第一章 魂の器⑧
ふわりと、緑色の風が鼻腔を抜けていく。
辺りを見渡せば、子どもには充分な広さの草原が広がっている。
太陽は真上にあって、天気も雲一つない快晴。
なのに少しだけセピア色に感じてしまうのは、今の私の置かれている状況からだろうか。
「おねぇちゃん、はやくごはんたべようよぉ」
はっと、前を見る。
その声の主は、ポカンとした顔で私を見ていた。
ラウネだ。
私の妹だ。
無造作に、右手を動かす。
地面に付いていたそれは、確かに草と土がそこにあるのを感じ取っていた。
「…うん、用意するからちょっと待ってね」
私は今、間違いなくここにいる。
「わぁ、パンだ! おかあさんのいつものやつ! いただきまぁす!」
「ラウネ、ゆっくり噛んで食べるのよ」
一時間という短い間に出来ることなどたかが知れている。
クレアルドさんは、神隠しは起きると言っていた。
決まっている事だから、と。
だから、悔いのないようにね、とも。
例えば、私がラウネをずっと抱きしめて離さなかったらどうなるのだろう。
このまま一緒に家に帰る事だって出来る。
そうするとどうなるのだろう。
それでも、神隠しは起きるのだろうか。
分からない。
「おねえちゃん、おかあさんみたいなこといってる! おかしーの!」
そう言って元気に笑っているラウネを見て、私もつられて笑ってしまう。
…そうだ、私は…。
私は、この笑顔が見たかったんだ。
リルさんは言っていた。
楽しい時間を過ごして下さいねって。
きっと、そういう事だ。
一時間という短い間に、精一杯の思い出を作ろう。
そしてそれを、ずっと心に閉まっておこう。
大切に、宝物として。
死んでしまいたい程の後悔と、何も出来なかった無力なあの時の自分へ。
大人になった私に出来る事を、あの時の自分に返そう。
「はい、ラウネ。こっちのパンも食べてね」
「むぅー…、ラウネ、このおやさいきらい…」
「好き嫌いは駄目よ。お父さんとお母さんも言っていたでしょう?」
「でもでもおとうさんだってすききらいあるもん」
「そうだね、お父さんも好き嫌いあるよね」
「そうでしょ! だからラウネもこれはたべない!」
「あら、でもお母さんはそのお野菜は好きだよ? ラウネはお母さんみたいになりたいんでしょう?」
「むぅー! でもでもぉ…」
「おねえちゃんもそのお野菜は大好きだよ?」
「でもでもでもぉ…苦いんだもん…」
「仕方ないわね。ちょっとおねえちゃんに渡して?」
「おねえちゃんがたべてくれるの?」
「…そうしてあげても良いけれど、そうしたら、ラウネがお母さんみたいになれないでしょう? だからこうするの」
「どうするの?」
「おねえちゃんが魔法をかけてあげる。ラウネがこのお野菜を食べられますように。このお野菜を食べて、お母さんみたいな大人になれますようにって」
「えー…そんなことむりだよぉ」
「大丈夫だよ。だって私は、ラウネのおねぇちゃんだから」
…ラウネがこのお野菜を食べられますように。
このお野菜を食べて、もっと大きくなれますように。
お母さんみたいな、大人になれますように……。
「はい、魔法をかけたわよ。さ、食べてみて」
「むぅー…ひとくちだけね! ひとくち!」
「うん、ラウネは偉いね」
「んぐんぐ……。あれ、にがくない! おいしい! おねえちゃんすごぉい!」
「…そうでしょう? だって、ラウネのおねえちゃんだからね」
「おねえちゃんって、まほうつかいだったんだ! わぁ、すごいすごぉい!」
「あと一つ残っているから、こっちにも魔法をかけておこうね」
「うん、ありがとう! …あ、わかった! きょうのおねえちゃんがおかあさんみたいなのって、まほうつかいだったからだ!」
「…そう、よく分かったね。今日のおねえちゃんは、まほうつかいなの」
昼食を食べ終わった後も、ラウネは興奮しきりだった。
他には魔法は使えないの、とも聞かれた。
ごめんね、まだあの魔法しか使えないのよと言うと、新しい魔法が使えるようになったら一番にラウネに教えてね、と。
私は、ええ、一番に…必ず一番に教えるね、と返した。
そう話している内に、ラウネはうとうととしている。
お腹いっぱいにパンを食べたのだから、眠くもなるというものだ。
お昼寝しよっか、そう言葉を出す前に、ラウネは眠ってしまった。
寝顔を見る。あどけない顔で、むにゃむにゃ言いながら幸せそうに眠っている。
あぁ、幸せなのは私の方だ。
かけがえのない時間を過ごせた。
これから数時間後、神隠しは起きるのだろう。
この場所から離れる事は出来た。
例えラウネが嫌だと言ってごねても、なんとでも出来ただろう。
ただ、きっとそれでは、楽しい思い出にはならなかった。
私は、私の意志で、今こうしている。
幸せだ。
そしてこの幸福も、終わりを告げる。