバーナーを置くだけであった。みる人がみれば、キャンプではないのかもしれない。だが二人にとってはキャンプであった。それでよかった。先程脱いだ上着を椅子にかける。彼女のリュックの上に畳まれた上着ももう一つにかけておく。椅子に座り、一服を始める。ガスバーナーで湯を沸かす。コーヒーはスティックのやつだ。ここで飲んだらなんでもうまいと心の底から思う。コーヒーを淹れたカップは少し暑かったが、我慢できる。これ以上の幸せがあるのかと本気で考える。ないなと結論づけ、「ない」と呟く。俺がコーヒーを淹れている間、彼女は基地の周りを探索していた。ちょっとあっち行ってくるね!きーつけやーという会話をしたばっかりだった。

 大小の木々の壁の向こうから小さく、短い。しかしながらよく通る声で、きゃっ!! 

と聞こえた。俺は全速力で走った。クマか?猪か?怪我?とさまざまな悪い予想が簡単に浮かんでくる。それを振り払うように走った。迫り来るたくさんの木をリズムゲームのようにするりするりと交わしながら一つも当たることなくたどり着いた。大丈夫か!!という俺の声にびっくりした彼女がまた小さく悲鳴をあげる。なにーおどかさないでよと座っていた。俺は少し安心し、怪我したん?と詰め寄る。こけただけとなんともないという。彼女のいたところは森に囲まれた円のように開けていた、ここ沼みたい!とどろどろの靴をズボっと土の中から出してみせた。

足を取られてこけたのかと考察する。彼女を助けたいが、ミイラ取りがミイラになるわけにもいかない。土が硬いギリギリところまでいき、手を伸ばす。彼女も手を伸ばすがあと数センチ届かない。そこで足を揃えて、重心は後ろに残し、手を伸ばす。体の形は、高校生の告白の返事待ちのようだった。彼女が俺の手を掴む。とその瞬間、おりゃと聞こえ、体の半身は地面の中に消えた。隣で、彼女がキャキャキャと楽しそうに笑っていた。ミイラとりは見事に取られた。体の半分が死んだ今、もう怖いものはなかった。彼女が逃げようと足をズボ、ズボならしている後ろ姿に、猪のように日大タックルをかます。太ももを掴まれて次の足が出ない彼女はそのまま前に倒れた。手をついたが肘までは埋まってしまっていた。やったなーと笑う彼女の顎の先に少しだけ泥がついている。俺は爆笑した。そんなちょび髭はこの世にないわ! と突っ込みながら彼女の泥攻撃を回避する。俺も負けじと投げ返す。顔と頭は狙わずに。二人で走り回ったせいで、沼はボコボコになっていた。彼女も疲れたみたいだ。僕の前に座りこんで笑っている。僕は彼女を足で挟むように膝を伸ばして座った。お尻が冷たかった。彼女は僕の方へ近づき、僕は押し倒された。二人の顔が近づき、鼻の頭同士が当たる。俺は目を閉じる。彼女は泥を隠し持った両手で僕の顔になすりつけた。まじか、やられたと言う俺をみて、彼女は悪戯っぽく笑った。

「結婚しよう。」と気がついたら、口に出していた。彼女は驚き、少し離れる。本気?と少し笑う。本気だよ。なぜか関西弁が抜ける。戸惑いながらも近づいてきた。彼女は誰にも聞こえないようにこっそりとよろしくお願いしますと微笑んだ。

婚約したてのキスは泥の味がした。




誰もいないことをいいことに、二人は湖で体を流す。パンツの中まで泥がついていたので、全裸になり、泳いだ。流石にこれは男子の特権だな。なんて思い、振り返ると彼女も全裸でこちらに泳いできていた。僕はまたお腹が捩れるほど笑った。あぁ結婚してよかった。心底そう思った。

 水に入ろうと思える瀬戸際の気温だったため、水から出ると寒かった。彼女は徐にバスタオルを出す。2枚。薄く畳める着替えを2枚。俺は恐ろしくなった。彼女の有能さと抜け目なさに。本日二度目の気持ちを味わった。僕の秘密を彼女に伝えよう。それでも結婚がしたいと伝えよう。僕はそう決めた。


どうやって伝えよう。なんて言おう。そんなことばっかり考えながら車に戻る。

帰り道は木が多かったように思う。荷物も体も何度もぶつけた。



 家でご飯を食べていた。結婚するにあたり、自らの秘密を打ち明ける必要があった。ご飯は完成後に水にさらしたような味がした。少しの沈黙の後、声を発した。

あのさ、と二人でハモる。先どうぞと笑う。

いやぁ、幸せだなって思って、私今まで言ったことなかったけど、早く結婚したかったんだよね! 年齢的にもだし、子供も絶対欲しかったし!と無邪気に笑う。嬉しかったなぁと思いを馳せている彼女を前に僕はご飯に塩をこれでもかとかけた。

彼女は、次は俺の番だというようにこちらを伺っている。

「あぁ、おんなじこと考えてた。今が一番幸せかも」なんて戯けた。

僕は言えなかった。子供が欲しいと目の前で無邪気に笑う最愛の人に向けて。自分に子孫を残す能力がないことを。言うべきだった。だが、幸せな今の時間を失うことになるかもしれない。彼女を失ってしまうかもしれないと言う恐怖は、俺の喉を締めた。いづれ、なかなか妊娠しないことに気づき、二人で病院に検査しに行くだろう。その時に僕の持病について彼女は知ることになる。その時までは、何も言わなくてもいいのではないかという考えも生まれた。自分も元々知らなかったことにすれば、この罪悪感は薄まるはずだ。。僕は言わなかった。いつかくることになる。エックスデイまでは二人で幸せに暮らそう。たとえ別れることになっても、彼女と過ごした数年間を大事にして生きていこう。それでいいのではないかと。それが本来通るはずの道であったのだと思うことにした。これは嘘ではないと思っていた。事実を黙っているだけ、隠しているだけ。そもそも自分以外はこのことを知らないのだ。僕が忘れていたといえば、黙っている、隠していることにすらならない。僕はそう自分を正当化して、罪悪感を少しでも減らした。


罪悪感を抱えながらにするセックスはよくなかった。ゴムなしでする喜びも次第にうすれてしまい、彼女が子供を望んでいる目をしながら僕の下で揺れていることが悲しかった。と言うより、彼女の期待に答えることができないことが悲しかった。とはいえ、僕は彼女を抱いた。一人でするよりは手間も時間もかかるが、これは旦那である私の義務であろうと、近い将来、僕の状態を知って彼女をもう二度とだけなくなってしまうかもと言う焦りも相まって、抱いていた。やはりセックスは気持ちがよかった。次第に抱いていた罪悪感をもうまく隠すことができるようになっていた。自分ですら認知しない場所に。

そうなると僕は、ただ愛している人と暮らし、適度にセックスをしていることになる。幸せではないか。彼女に大きな秘密を黙っていると言う点を除けば。

 しかし、時間が経つにつれて、彼女が子供のできない焦りを感じ始めているのだと言うことを察した。僕はどうすることもできなかった。そのプレッシャーに耐えかねて、行為を断ることも増えていた。週に4回はしていた結婚当初に比べて、週に一回、ひどい時は二週間に一回と言う頻度に落ち込んでいた。世に言うセックスレスと比べれば、まだマシであるのだろうが、30前後の男女にしては少ないのではないかと感じていた。月に一度、彼女は排卵日だという日は決まって、黒のランジェリーを着用していた。僕が好きだと言ったことがあるからである。子供ができやすい日にわかりやすく気合いを入れる彼女をかわいいなと微笑ましく思うと同時に情けなくも感じた。彼女の気合いは、イコール僕への期待でもあったからだ。僕は黒のランジェリーが嫌いになっていた。黒のそれを見ると、行為中の彼女の潤んだ目が思い出された。期待と焦りと情けなさと気持ちよさ、それら全てが持つ色が混ざり合って黒になっているのだと錯覚する。子供ができないことを知っているのは、世界で僕一人であり、僕がしっかりとしていればそれが明るみに出ることは絶対にないが、それはつまり、それを隠し通す罪悪感などのどす黒い感情を全て一人で背負うことになると言うことだ。それは積み重ねるほどに大きく、重く、黒くなっていった。僕は押しつぶされると感じた。初めて排卵日に僕はセックスを断った。仕事で疲れてるから、ごめんと、世の中の男が断る時のセリフの第一位だ。みんな断る理由を探して、彼女を傷つける可能性が低く、最らしい理由を探すと自然にこれにたどり着いた。世の男が言うセリフの背景を初めて理解した。そこから、彼女との行為は激減した。月に一回あればよかった。こちらから誘っても、この前は断ったのに?と言うように背を向けて寝続ける。セックスというのは、夫婦間を円滑にする外交官であった。外交官のいない国同士が平和を誓っても、裏では兵器が作られているように、妻という国とこちらでは冷戦が繰り広げられていた。それでもたまにあるセックスの後は、どこか雰囲気が和らいだ。サッカーの親善試合のようなものだろうか。お互いの選手がフェアプレイに努めれば、相手国の国民に少しは認められるかもしれない。そう、少しでもいい。僕はフェアプレイヤーになった。ラフプレイはせず、丁寧に、滞りなく攻め、守る。それでいて真剣に勝負をした。好かれるために、認められるためにしていると悟られないように。行為が終わり、僕はベランダに出てタバコを吸う。以前は、換気扇の下でのみ、吸うことを許されていたが、今ではベランダに追い出されてしまった。僕の国土は侵略されたのかなんて思った。風が冷たい。ベランダに干された洗濯物に混じって、真っ黒のランジェリーが揺れていた。



僕は犬を買おうと思った。妻との関係を修復したかったからだ。何かの共同作業をすることで自然と会話は生まれ、コミュニケーションやスキンシップも増えるだろうという思惑があった。それに、子供ができないことが分かっても、子供の代わりに可愛がることができるし、離婚のストッパーになる可能性が高いと考えたからだ。利用できるものはなんでも使う方がいい。彼女がいなくなってしまうことを考えるとなんだってできた。

会社が終わってペットショップへ迎えに行く。彼女には内緒だ。空気穴が空いた小さな段ボールをかかえて、車に乗り込む。助手席に優しく置いて、穴に指を突っ込んだ。すはすはと穴の奥から聞こえてくる、指先が少し濡れて冷たい。鼻が当たったのだろう。家に帰ろうと指先を服で拭ってから、エンジンをかけた。彼女は動物が大好きだった。特に犬が好きなようだ。昔は実家で買っていたそうだが、亡くなってしまってからは、また死んでしまい悲しむのは嫌だという理由で、買うのを我慢していたらしい。喜んでくれるだろうかと考えていたらすぐに家についた。鍵を開けるとふんわりとご飯の匂いがする。炊き込みご飯だ。妻の名前を呼ぶ。おぉおかえりーと声だけが聞こえてきた。穴あきの段ボールを抱えてリビングに向かう。彼女にいつもありがとう、プレゼントと言って机の上に段ボールを置いた。え、なになに! とタオルで手を拭きながらキッチンから出てきた。段ボールの穴が見えた瞬間、生き物であることは察しているだろうに、なんだろうーという優しさが彼女のいいところだ。蓋を開けると、薄茶色の毛玉のような、小さい塊が動いていた。すぐにこちらを見上げた小さなゴールデンレトリバーを見て彼女はとても喜んだ。え!!かわいい! 何で!?ありがとう!と何度もそういった。抱っこして箱から出して膝の上に乗せる。膝の上は安定しないのか犬は、嫌がっている。犬になれた手つきで撫でている妻はもう懐かれたようだった。名前はどうしよっかと視線は犬に向けたまま話かけられる。そうだな、ご飯食べた後に決めようかと提案する。そうだねと彼女は犬を僕の膝に写し、キッチンに入っていった。僕は、犬の前に手をかざした。匂いを覚えてもらうためだ。スンスンと近づくが膝の上でバランスが取れないのか少し揺れている。犬の濡れた鼻が指につく。また濡れてしまった。体を撫でるついでに指先を拭く。名前はどうしようか、ご飯ができた。僕の膝に乗せたままご飯を食べた。少しでも犬にとって居心地がいいように、太ももの角度を並行にするために椅子に座りながらの爪先立ちをしていた。

名前は、さちにした。幸せと書いてさち。彼女と決めた。彼女は今この状況を幸せに感じているのだろうか。それとも幸せにしてくれという願いを込めて幸なのだろうか。

 幸が来てからは、僕たちの会話がぐんと増えた。二人とも家にいる時間が自然と長くなったし、笑顔も増えたように感じる。彼女とのセックスもそれなりには増えた。最近は、排卵日であっても黒のランジェリーは着ていなかった。代わりにノーブラやタンクトップとブラが一緒になっているような下着をするようになっていた。僕はそっちの方が都合が良かった。やっと分かってくれたのかと彼女が僕のことを理解してくれたのだと思った。


幸を連れて、キャンプに行くことになった。以前、婚約を申し込んだところだ。少し歩いたよなと思い出し、少し億劫になった。彼女に伝えると確かにねー幸もいるしねと言って、キャンプ場を提案してきた。キャンプ場に行くのかと少し驚いたが、幸もいるし、ペット可能な場所ならキャンプ場の方がいいかと納得すると同時にほんの少し寂しかった。

二人とも久しぶりのキャンプであり、一匹にとっては初めてのキャンプだった。僕たちは前日からテンションが上がり、なに作る! 何食べよ! 何持っていく! など様々なことを相談しあう。ソファに二人が並んで座り、幸が二人の足元に寝そべっている陣形だ。二人の話が白熱すると、幸は起き上がって尻尾を振っている。それを見て妻は、「起きたの!起きたの!」と子供が起きてきたときにいうような声色で話かけ、彼女の白く、程よい肉が乗った両足のふくらはぎ付近で幸を挟み込む。幸はなにこれといった表情で彼女を見つめているが、嫌がっている様子はなかった。僕はこの光景をずっと眺めていたいと思った。

「愛してるよ。」口に出してみた。溢れ出たという方が適切だ。

「え?」と聞き返される。

「愛してるよ。」ともう一度真剣な眼差しで伝える。恥ずかしさはもちろんあるが、それよりも堂々と伝えたいという思いが強かった。

「え?ありがとう」と戸惑い、微笑みながら彼女は礼を言った。僕が伝えたかったから伝えたのだ。彼女からの働きかけがあったわけではない。これは僕の自己満足だ。

だから彼女からの「私も愛してる。」がなかった事には気づかないふりをした。

キャンプ場に着くと、まずはテントを広げた。新婚当初から僕たちのキャプは進化していた。今回は前回から期間が空いたが、体はテントの組み方や薪のくべ方を覚えていた。

幸のための椅子を広げ、水飲みを用意する。二人と一匹は手分けして、ささっと準備をした。僕は、火を担当し、彼女は、野菜のカットなどのキャンプ飯の仕込みを、幸は二人の分まで、ぼーっとすることを。夕方に差し掛かっていたので、ご飯を食べた。ご飯は、鉄板で焼いたステーキと飯盒炊爨で炊いた白米だ。シンプルであるがこれが最高という言葉では足りない程に美味しい。あぁ幸せだなと思うと同時に僕の爆弾が爆ぜた時、この家族は吹き飛んでしまうのかと想像した。僕ら家族が解体されない可能性ももちろんあることは知っていたが、実際にそうなってしまった時にそんな楽観的な考えでは精神が参ることは目に見えていた。想像するなら最悪を想像する。少しでも自分が傷つかないように。空中ブランコで失敗した時のためにゆるく張り巡らされた網目の粗いネットみたく。たとえ落ちたとしても、死に直結しないために。

 妻は僕の考えていることなど、知らぬ様子で幸とキャッチボールをしていた。キャッチボールと言っても、妻がテニスボールを投げて、幸が尻尾をふりふり取りに行く。口に咥えた温く湿ったボールを妻が受け取り、また投げる。僕は、いつまでも見ていられるなとココアを飲んだ。妻が投げたボールが遠くへ転がっていった。思いのほか飛んでしまったような顔だ。幸はボールの行く末を見届けず、この辺りだろうと当たりをつけて走っていった。ボールは、ふたつ隣のキャンプスペースに入っていった。男性が一人でキャンプをしているのが見えた。妻は、素早く立ち上がり、追いかける。幸!幸!と少し叱るような、押さえつけるような声を出した。だが、走っている幸の耳はぺたんぺたんと時々蓋を閉じている。僕も素早く駆け出し、謝る心の準備を始めた。幸は人見知りなのだ。それも極度の。幸が女性だからであるのか、女性に柔和な雰囲気を感じているのかはわからないが、男性には少し激しく吠えるのだ。僕は吠えられることはなかった。子供の頃から見ていたからだろう。

案の定、転がってきたボールに近づく男性に幸は吠えた。お前が嫌いだとでもいうように敵意剥き出しの目と牙で。幸い、男性を噛むことはなかったので、快く大丈夫ですよーと言って許してもらえた。あの形相で襲われたら、僕は立ち向かえるのか。他人のペットを、他人の子供を咬み殺そうとしたら僕は幸を殺してでも止められるのだろうか。

僕は要らない心配をした。

もし僕らの子供なら僕は幸を殺せるのだろうか。僕は要らぬ心配をした。



すっかり盛り下がった妻はキャッチボールをやめ、椅子に座り幸を撫でている。

もうボールは見えにくくなっていた。





先週のキャンプを終えて、妻もキャンプ熱は再熱したらしかった。今週も行きたい!と言い出していたからだ。僕は週末、泊まり込みで出張があった。彼女はそれならしょうがないねと潔く引き下がってくれた。妻はいままでも、僕の出張などの会社の用事に深い理解を示してくれていた。記念日であっても快く送り出してくれた時は、申し訳なさと少し驚きがあった。出張は、大したことをするわけではなく、取引先のお偉いさんと少し会議をし、食事をするということだけであった。それをする意味はわからなかったが、出世には必要であると上司に念を押された。取引先との食事は楽しくなかった。当然だ、やることなすこと相手を気遣い、立てながら、場の雰囲気をよくするように立ち回る必要がある。喉にまで出かけた言葉をお酒で流し込むことは、一、二回では済まなかった。帰ったら、癒してもらおうと心に決めた。


家に帰ると、妻がご飯を作って待っててくれた。献立は、僕の大好きなとんかつである。トンカツを食べるとすぐ僕は妻を抱いた。久しぶりということもあり、すぐに果ててしまった。   動いてる途中では、一回出して、もう一回しようと心に決めているのに、出してしまうとその決断はすぐに力を無くす。まるで高らかと尊大なマニフェストを掲げ、当選した瞬間、なんの話ですか?と言った顔をする政治家のように。そうなることを分かっていて、僕はそのことを口に出して伝えない。妻を抱いて後戯をしてからタバコをすいにベランダに向かった。外はもう暗くて、街灯の灯りが少し眩しい。吐き出した煙は少しまとまってから拡散した。黒のランジェリーが干されていた。僕のペニスは元気を取り戻しかけていた。

タバコから戻って僕はもう一度妻を抱いた。一度目より激しく、乱暴に、雑に。彼女は一度目と同じように喘ぎ、イっていた。




「幸せなん?」と釣りの帰りに上原がいう。今日の釣果は何も釣れなかった。幸せなんかなー。幸せやと思うで」と返す。上原は妻とうまく行っていないらしかった。徐々に言葉の語尾が強くなっていて、自分の意思を通すことが難しくなっているそうだ。うちはそんなことないなと思いながら、話を聞く。

「なんか子供できてからさ、二人の時間も減るし、子育てだってやってるつもりやけど、俺らは仕事もしてるやん? お前に比べれば育児に時間あてれてないけど、それでもやってる方やろって思うねん」、間違ってはいないなと思った。「そら、育休取れればそれが一番いいけど、今大事な期間やしそんな簡単に取られへんよな。それで俺が子育てに参加しない悪人みたいな感じで思われるのめっちゃ腹立つねんな」と上原は続ける。「確かにな、それむずいよな」と当たり障りないことを言う。自分には無関係なことだし、これからもない。それはとても贅沢な悩みなのではないかと思った。ので言った。「でも贅沢な悩みちゃう?うちなんかまだ子供できてへんし、作ろうとして嫁も焦ってピリついてる感あるで、子供おるだけマシちゃん」 

「贅沢な悩みなんかないで。悩みは悩みやし、状況なんか関係ない。例えばさ、むっちゃ可愛い子が顔がちょっとだけ大きかったらいいなと悩んでてさ、俺らやったら贅沢やと思ってまうかも知らんけど、その子にとったら、それが原因でなんか怒ってるんかも知らんし、コンプレックスで精神を病むかも知らんやん」と少し考えて上原はいった。

「そんな些細なことで悩める時点で、贅沢なんじゃないん?とか言う揚げ足取りはなしな。」まさに言おうとしてたことに蓋をされた。「お前のも俺のも側から見たら些細やし、正直全部しょうもないことはわかってるけど、自分にとってでかいと思ってるから困ってるわけやん。それは贅沢な悩み、これは質素?な悩みなんか決めるもんじゃないやろ。」

少し意見したら、十倍で帰ってきた返答に押されながら、確かになと力ない返事をした。

お前は幸せじゃないん?と聞いてみた。

「んー幸せとは言われへんかな、ことあるごとに喧嘩するし、イライラすることも多いからなぁ。」

なるほどな。夫婦の形はさまざまあるのだと言うことを実感し、妻を大事にしようと再認識した。そんな話をしていると妻から一通のラインが入っていた。


何時に帰ってくる?とのことだ。僕は「もー帰ってる途中!あとちょっとやで。」と返事をした。

今日のご飯は、豆ご飯にステーキです!!!と変なスタンプが送られてきた。僕の大好物だった。一見、会わないように感じるかもしれないが、好きなものと好きなものの組み合わせなので関係がなかった。テンションが少し上がった僕は、変なスタンプにクスッとしながら、僕の持っているスタンプの中で一番変なスタンプを探して送った。その様子を目の端で感じていた上原がお前ら幸せそうやなと笑っている。あぁ、これは幸せだなと思った。

 早く帰ってきてねと妻からラインが入っていた。






妻が妊娠した。俺に子種はない。

それを妻は知らない。

いただきますの前に話があります!と妻が言うのでどうしたんだろうと思っていたら、妊娠していたらしい。体調がすぐれなくて、病院に行ってみたらそうだったらしい。僕は自分の置かれている状況を把握しようとした。俺には子種がない、はずだ。妻はそれを知らない。が、妻は妊娠した。じゃあ浮気か。他人の子供ができたのか。他人との子供を俺との子供だと言うことにしようとしてるのか。バレないと思っているのか。それを喜んで、ウキウキした様子で馬鹿みたいに報告しているのか。高速で頭の中を巡る。

「どうしたの?子供だよ!やっと!」

「嘘だろ?」と半笑いで答える。

「ほんとだって!」とても笑顔だ。俺に子種がないことを伝え、激昂するのか。しかし、そ

れをした結末は俺の元から愛する妻がいなくなるのは目に見えている。それとも妻の浮気に気づかないふりをして素直に喜ぶのか。迷っている暇はない。今ならまだ、妊娠にびっくりして言葉が出なかったという言い訳が効くだろう。急げ!と自分に言い聞かす。少ない時間でできるだけ未来がいい方向へ行くようにしなければならない。

俺は妻に悟られぬように、肩を動かさないように気をつけ、小さく深呼吸をした。お腹だけがゆっくりと膨張し、収縮した。

「まじ!やったー!!おめでとうやな!!でかしたぁぁあ!」と今までの間を埋めるように大きな声ではしゃいでみせた。妻は安心したような表情をわずかにして、笑顔で僕に抱きついた。僕は、妻を失うことの方が嫌だったらしい。他人の子供を孕んだ女でも愛してしまっていた。どうしようもなく。しかし妻が浮気をするなんて考えられなかった。僕たちはいかにも幸せな夫婦という感じであると自負していたし、友達からもそう言われていた。この生活の崩壊をかけて浮気をするのか、それほどまでにメリットがあったのか。僕は傷つきそうだったので考えるのをやめた。わざわざ飛んで火には入らない。虫でもあるまいし。僕は妻の背中で歯を食い込ませながら泣いていた。泣いている本当の理由はその本人だけのものなのだと知った。

これから名前を考えたり、性別を予想したりとたくさんの残酷なイベントが目に浮かんだ。それらを、たのしみ、面白がり、子供を待ち遠しがるフリをしてクリアしていかねばならない。少しでも違和感があれば彼女は気づくだろうし、子供のことを考えないダメ夫だと思われて嫌われてしまう可能性があった。僕が嫌うのはいいが僕が嫌われるのは嫌だ。ハイレベルなイベントをそつなくクリアする、これからのことを思うと焦点が遠くなり、少し寒くなる。彼女の周りを一周する腕に触れると、自分の肌はざらついていた。妻も涙ぐんでいたが、それが何を意味する涙なのかわからなかった。



月日が経つにつれ、お腹が大きくなっていく妻とそれを労るふりをする自分を第三者目線で見ると幸せそうだった。

うん、これでいいのだ。と正当化するしかなかった。

時間はたくさんあったので、もう一度精液の検査に行っていた。結果は変わらず子供を作ることができないと伝えられた。妻の浮気が確定した瞬間であった。意外にもショックは小さく何食わぬ顔で過ごせていたように思う。最悪の場合を想定することの唯一のメリットがこれなのだ。そういえば、心境も変わったのだった。僕は妻を愛しているし、変わらずに愛し続けるだろうが、そんな当たり前のことではない。妻の中にいる子供についてだ。最初の数ヶ月は、僕の愛する妻から栄養を奪って成長する寄生虫を妻のご飯に薬でも混ぜて殺してやろうかとも考えたが、今は全くそんなことを思わない。虫だとも思っていないし、元気に生まれてきて欲しいとすら願っている。本来なら、僕と妻の間に子供は存在しなかったのだ。そこに子供だけが加わるなんて、なんて都合が良いことなんだと考えるようにしたからだ。幸い、本当の父親は、妻の元を去ったようであったし、僕が自分の病気にさえ気付いていなければ、ごく普通の幸せな家族であった。子供が自分の子供ではないと言う一点に目を瞑れば、これからだって暮らしていけるだろう。子供がいることで、妻は僕の元から簡単には離れないだろうし、夫婦の関係が悪くなった時のための頑丈なセーフティネットになってもらおう。養育費はかかるが妻には変えられない、保険料みたいなものだ。と割り切ることにした。

それからは気持ちが落ち着いた。自分の気持ちに蓋をするだけでいいのならそうする。だからそうした。


妻の陣痛が始まった。すぐに病院につき、分娩台に彼女が乗せられた。かねてからの彼女の希望で立ち会いをすることになっていた。僕は彼女の手を握るが、それ以上の力で握り返された。正直、相当痛かった。僕は少しして彼女の手を離した。汗ばむ手汗、握られて痛む手、嗅ぎ慣れない匂い、全てが不快であった。これが自分の子のためであったなら、何百時間でも手を握るのだろうかなんて考えた。頭が見えてきましたと先生が言う。僕はその光景を少し離れて眺めた。彼女の入れるところから玉が出てきているようだった。到底出て来れそうになかった。それにあまり興味もなかった。もう一度手を握りにいく。これは出産時に手を握っていてくれなかったと後で言われないための行動だった。よく出産の痛みは、鼻の穴から、スイカを出すぐらい痛い。つまり想像を絶する痛みであると言う表現がされるが、女性器は鼻の穴よりも大きいし、スイカは赤ちゃんよりも大きい。これは比喩として間違っているのではないかと思い始めた。女性が出産の痛みを大袈裟に、男性に負い目を感じさせるために作った比喩なのではないかと思った。かといって、すぐに未体験の痛みを表す語彙はなかった。どれぐらい経っただろうか、体は妻を思いやる旦那をしつつ、心はここにあらずと言った感じで、あまり覚えていない。そろそろ座りたいな、と思うぐらいの時間は経っていた。おぎゃ、おぎゃあ、おぎゃあと聞こえ、手の痛みはなくなった。僕は赤ちゃんを見に行くと、大事そうに抱えられたものがあった。濡れていて、所々ぬるぬるしていた。素直にきたねーと思ったが、それと同時に命ってすごいなとも感動した。妻を褒めて、一緒に喜んで、一通りそれっぽいことを済ますと妻はすぐに寝た。その隣で椅子に座って考える。

女性器ほどの大きさの穴は、喉くらいだろうか。あとはそこから何を出すかだな。


そのまま寝落ちしてしまったようだ。眠い目を擦ると隣で妻が笑っている。ねえ名前どうする?

そう聞くのは生まれた子の顔を見て、候補の中から選ぼうと決めていたからだ。候補は、健一郎、こう、冬、だった。僕はなんでもよかった。考えているふりをして、彼女が選ぶのを待った。

じゃあ、「せーの!」で言おう!彼女が提案した。困ったな、なんでもいい。

せーのっ

「冬!」

こう!と声を上げた瞬間にミスったと思った。そっちかぁという感じだ。

え、こうっぽい?絶対冬だよ!なんて戯れあって名前は冬になった。秋に生まれたのに。

病室の窓から見える木は、かすかにオレンジがかっている程度で、葉っぱは一つも落ちていなかった。まぁいいかと思っていたら、不意に思いついて、あ、ラグビーボール、ちょうどかもとつぶやいてしまうと、妻はなんの話?とアホな顔で聞いてきていた。

何にもないよと優しく伝えた。喉からラグビーボール。十分死ねるな、どちらにしても死ぬなら、やはり鼻からスイカの方がいいか。なんて思ったりした。

家に帰ってもう一度寝よう。長い夢なら、それでよかった。





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